転生者はむりょくをかたる
「全く、人騒がせだこと」
「すみません」
「ただでさえ下座は酔いやすいのに、下を向いて乗るなんて」
「ごもっともです」
ナン女史の声は冷たいし呆れを隠しもしない。
でも、あのあと壁際の大きな花瓶から花を抜いて私に吐けと差し出してくれたのも、今、向かい側を見られないときは窓の外を見ればいいでしょう、と言ってくれているのも彼女だ。
私が顔に当てている冷たいタオルだって、彼女がさっき持ってきてくれた。
案外最初の印象よりも、いい人なのかもしれない。
私は、座らされたソファにもたれながら、彼女が立ちあがるのを眺めた。
今日も灰色のツーピースをかっちりと着込んだナン女史は、私の斜め向かい、若様の正面に座るときりりと前を向いた。
「すっかり本題を伺いそびれてしまいましたけれど、それで、どのようなご用件でいらしたのですか」
ことさらつんけんと言った彼女も、照れ隠しに怒っているように見えてくる。
「これは失礼しました。今日は改めて法制化に向けた相談に来たのです」
生真面目な顔を作って言った若様を、私はタオルの端から目だけ出してぼんやり見ていた。やっぱり正面から見ても綺麗な鼻筋だ。真面目な顔をするといつもの残念な部分が薄れて、ますます美しさに磨きがかかる。この顔があの至近距離に・・・駄目だめ駄目。考えちゃいけない。
一人タオルの陰で顔を赤くする私をよそに、ナン女史は若様の言葉を聞くと、見事にお面のような顔になった。
「先日お話しした通り、まずあなた方の案を伺ってからの相談になります」
「はい、そうおっしゃいましたね。ですから今日は、法案以前の、さーぎの認識を確認したいというお願いに来たのです」
あ、若様ったらまた間違えた。
一気に残念臭が漂って、ナン女史の顔も引きつる。
「さぎ、ですね」
「ああ、そうです。つまり、我々のさぎについての知識に間違いがないか、確認していただきたいのです」
若様も一応、『誠意を示す』ための訪問とはいえ、用件を用意して来たらしい。知識の確認ね、うん、絶対必要だよね。
しかし、ナン女史は一瞬目をすがめると、薄い唇をゆがめた。
「・・・ヘスター嬢は、信じられませんか」
ひどく意地悪な声だった。
私はどきりとした。そういう見方もできることへの驚きと、彼女の声による痛みと、それから若様がなんと答えるのかという怯えが胸に渦巻いた。
「当然信用しています」
若様ははっきりした声で返したので、私は幾分安心した。少なくとも上司は私を信用していると言っている。そう、あの髭や眼鏡に疑われたときも、彼は疑おうとはしなかった。だから、その点に関してはやっぱり心配しなくていいのだ、と思った。
でも、場の空気は変わらなかった。
「では、彼女の知識を信頼すればそれでいいのでは?」
ナン女史が素っ気なく言った。
そして若様から目を逸らした。まるで、この話はこれで終わりだというように。
え、ちょっと待ってよ。
「それは困ります」
私は思わず口走っていた。
三対の目がこちらを振り向いた。皆、何を言い出すんだという目をしている。
それを見てしまって、私は慌ててタオルに目を落とした。でも、説明しないと。若様の今日の主目的はここへ来ることの方だから、もしかしたら用件はあっさり引き下げてしまうかも知れないから。それは困る。だから、自分で説明しないと。
口の中にまた酸っぱいものが込み上げてきたけど、根性で飲み込む。
「私だけの知識では、困ります・・・私は間違っていないつもりでも、私の前世の知識は、全て古い・・・16年以上前の記憶なのです」
自分が唾を飲み込む音がやけに響いて、いやだ。それに動揺しながら話すから、ただでさえ上手くない話がますます途切れがちになる。
「それは、発言に責任を持ちきれないということですか」
自信がないのかと、彼女に問われた。揶揄するような口調だったから少し傷ついた。でも、売り言葉に買い言葉で自信はありますなんて、言い返せない。だって。
「責任は、感じます。だからこそです。だって、事は、国の法律にまで関わるのでしょう?あやふやな知識をもとに国の法律が決まってしまったら恐ろしいです」
元々私は、詐欺についての知識を伝えればいいだけだと思っていたけど、若様はそれをもとに法を作ろうとしている。協会とも協力するというから知識を持ち寄るのだと勝手に考えて少し安心していれば、蓋を開けてみればまるではんこだけ押しますという態度だ。それじゃあ、まずい。
法律って、それで誰かが罰せられたり、逆に罪に問えなかったりするものでしょ?それなのに、私みたいな若造一人の知識だけを土台に決めたら、絶対に穴だらけだ。ただでさえ穴を見つけて罪を逃れようとするのが犯罪者だろうに、最初から穴だらけじゃあ、問題外だ。前世でも法律が決まった後から新しい種類の犯罪が生まれて、それに対応するためにいろいろ改正していたけど、それは、その間に被害にあった人にとっては気休めにしかならない。
私に課せられた仕事は、前世の知識を生かして『未然に』被害を防ぐことなのだ。この世界で詐欺被害が山ほど報告されてから、やっぱり穴だらけだったから法を改正します、では意味がない。
「・・・だから、たくさんの転生者の目を通すのが一番だと思いますけれど、せめて、過去の誰かの知識と照らし合わせることだけでもしなければ」
我ながら珍しく長台詞を吐いた。
私はどっと疲れを感じて、またタオルに顔をうずめた。話すにつれて、あやふやだった責任の重さがじわじわと自覚されてきて、その重圧が肩にのしかかっているようだ。
三人は呆れたのか、黙ってしまった。ナン女史は仕方ないにしても、あと二人は理由が違っても一応主張は同じなんだから、何か同意を示してほしい。特に若様、貴方おしゃべりなんだから、何か言えるでしょ。適当なこと言って場をつなぎなさいよ。
やがて、ナン女史が妙に慎重な口調でこう言った。
「あなたには、自分が国を動かすのだという気概はないのですか」
国を動かす?あるわけない。
「そんな大それたことは考えられません」
ぎょっとして首を振ると、重ねて聞かれた。
「あなたが携わった法は後々、ヘスター法と通称されるかもしれないのですよ。その名声を得たいとは思わないのですか」
「勘弁していただきたいです」
なんの嫌がらせだ。
「それは、何故ですか」
「再就職の妨げにしかならないからです」
就職という目標は一応果たしたものの、この職場は一時的なものだ。いずれは別の仕事を探さなければいけない。そうなれば、役にたたないのに下手に名前だけ知られている転生者なんて、条件が悪すぎる。
私の心底嫌だという声を聞いて、彼女は再就職、と呟いた。それからふっと息を吐いたようだった。
「・・・なるほど。あなたの考え方は分かりました。エセル様のおっしゃったことももっともな主張ではあります。ただし、協会にも三原則に触れる事象は詳しく記録されていないのです」
「・・・そうでしたか」
かなりがっかりして、身体の力が抜けてしまった。頼みの綱の協会に知識の記録がないのなら、一体何を頼ればいいのだろう。途方に暮れる。
でも、それをナン女史にぶつけても仕方ない。
「無理を言ってしまったようですね。申し訳ありませんでした」
若様が後の言葉を引き受けてくれたので、私たちは退散することにした。
結局収穫はなく、私が醜態をさらしただけで終わった。
しかし、若様の足取りは機嫌良さげだった。
「まあまあだな」
「まあな」
ロンも涼しい声で返した。
私には何がまあまあなのか分からなかったが、今度こそ酔わないようにと窓の外に意識を集中していたので聞けなかった。もっとも、そうじゃなくてもわざわざ口を挟まなかっただろうけど。




