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転生者とかないせいしゅこうぎょう

「よし…」

私のしようとしていることは、我が儘な悪あがきかもしれない。偉い人には偉い人なりのやりとりがあるんだから、私が意地を張ってもかえって邪魔かもしれない、という考えが、脳裏をかすめなかったといえば嘘になる。でも、落ち込んで萎縮して過ごすのは、もう何年もやったから。今度は、簡単にくじけてやらないって決めたんだ。

前世でよく聞いた『捨てればゴミ、活かせば資源』というスローガンが、頭によぎる。こちらはまだ資源の枯渇なんて問題に直面する気配がないから普段は意識しないけど、今経費と時間がない状況では、この紙は貴重な資源だ。

少し手間はかかったけど、今私は部屋中にチラシを散らばして立っている。

丸一日で、製作数30枚。

これは室内に広げられた枚数の最大値だ。今日ほど、部屋の広さに感謝したことはない。

夕食後には多分乾くから、そしたらこれを若様に見せるんだ。

「ヘスター一緒に夕食、…うわ」

入るなり絶句したのはライナス様だ。

「ライナス様、ノックをしてください」

着替えているときだってあるんだし、と毎度伝えている文句を口にするが、彼の視線は床から離れなかった。

「なんだ、これ」

かろうじて紙の侵食を免れた入り口付近に立って部屋中を眺め回す。

「使えなくなったチラシを直していたのです」

仕方なく私は説明した。

「なぜ、床に貼ってあるんだ?」

「紙の縮みを抑えるためです」

「ああ、そう…」

本当は板を用意してやるらしいけど、ないから仕方ない。絵の具は薄いし水性だし、床は水の染みない素材だし。ちなみに絵の具や他の道具は、急ぎ黒猫屋に届けてもらった。

「あ、このテープ、駄目でした?」

急に不安になって尋ねると、ライナス様はまじまじと私を見て言った。

「いや、父上も母上も僕が部屋の床に絵を描いても笑っていた人だから、そこはいいけど。ヘスターは、おかしなところで大胆だなと思って」

「そんなことは」

ないと思うと続けようとしたけど、ライナス様に遮られた。

「この前だって、急に一人で外に走って行ったらしいし」

それを言われると弱い。

返す言葉のない私に彼は腕組みして告げた。

「ともかく、夕食に誘いに来たんだ。この部屋じゃ無理だし、僕の部屋に来い」

「あ、はい」


簡単に身なりを整えて、ライナス様のお部屋で一緒にご飯を食べた。

この日の天使はいつになく甘えん坊だった。偉ぶっているのは相変わらずなのに、いつも以上によくしゃべり、なんだかんだと側によりたがる。どうやら、私が忙殺されていた間、奥方様もお忙しくて、ライナス様は人恋しかったらしい。貴族の世界も、内側はいろいろ大変だ。

食後のデザートの甘夏入りのクリームブリュレは少しお行儀が悪いけど、二人並んでソファーで食べた。そんなことをしていたら、気付けばもう時計の針は9時を過ぎていた。

若様たちは大抵10時過ぎまで仕事をしているから、まだ間に合う。廊下を小走りに急いで、部屋の床一面の紙を剥がして集める。紙は長い夕食の間に、ちょうど乾いていた。

大急ぎで三階に戻って、執務室の扉をノックした。日中はノック無しで出入りしているけど、一度退勤した後だから、一応。

「入れ」

扉越しでもよく通る声が言った。

私は間に合ったことにほっとした。

でも、いざ若様に対面すると思うと、今度は緊張が足の爪先から沸き上がってきた。

深呼吸を、ひとつする。

「失礼します」

ぐいと開いた扉の向こうは薄暗かったが、緑の目が見開かれたのが分かった。

「ヘスター・グレン」

慌てたように立ちあがる。その傍には、ロンが定位置でグラスを傾けている。

若様とロンは酒盛りをしていた。

「これは。その、すまない。お前が落ち込んでいるときに…」

若様はグラスを置いて言った。私が黙ったのを腹をたてたからだと思ったようだ。

「いえ、意外だっただけです。お構いなく」

どんちゃん騒ぎをしていたらさすがにむっとしたかもしれないけど、むしろ空気はどんよりしているし、そんな気持ちは湧かなかった。

ただ少し意外だっただけだ。若様って、社交の場で優雅に飲むのは想像できたけど、仕事が終わると部屋に戻っていたし、仕事終わりに一杯というイメージがなかったんだ。でもこの数日は私がいたからなかっただけで、彼らはよくこうして飲んでいるのかもしれない。そういえばロンは辛党らしいし。

「用事なんじゃないの」

飲むのを中断しようともしないで、ロンが言った。顔色ひとつ変わってないけど、言葉遣いが微妙に砕けている。お構いなくとは言ったけど、お前はもう少し気にしろ、と言いたいのを堪えて、私は胸に抱いていたものを差しだした。

「そうでした、見ていただきたいものがあって来たのです」

若様が顔を曇らせる。

「これは…昼間のチラシだろう」

え、と自分の手元を見下ろして、私は気づいた。この部屋、酒盛りのムードを出すためか、照明が落とされていて暗いんだ。急いでスイッチをひねりにいく。

「うお!」

ロンが目を押さえたけど、暗くて色の判別がつかなかった室内がぱっと明るくなった。

「最後の領主様の名前の載った部分は切り捨てました。それから、背景に入っていたエセル家の紋章は上塗りして消しました。これでもう、公文書ではありません。捨てるなら、どこかの誰かが勝手に配ってはいけませんか?」

下数センチを切ったせいで紙の形は不定形だけど、上塗りした絵の具はなかなかきれいに馴染んで、完全に紋章を消している。我ながら、単純な手作業の才能はあると思う出来だ。

二人は不思議なものを見るような目で近づいてくる。

「これは、どうしたんだ?」

「ですから、はさみで切って絵の具で塗りました」

「嘘だろ、これ全部かよ」

またしてもロンの言葉が雑だ。

でも馬鹿にしているとか否定するとかじゃなくて、本当に驚いているようだ。

「塗ったのか…」

「何枚か駄目にしてしまいましたけど、私にこのゴミをくださるなら、残りの470枚も塗ります」

そう言うと、二人の目が、チラシから私へ移った。

それがチラシを見た時より妙な顔で、そう、なんだか直立の好きなアザラシとか親父臭いカンガルーとか、そういうものを見つけたような。

私は無言のプレッシャーに耐え兼ねてまた口を開いた。

「あの、やっぱり使ってはいけませんか?それとも、貧乏くさいですか?目的は内容を読んでもらうことですし、公文書でなくてもある程度効果はあると思うのですが・・・でも、もしこれで駄目でしたら、塗りつぶして裏に手書きのチラシ作りますから!」

あ、そうしたらさらに貧乏くささは増すか。本気で個人的な貼り紙としてお店に配るんでもだめかな…もし私が関わっちゃ駄目と言われたら、奥の手でお姉ちゃん達に頭を下げて2人が作ったことにしてもらおう。

私は突っ走ってやるって決めたんだ。思い込んだら、とことんやるのが私なんだ。街中の楽しい行事に目もくれず何年もストイックに引きこもり生活を決め込んできたヘスター・グレンなんだ。

だから、せめて良いか悪いかくらい、言ってよ。

そう念じていると、先に口を開いたのはロンだった。

「本当に変なやつ」

失礼な。

「泣いて閉じこもってると思ったら、なんか大量生産してるし。マーカス、こいつ、心配するだけ無駄だ」

「え?ああ…」

言いながらロンはさっさとまた酒の方へ戻っていく。

「チビだしよく泣くから騙されるけど、この女、見た目よりずっとしぶといし図太いぞ。あー、せっかく秘蔵の酒をお前の悩み相談に使ってやったのに。本当にもったいないことをした」

なんだか、けなされている気がしてならない。

大体、お前に心配された覚えは毛頭ない。私はロンに一言言ってやりたい気持ちをぐっと堪えて、若様を見据えた。

「ロン様の暴言はさておいて、このチラシは、使わせてもらっていいでしょうか?」

見上げた緑の目が、明るい室内で今度ははっきりと見える。くっきりきれいな猫のようなライン、その間の整った鼻梁。ああ、また頬が熱くなる。

でも駄目だ、マーカス・エセルという人に認めさせたいと思ったのだから、目を逸らしてはいけないんだ。どんなに全身の血が沸騰しようと、頬が熱くて恥ずかしかろうと、もっと嫌なのは、ここでしっぽを巻くことだから。仲間と言ってくれた人に、認められずに終わることだから。

すると、若様がふいにふわりと笑った。

「全く、ロンではないが、お前は確かにおかしな奴だな。てっきり落ち込んでいるとばかり思っていたのに」

「勿論、落ち込みました。でも、取り返したかったのです」

努力の証と、期待を。…後者は、もともとなかったのかもしれないけど。

「ロン様は、こっちが何とかするとおっしゃいましたけど、自分で、取り返したいのです」

若様は、ちらりとロンを振り返って、彼が知らんぷりでグラスを煽っているのをみてくすりと口の端をあげた。

「せっかく任せた仕事を無駄にさせたし、どうも私の言葉足らずで傷つけたようだから…気になっていたんだ」

それから若様はいつものほがらかな笑顔を浮かべた。

「でも、お前は自力で取り返しにくるんだな。ああ、勿論、それは使おう。紋章も消えているし、『個人が勝手に』貼っても問題ないだろう。あの髭男に、一泡吹かせてやろう」

「ありがとうございます!」

安堵と嬉しさで涙腺が緩んだ。でも、どこかの誰かに『ずぶといくせによく泣く』とか『猿みたいに赤い顔で泣かれても』とか言われるのはしゃくだから、こぼれそうになるのをぐっと堪えた。

「!」

若様が突然ぐわっと頭を抱えた。

「マーカス様?!」

「マーカス?」

「…何でもない、急に部屋が明るくなったせいで目が痛いだけだ・・・そうだ、照明を落としてくれないか」

結局そのあと、心臓も痛いと言いだした若様の体調を心配してろくに話はできなかったけど、ともかく私の家内制手工業は採用ということになった。

サブタイトルが読みにくくて申し訳ありません。

かないせいしゅこうぎょう=家内制手工業です。この世界は活版印刷も携帯もどきもありますが、ヘスターのやるのは地道な手作業です。

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