転生者のごしゅっきん
急に決まった就職は、私をいくつかの問題に直面させた。
そのうちの一つは、服の問題だった。何年もろくに外出しなかった私の衣装箱は圧倒的に不足していた。しかしこれはすぐに解決した。
「あんたのサイズで、とりあえず数着買って届けるよ」
母が平気な顔で言ったとき、私はちょっと驚いた。
普段割った皿の代金を小遣いから容赦なく引いていくのと同じ人間とは思えなかったからだ。聞けば、毎月協会から支給される給付金は子どもの頃からの習慣で両親に渡していたのだが、それがそっくり貯めてあるのだという。
「もともとこういうときのためのお金だからね」
母はそう言って、翌日の昼休みにそれなりの服を買いに行くようにと、姉たちに指示した。おかげで私は着た切り雀にならずにすんだ。
二つ目の問題は、なんだかよくわからないものだった。
夕方訪ねてきた数件先の八百屋が、私の就職の話を聞きつけると何故か、いつまでなのか、どんな仕事なのかと心配し、しまいには自分の店で働けばいいと言い出したのだ。
彼は私が転生者協会以外に訪ねる唯一の店の息子で同級生でもあったが、こんなに面倒見のいい人だったとは驚いた。ありがたい申し出だったけど、城への就職は監視の代わりの意味でもあるので、丁重にお断りした。第一、八百屋の客商売に私を雇うメリットはないから、彼の親父さんは頷かないと思うし。
三つ目の問題は、最初から一番の難題として私の胃袋を圧迫していた。
それは翌朝の出勤だ。
城に着きさえすれば、しばらくデスクワークだと若様が言っていた。でも、初出勤のこの日は、どうしてもまたお城まで行き着かなければならなかった。
昨日の捕り物が夕刻に片づいた後、若様は家には使いをやるからこのまま城にとどまっていいと言ったけど、それでも一旦家に帰りたいと主張したのは私だ。だから、歩いていけませんなんてとても言えない。
でも、朝の街は店を開ける人や仕事場に向かう人で、人通りが激しい。転生者協会へ行かないといけない日は、いつも午後の人が少ない時間帯を狙って裏通りを駆け抜けていたし、この前は嫌々だけど若様たちと一緒だった。それを、1人で!人混みを!となると、また足が竦む。
その上昨日朝も夕もお城の馬車が来ての今日だから、家の前を通る人たちはちらちらと我が家に視線を送ってくるのだ。
早朝、二階の窓からそれを見てしまって、私は激しく後悔した。
1人で!人混みを!視線の中!なんて、最凶コンボじゃないか。
情けないけど、朝食はほとんど食べられなかったし、扉の前に立つに及んでも足が震えた。
「やっぱり一緒に行こうか?」
モナ姉の申し出は飛び付きたいくらいありがたかったが、私は首を横に振って断った。心配げな姉たちの顔を見れば、ここでまた不安に思わせるわけにはいかなかった。
私はこわばった頬をなんとか持ち上げて笑顔を作って言った。
「行ってきます」
深呼吸をして、目をつぶってえいと扉を開けた。
その瞬間、早朝の空気がひやりと頬に当たった。どきんと一際大きく心臓が跳ねた。
俯いていたし、帽子もしっかり被ったし、早足になったのも否めない。
それでもこの朝、私は初等学校を卒業して以来、実に6年ぶりに朝の雑踏へと足を踏み出したのだ。
半ば駆け足で逃げるように家の前の通りを抜けて、城を目指す。
せめて裏通りを使いたいけど、今日のスカートの裾は舗装していない路地を抜ければ泥だらけになってしまう長さだから、涙をのんで我慢する。
道を行く人の目が、全て私へ向けられているような気がしてくる。
「ほらあれ…」
息が切れて足を緩めた途端、誰かの声が耳をかすめて、また必死で足を動かした。
私のことじゃない。私の話じゃない。違う違う関係ない!
何を話していたかなんて分からないのに自分のことに思えてしまうのは、自意識過剰だと分かっているけどどうにもならない。
家へ逃げこまなかったのは、ただその場を離れることしか考えられなかっただけだった。
それでもなんとか城の門が見えたとき、私はもう泣く寸前だった。もう、立派なお城が怖いという考えは私の頭の中に無かった。とにかく街の人目以上に怖いものはこの時の私には無かったのだ。
「ごめん下さいませ。ヘスター・グレンと申します。若様の…あの、マーカス・エセル様のお仕事を手伝うために参りました」
口早にそう告げると、門番のおじさんはすぐに通してくれた。
話が通っていたようで、助かった。
若様に到着を告げるからと、しばらく入ってすぐの小部屋で待たされたが、もうここについた時点で私はやりきった感でいっぱいだった。
偉い、私。
ちゃんと来れたよ。
1人で歩いたんだよ。
朝の人混みをだよ。
やればできるじゃない、私。
自分を褒め称えていたら、緊張が解けて涙がこぼれた。慌ててハンカチで拭いていると、間の悪いことに扉が開いた。
「…なんで泣いているんだ?」
デリカシーのない男だよ!
若様がストレートに指摘してきたので、私は恨めしい思いで彼を睨んだ。
「引きこもりの勝手な事情ですので、放っておいて下さいませんか」
しかしデリカシーのない登場に気をそがれて涙が収まった私は、そのまま彼に連れられて城の奥へと入った。
向かったのは、昨日恐怖の食事会が行われたのとは反対側の棟だった。
「西半分は公的な施設で、こちら半分はエセル家の住居みたいなものだな」
歩きながら他にも説明されたのだが、前世から地図の読めない女だった私は、何度か曲がり角を曲がっただけでもう分からなくなってしまった。
「本当なら、お前の立場はうちの使用人ではないから、西棟の外にある官舎に入るのが妥当なんだが、一応こちらに入ってくれ」
『なんだが』という例外的な判断には、昨日の髭男や眼鏡男の存在が関係しているのだろう。
私は素直に頷いておいた。
執事のグレアムさんや、ふっくら優しげな侍女頭のハンナさんに挨拶をして、二階の一室に入る。
「ここがお前の部屋だ」
ちょっと待って。
「あの、これって客間ではないですか」
「そうだが?ああ、浴室はないが、シャワーはついているぞ」
浴室なんて、下町の住居にはもともとついていないよ。皆銭湯に行くんだよ。
「そうではなくて!」
私は若様の目を見て説明した。
「私は客でも貴族のお嬢様でもありませんから、こんなお部屋にはいられません」
若様は眉を寄せ腕を組んだ。美形だからそれも絵になるけど、それはどうでも良くて。
「だが、官舎は危険だ」
ああもう、どうしてこの人はこんなにとんちんかんなんだろう。
「そうでなくても、下っ端の使用人のお部屋とか、あるでしょう?」
このお城の規模を考えれば、使用人全員が通いということはありえない。
「まあ、ヘスターちゃん」
ころころと鈴を転がすような笑い声に振り返ると、そこには昨日お顔を拝見した、奥方様がいらした。
「母上」
私ははっとして頭を下げた。
「奥方様、昨日はわざわざお招きいただいたというのに、途中で席を外すようなことになり、大変申し訳ございませんでした。その上今日もこちらからご挨拶に伺うべきところを、このような形で、失礼いたしますことを、お許し下さい」
昨日の夜からずっと考えていたから、すらすら言うことができた。
「何も失礼なことなどありませんよ。さあ、そんなに畏まらずにお顔を上げてちょうだい?」
「はい…」
顔を上げて、と言われると俯き続けるのも失礼になる。私は恐る恐る奥方様のお顔を見上げた。背の低めな私には、すらりとした彼女の顔は見上げる位置になる。
同性の私から見ても、とても綺麗な人だ。若様と同じ緑の目は慈愛に満ちていて、金褐色の髪が王冠のように彼女の卵形の顔のまわりを彩っている。緊張しながらも、うっとりと見とれてしまいそうになる。
その美しい面差しを少し陰らせて、奥方様は言った。
「昨日も伝えたけれど、貴方は我が家の恩人よ。それを、こちらの都合で城につなぎ止めるようなことになって、本当にすまないと思っているの」
「そんな」
「いいえ、本当のことよ。若い娘さんを無理にお預かりするのですもの、何をしても足りないくらい」
奥方様に手を握られて、その近さと温かさに、私はかあっと顔が熱くなった。
「だから、せめて貴方には自分の家だと思ってくつろいで欲しいの。このお部屋も気に入ってくれると嬉しいわ」
近づいた奥方様からは良い匂いがして、何も考えられなくなる。
「ね?私のお願い、聞いてくれるかしら?」
頭に血が上って何も考えられなくなった私は、気付けばこくこくと頷いていた。
途端に奥方様はぱっと顔を明るくした。
「嬉しいわ。それじゃあ、私のことは第二の母だと思ってね。何か困ったことがあったら、すぐに言ってちょうだい」
「はは…?」
ははって、母ですか?
「ええ。うちは男ばかりだから、娘ができたようで嬉しいわ」
「む…?」
奥方様そろそろ、とお付きの侍女さんが囁いたので、彼女は私の手をそっと離した。
「うふふ。それじゃあ、またね」
奥方様が嵐のように去っていくと、若様がため息をついた。
「あの人は強引で困る」
ああ、若様はお母様似なんですね。
でも、分かる。美しい顔にぼおっとなってはっきり否定できなくて、そのうちにうっかり流されて、この部屋は無理ですと言えなくなってしまった。
「母は小さくて可愛らしいものが好きなんだ。お前、着せ替え人形にされかねないぞ」
あの美しい人に手を握ってお願いされたら、私は真夏だろうと蛙の着ぐるみだって着てしまうかもしれない。
「とりあえず、荷物を置いてこい」
「はい…」
大きなベットにも艶々のテーブルにも、私の薄汚れた手持ち鞄を置くのは申し訳ない。うろうろしていると、戸口の外で待っていた若様がため息をついて近づいてくると、さっさと鞄を取り上げてテーブルに置いてしまった。
「遅い」
「…すみません」
庶民の逡巡なんて、貴方には分からないでしょうね。
こっそり思ったが、わざわざ手間をかけさせたのは確かなので黙っておいた。