転生者とばしゃのたたかい
「おはようございます」
「おはよう」
「おはよう」
・・・わあ、居た。
残念ながら、翌日執務室に入ると、ロンも居た。
若様の側近なのだから当然だけど、もしかしたらまた別の用事で居ないかもしれないと期待していたので、2人分の返事が返ってきたのを聞いて私はがっかりした。
ちなみに彼も一応上流階級のご子息様だから、本当はロン様もしくはケンダル様と言うのが正しい。必要があればケンダル様と呼ぶつもりだが、昨日のいきさつがあるので、頭の中では呼び捨て上等、ロン呼び決定だ。
それにしても、私はロンより後から勤め始めたわけだし、身分は別にしても、一番最後に現れるのはまずいかもしれない。ここでの勤務時間は朝食がすんでから夕食まで、昼とお茶の時間が休憩のようだが、上司がアバウトだし一人の時間もあって、適当だ。デスク仕事のノルマも言われていないし。一度ちゃんと確認した方がいいかもしれない。あ、ついでに、他の机も拭いた方がいいのかとかも。
そんなことを考えながら持参の布で机を拭いて机上の仕事道具をセットしていると、視線を感じた。水色の目が無表情にこっちを見ていた。げ、目があった。
そのとき、若様が言った。
「今日の予定を話すぞ」
若様が言うんだから、私は話を聞かなきゃいけないからね。堂々と目をそらすよ。
私とロンが聞く体制になると、若様は話し出した。
「今日の午前中、協会に行く。こちらから出向いて、誠意を示してみようと思う」
わあ、もしかして初出張。思ったより早いので、私は緊張した。
「まあ、あちらは独立機関だから立場は対等だし、それも一つの手だな」
ロンも同意し、午前中の動きが決定する。
でも、私は頷いたり返事をしたりはしなかった。だって、私は行かないかもしれないからだ。お前も来いとはまだはっきり言われてないしな、と私はこっそり悪あがきをしていた。
「では、今から出るぞ。ヘスター、お前も荷物をもってこい」
「・・・は、い」
今すぐなんですか?そして、やっぱり私も頭数に入っているんですね?
行き先は隣町だから、馬車移動だろうし近所の人間にも会わない。10年以上通っている協会だし、徒歩でお城まで出勤してきた今の私なら、きっと行ける、と思う、多分。でも、せめて心の準備をする時間がほしい。
私の逡巡が伝わったのか、若様がこう補足した。
「母に話が伝わる前に出ないと、また着せ替え人形が始まるからな」
ああ、そういう理由か。
私も昨日の騒ぎを思い出すと遠い目になってしまう。ピンクのひらひらと全身擦り揉みされることの羞恥心とを考えれば、本当に一刻も早く出発するべきだと自然に頷いていた。身体も素直に扉へ向かって動き出した。これはもう、立派にトラウマと言えるレベルかもしれない。
そんなわけで、帽子と手持ちの小さなバックだけを急いで取りに行って、私は金銀コンビの後に従った。若様が私的に使う馬車は城の表門ではなく、領主様御一家の居住空間にある人気のない門につけられた。
四人乗りの馬車に三人で乗ると、進行方向に背中を向けた下座に私が座ることになる。それで金きらと銀きらが目の前になるわけで、上等な馬車だから前世の電車のポックス席みたいに膝をぶつける距離じゃないけど、普段より俯かないといけなかった。
「そんなに下を向いていると酔うぞ」
若様には何度かこう言われたが、お気遣いなくと言うしかない。引きこもりには馬車の揺れより目の前の美形が毒なのだ。
幸い、馬車は滑るように進み、若様のおしゃべりもロンという突っ込みを得てさらに快調だった。おかげで、私が向かい合った気まずさと馬車酔いでいよいよ破裂する前に、なんとか協会に着いた。
ガラスのドアを開けて入ると、見慣れた顔の職員さんがロビーに現れた。
「こんにちは。おや、エセル様にヘスターさんも。・・・真っ青ですよ、大丈夫ですか」
黒ぶち眼鏡の優しいおじさんは、大丈夫と主張した私に困ったように沈黙したから、若様たちと見比べたのだと思う。前に立つ若様が肩を竦めたのが分かったから。
「ええと、ではとにかく腰を下ろして下さい。『さぎ』の件でいらしたのですよね、今担当を来させますので」
部屋に通されると若様たちがさっさと座ったので、私もすぐに腰を下ろせた。
下っぱが真っ先に座るわけには行かないもんね。バイト仲間とカラオケ行ったって、一番インターフォンに近い場所に新入りの私は座ったものだ、と少し逃避しながら呼吸を整えているうちに、もう一度扉が開いた。
「おはようございます。わざわざいらっしゃったのですか・・・」
ナン女史は嬉しくなさそうに言った。
でも、その声はすぐに驚きに染まった。
「ヘスター嬢?どうしたのですか」
ごめんなさい、答えられません。
今しゃべったら、吐くから。この真新しい仕事着だけは死守しないと。
ナン女史が来たからって急いで立ち上がったのがいけなかった。私はのど元までせり上がった吐き気と必死で戦っていた。
「とにかく、早くお座りなさい!」
栗毛の彼女は、口を押さえた私に大急ぎで駆け寄ってきた。




