転生者のマナーレッスン
しっとり落ち着いた高級店の中は、平日ということもあり人が少なかった。
さらに案内されたのが個室だったので、人目がないことに私は正直ほっとした。
メニューは、あれだ。値段が書いていなくて、一体何が出てくるのかという料理名のやつだ。でも若様がさっさと2人分頼んだので、これも問題なかった。
あのドレスの後のせいか、高級店にも皿にもあまり緊張しなくてすんでいる。これは、金銭感覚が麻痺してきているんだろうか。
これは非日常、とこっそり腿をつねって自分に言い聞かせながら若様の世間話を上の空で聞いているうちに、料理が出てきた。うちのランチの10倍はするだろうコース料理で、野菜のポタージュから順に運ばれてくるスタイルは、前世のフランス料理のフルコースと同じようだ。
迷いもせずに外側のスプーンを手にした私に、若様は驚いたようだった。
「なんだ、大体分かっているんだな」
「はあ…」
転生前の知識が役立ったことなんて今までにないけれど、珍しくこれは役に立ったと言えるのかもしれない。
前世の修学旅行、なぜか夕食会場でテーブルマナー講座があって、皆でフィンガーボールだのナイフを使う順番だのとやらされたのだ。いつか恋人ができて、素敵なレストランにいくような日が来るのだと夢見ていた私は、安いカツレツに大げさなテーブルセットという謎のシチュエーションにもめげず熱心に取り組んだ。その後の短い人生では残念ながら高級レストランに入るような機会はなかったが、20年越しで役に立つ機会が来たということだ。
うれしくないけど。
でもこれ以上、前世の知識を役立てている印象はつけたくないので、若様には黙っていることにした。
大体、食堂の日常生活に近代日本学生の知識が役立つことなんて、まずない。むしろ常日頃、のんきな学生だった記憶に勤労意欲を邪魔されて困っているくらいだ。
ちなみにこちらの世界にも学校はあるが、庶民は初等学校で読み書き計算と簡単な歴史を習うくらいだ。なぜなら、職人が重用されるこの世界では、庶民は早くから修行を始めるか家業を手伝うからだ。ついでに言うと、就職が早いせいか、結婚年齢も庶民では20前後と早めだ。
一方、貴族や一部の富裕層は、中等教育を受けることが多いと聞く。騎士学校などの高等教育への足掛かりとなるためで、詳しくは知らないが、そちらの学校では上流階級のマナーも習うらしい。だから上昇志向というか玉の輿希望の強いお嬢さんは、中等教育を受けるんだとか。
「お前、中等学校へ行ったのか」
「いえ」
初等学校を出たあとは、さっさと引きこもって家の手伝いに専念していた。
実は、客商売に不向きな性格をしている私に両親は中等学校へ行ってもいいと提案してくれた。さほど無理をせずとも通わせられるし、店の方はなんとかなるからと。
でも、早く店の手伝いをして家にいる理由を作りたかった私は断ったのだ。
「ふうん。それにしては良くできている」
若様に追及されなかったのは助かった。
「これなら、たいして教えることもないな。強いて言えば、婦人はもう少し一口を小さく切ると優雅に見える」
私は頷いて、もう一口分肉を切った。
ここの肉はほろりと崩れるほど柔らかいので、切りやすくて助かる。
残念ながらマナーと金額を気にしながらなので味わう余裕がないが、きっととろけるようなお味だろう。
「そう、そのくらいだ」
合格が出た切り目を咀嚼する。
何が悲しくて、異性に食事マナーのチェックをされなくてはいけないのだ。領主夫妻も若様も善意なのだろうが、全くうれしくない。
もう、とにかく早く食べ終わってこの苦行から逃れよう。
私は真剣にナイフを動かした。
長い長いフルコースがようやく残すところデザートとなったとき、若様が言った。
「じゃあ、そろそろ本題に入るか」
マナーの話が本題だったはずじゃないの、と私は胸の中で突っ込んだが、実は、そら来た、と思ってもいた。
若様は、きっと『詐欺』について詳しく聞きたいはずだと思っていたから。
しかし、若様は明後日の方向に爆弾を落とした。
「実は、食事会には両親以外にも、領内の要人が何人か同席する」
はあ?
「父と母は単純にお前に礼を伝えることを第一目的にしているが、そうでない人間も同席する。恐らく、かなり長引くだろうことを、伝えておこうと思ってな」
何それ。
知らないうちにハードルが上がってるし。
「食事会とも聞いていませんでしたし、他に同席なさる方がいることも初耳です」
怒りを声にのせれば、若様は綺麗な眉目をしかめて難しい顔をした。
「話が大きくなったことは認める。しかし、ここ数日の間にいろいろ状況が変わったのだ」
「そもそも、私は、別にお礼を言っていただくほどのことをしていません。その会自体を、無かったことにしていただきたいのですが」
だって、お城に行くってだけでも私にとっては無理難題だったんだ。
その上食事だ、しかも他にも偉い人がくるだなんて、そんなの話が違う。偶然助けた人の親御さんに会うだけなら個人的なものですむけど、他の要人も来ますとなれば、それは公的な食事会だ。完璧にキャパシティオーバーだ。
私は本気だ。流されてここまで来てしまったが、もうこれ以上は我慢ならない。
「ドレス代は、何年かけてもお返しします」
「ヘスター」
「このお食事代も、家に帰ったら」
「ヘスター・グレン」
若様が大きな声を出したので、臆病者の私は思わず口を閉じてしまった。
彼は、少し声を落として宥めるように続けた。
「無理だ。この前の件へのお前の関与が警備隊にも報告されて、彼等が同席を望んだのだ。食事会を無くしても、警備隊はお前に別の形で接触してくるだろう」
どういうこと?
警備隊というのは、前世でいう警察と軍隊を合わせたようなものだ。領土ごとの独自の組織だから、活動範囲は日本の県警よりやや広く、規模は軍隊を兼ねる分かなり大きい。
普段から街の巡回はしているが、犯罪でも起こさなきゃ呼び出されるなんてことは無い。突然警備隊が家に来て、連れて行かれたりしたら、街中の人に私が何かをしでかしたと思われるだろう。
そもそも、私、なんでそんな人たちに接触されなきゃいけないの?
理解できない、と思ったのが顔に出たのだろう。若様はため息をついた。
「おそらく、警備隊は近頃急増した犯罪にお前が即座に的確な答えを出したせいで、不信に思ったのだろう。お前が嫌がることは予想がついたが、彼等と単独で接触するよりも両親もいる方が安全だと思う。そう考えた結果の、食事会だ」
『彼等』と言った若様の口調がなぜか怖くて、私は会ってもいないその人たちに不信感を抱かれたことにぞっとした。
その方が安全とは、どういう意味だろう。
領主様方がいないと安全でないということになる。お礼をどうのと言っていたはずなのに、いつの間にそんな危険な話になったのだろうか。
「土曜は仮病を使わずに出てもらいたい」
納得できないことはたくさんある。でも、若様の口調は真剣だったから。
「…はい」
私は渋々、うなずくしかなかった。
「では、『さぎー』について、詳しく教えてくれ」
私はためらった。
嫌々城行きを承諾させられた直後で、まだ背筋がぞくぞくしている。
こんな状況に陥ったのは、そもそも若様相手に転生知識を漏らしたせいなのだ。素直に知識を伝える気にはなれなかった。
「『さぎー』と、お前は言っただろう?」
そんなことは言ってない。
さぎーって何。
「話したくないのか。ただ、ここで『さぎー』について聞いておかないと、こちらも対策がたてにくいんだ」
話したくないよ。でも、それよりもう聞いていられない。
「…『さぎー』ではなく『詐欺』です」
「さーぎ?」
この人といると調子が狂う。
「さぎ、です」
顔をあげて、ゆっくり、はっきりした声で告げる。
だってこんな良い声なのに、間抜けな発音を繰り返しているんだもの。無駄遣い感が半端じゃなくて、聞いていられなかった。
「そうか、『さぎ』か」
若様の声は、私が口を開いたことに満足げだった。
そこで恨めしさから若様の顔を見て、私はため息をついた。
無駄に綺麗な緑の目が、きらきら輝いていた。こっちはいろいろ逡巡を乗り越えて話そうとしているのに、なんだこの生き物。すでに好奇心いっぱいじゃないか。でも、好奇心に目を輝かせる美形とか、ビジュアル的に許されてしまうのがずるい。
それからしばらく、詐欺とは他人を騙すことで、それによって相手から不当に財産を巻き上げるという犯罪を差すということを説明した。会社を騙したり、個人を騙したり、価値のない物を高値で買わせたり事故を装って金を出させたりとその手口が様々であることも。
その間、何度か『さぎ』と上手く発音できない若様に『さぎー』ではないと訂正する必要があった。意識したことがなかったけど、今私が話している言葉は、日本語とはかなり発音が違うようだ。
そんな言語指導と、一般的な大学生が話せる程度の簡単な情報だったが、若様は興味深そうに聞いていた。
「どうも、聞けば理解はできるのだが、そのような事態を常に頭に置いて生活するのは難しそうだな」
フランボワーズのムースとバニラアイスのデザートをぺろりと平らげた彼は、そう言って難しい顔をした。口の端にバニラアイスがついているけど、敢えて言わない。このくらいの方が話しやすいから。
私は残っていた赤紫のムースを口に運んだ。アイスの方は、溶けるから食べてから話せばいいと言われたので先に食べてしまった。甘さ控えめのムースはアイスと一緒に食べることを想定された一皿だったのだろうから、彼の気遣いは微妙だ。今はどうせ味わうほど余裕がないからいいけど。
「そうですね…それより、あの」
口の中の甘ずっぱい固まりを飲み込んで、私は気になっていたことを口にした。
「なんだ」
「これは、たぶん転生者協会の三原則に引っかかる知識なのです。だから、扱いには気をつけていただきたいのですが」
「ああ、それは大丈夫だ」
若様はすでにあの後、転生者協会の三原則について詳しく調べていたらしい。
そして、すでに存在した事象についてそれを現す名称を口にすること自体は罪にならないと確認したという。
「あの時点で、私に対して『詐欺』に当たる行為が成されていたことは、私も護衛も証言できる。だから、その言葉を教えただけのお前が協会から罪に問われることはない」
「そうでしたか」
よかった。
正直、人の話を聞かない上あの程度の詐欺に引っかかる若様の能力には疑いがあったから、彼が転生者協会の方まで頭を回してくれるとは思わなかったのだ。
私は心底ほっとした。
「それでも難癖をつけようとするやつはいるが」
ぼそっと付け足された言葉を聞かずにすんだら、もっと良かったのだが。
若様を正面から見つめてしまった私は、口の端にアイスをつけた美形と数秒無言で見つめ合うという、気まずい時間を体験した。
「つまり、先程話した警備隊の隊長のことだ。でも安心しろ」
若様の綺麗な緑の目が私をまっすぐに見た。目力、無駄に強いな。
「さぎーについて聞けたからには、こちらも対策をたてておく」
「さぎ、です。あと、アイスがついています」
行かなきゃならない状況だということは嫌々、本当に嫌々理解した。でも、彼の安心しろは、なんだかとっても信用ならなかった。