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転生者のこころあたり

最近なんだか、若様の様子がおかしい。

あれだけ目を合わせろと言っていた人が、何かの拍子にがばっと顔を逸らしたり、私が部屋に入ると妙に焦ったり。

明らかにおかしい。

でも、私は知らんぷりをしてやった。なぜなら、原因に心当たりがあったからだ。

今もまた、若様が急にどこかに行ってしまった。もともと何かを思い立って唐突な動きをとることも多い人だけど、私が近づいたとたんにだったから、さすがにおかしいと気付く。

つまり私は、警戒されているんだ。あれだけ子ども相手のように気軽に人の頭を撫でていた人に、だ。

ちらりとロンが私の様子を見てくる。

「ロン様、お気遣いなく。私は理由に心当たりがございますので」

「お前、気づいていたのか」

なんだ。どうやら、ロンにはばれていたらしい。それなら、言葉を選ぶ必要はなくなった。

「はい。あのあからさまな態度ですから」

「そうか」

ほっとしたように僅かに頬が緩んだから、ロンはロンで私に内緒にしようと思っていたんだろう。

「マーカス様ったら、私がロン様に言うかと心配しているのでしょうね」

「は?」

「ですから、また露天でおかしなハンカチを買わされたことですよ。それをいつばらされるかと戦々恐々な…え?もしかして別の品物でした?」

なんだか、私の言葉を聞いてロンは変な物を食べたような顔をしていた。ロンの言っていたのがあの『女神の祈り付き』とやらの蛇と女性柄ハンカチのことじゃないとすると、私は無駄に若様の内緒事をロンにばらしてしまったことになる。

不安になって聞くとロンはゆるゆると首を振って否定した。

「いや、それでいい」

それで、いい?合っているという意味か。

そうだよね、だって、若様がうっと言葉に詰まるような反応をしたり頭を抱えたりしだした最初は、ハンカチを借りたあの辺りからなんだから。

「鈍感で良かったのか悪かったのか…」

「何のお話です?」

「いや、いい。それより、わざわざ来たのは何かマーカスに話に来たんじゃなかったのか」

「あ、そうでした」

ここ2日ほど、私は裏庭の作業小屋を借りてチラシの修正作業を続けているのだ。適切な作業場所を得て、効率が上がったおかげで、すでに半分のチラシはもう城下に張り出されている。

ダブロー伯からの苦情は『捨てたチラシを誰かが勝手に利用したのだから分からないし関与しない』と若様がはぐらかしたというので、いい気味だ。大変でも、もともと単純作業は嫌いじゃないし、チラシのおかげか昨日一人の老人がギルドでお金を引き出す直前で騙されていることに気付いたという報告もあって、やる気は十分だ。残念ながら、未然防止の成功と同時に、『実は以前に』と新たな被害者も続々報告されているけれど。

話がそれたが、つまり、話があって作業を中断して執務室に来たのに、若様に逃げられたんだ。

「若様に伝えようと思ったのですけど、まあ、ロン様でもいいです」

「お前、俺に対してかなり失礼になってきていないか」

「いえ、相応の対応をさせていただいています。それで、調べていただきたいことがあるのですが」

「…まあ、いい。何だ」

やや不満げに細められたロンの目を無視して、私は詐欺師が何かの名簿を使っているはずだという話をした。

名簿のことは大分前に思い出していたのに、このところの騒ぎと忙しさですっかり忘れかけていたのだ。やっぱり大事なことはメモに残さないと駄目だ。

反省しつつ、できるだけ急がねばとこうして来たわけだ。

「それで、被害者の共通点を探して欲しいのです。もしかしたら、同じ店の顧客情報だとか、そういうものから空話をかけられているのかもしれません」

考えてみれば、こちらの一般家庭に空話帳というものは存在しない。

この世界に空話が広まったのはおよそ10年くらいのことで、もともと個人持ちの携帯電話のように拡散していった。だから、前世で一般的だったあの黄色い表紙の、商店から個人までの電話番号やファックス番号が載った分厚い電話帳のようなものは、存在しない。うっかりしていた。引きこもっていた私は当然空話も持っていなければ人にかけようと思ったこともなかったから、この世界の世間一般と前世とのずれに気付いていなかったんだ。

じゃあ、犯人はどういう経路で、空話をかけるターゲットを決めたのか。若様は引っかかりまくっている有名なカモだから別として、ギャビさんや他の被害者は。

「無差別だとすれば、もっといろいろな相手にかかっていていいはずです」

でも、この前集まった自警団の中からも城の関係者からも、そういう空話が来たという申し出はない。犯人はある程度相手を絞ってかけているはずだ。

「…確かに、どういう理由で被害者が選ばれたのかは気になっていた。周辺に出没してターゲットを選んだにしては、不審人物の目撃情報が全く上がってこないしな…顧客情報か」

ロンの青い目がいつの間にか真剣なものになっている。

「分かった。これはマーカスにも伝えておく」

「よろしくお願いします。私も、なるべく明後日には他の仕事に当たれるようにしますので」

さあ、残り250枚。


作業場所に戻った私は、筆を握った途端、思わぬ来客によって手を止められることになった。

「頑張っているわね」

「奥方様!」

麗しの貴婦人が、こんな場所に…いや、作業小屋とはいえ領主様のお家のものだからすきま風なんてどこ吹く風の立派な建物ではあるけど、私が大量のチラシを広げちゃってる場所に、と私は焦った。

慌てて立ちあがった私を見て彼女は軽く目を見開くと、それからうふふと声を漏らした。

笑い声が鈴を振ったような涼やかさだ。

鈴の女神?

うっとり見惚れる私の間抜け面もものともせず、奥方様は私の頬をハンカチでそっとぬぐった。

「絵の具がついているわ。可愛らしいけれど、隙を見せすぎるのも危険ですからね」

可愛らしいがどこに掛かるのか、危険がどこに掛かるのか、よく分からないけど、とにかく私ははいと頷いた。

そうすれば、奥方様はまたいいこね、というように微笑んでくださるのだ。

それから私は、奥方様に聞かれるままに修正作業の方法を話したり、やって見せたりした。はさみやら絵の具やらを使う子どもの工作のような作業を、彼女は興味深げに見つめていた。

「最近マーカスの様子がおかしいと聞いていたから様子を見に来たのだけど、何となく分かったわ」

「若様のご様子ですか」

お忙しい奥方様の耳にも入るほど挙動不審だってことだよ、若様。そして、奥方様はここにいらっしゃる前に若様のところに行って無駄遣いを暴いたのか。ご愁傷様だ。私はこの場にいない若様に手を合わせた。

「ヘスターちゃん、貴方、ほんの少し見ないうちにきれいになったわね」

「まあ…絵の具だらけで、お恥ずかしいです」

これは、百パーセント本心だ、謙遜じゃない。顔まで絵の具がついていたと指摘されたばかりでは、憧れの奥方様の優しさも恥ずかしいばかりだ。

でも、心優しいお方は、真剣な顔で首を横に振られた。

「本当のことよ。小さくて臆病な黒ウサギちゃんが震えているのも可愛いけど、臆病なのに頑張ってジャンプするのはもっと素敵」

…ウサギ?

奥方様のお話は、たまに飛躍するのでよく分からないことがある。

「ウサギが、お好きなんですか」

「ええ、大好きになったわ。息子にも勧めようと思っていたけど、もう必要ないかしら」

私たちのやりとりを聞いていた侍女さんが、くすくすと笑い出した。

「奥方様、かなり推されますわね」

「だって、あの子のこれまでの女性関係、本当に嘆かわいといったらないのよ。良くて一月、それも卒業学年のときはちょっとどうかというくらい来るもの拒まずで。私はね、何も自分の好みだけでウサギちゃんを勧めているわけではないの。ただ、家柄や顔で寄ってくる娘さんは続かないと思うのよ。うちは貴族でも贅沢を好む方ではないし、マーカスはちょっと抜けたところがあるもの」

なるほど、奥方様は若様の人恋しさを小動物で埋めようと、そう計画してらっしゃったのか。若様と子ウサギ。金髪のすらりとした美男子が小さな毛玉を腕にちょこんと抱いている姿を想像して、私はありかもしれない、と思った。美形って、何を持ってもありなのかもしれない。

そんなことを考えて黙っていたら、ふいに奥方様が私の手をとったので、びっくりした。

「奥方様、手が汚れてしまいます!」

私の手、絵の具だらけだし。

真っ白い白魚のような手に、絵の具なんてついたら。

でも、私の動揺をよそに、奥方様は平然と私の指先を撫でる。

「ヘスターの手は、とても器用なのね。それに、働き者ね」

紙で傷付いて、絵の具に染まった、どこに出すのも恥ずかしい指だ。

かあっと顔が熱くなる。でも、引っ込めようとする私の手を彼女は、今度は自分の指の側面に触らせた。

固い。ペンだこ、だろうか。

驚いて目を上げると、緑の目がにっこりと微笑んだ。

「…私の特技は、手紙で味方を増やすことなのよ。あまり貴婦人らしくない手で、幻滅させてしまったかしら?」

「いいえ!まさか!ますます、尊敬いたしました!」

美しい奥方様は、ただ微笑んでいらっしゃるだけでも大いにエセル領に貢献していそうだけど、それだけの方ではなかったらしい。

ぶんぶんと首を振った私に、彼女はとろけるような笑みを浮かべた。

「嬉しいわ。私たち、本当に気が合うわね。ますますばっちりだわ」

それから奥方様は、マーカスのウサギちゃんにフリルの準備をしないと、と去って行かれた。彼女と、謎の微笑みを浮かべる侍女さん達を見送って、私は再び作業に戻った。

若様、ウサギ飼うって決めたんだ。

私にもさわらせてくれるかな。

まだ見ぬウサギへの妄想と奥方様の激励のおかげで、その後の作業はハイスピードで進んだ。

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