8 誘惑
少女の外見にそぐわず、鑑は達観した様子で外の三日月を仰ぎ見る。
勝手なことを言い、勝手に紫織の傘を使うそのさまに、陸は完全に頭に血が昇った。
鑑の腕を乱暴に掴みあげ、無理やり自分のほうへ向かせる。
「……いい加減にしろよ。自分だけがわかってる、みたいな顔しやがって。そんなに人の気持ち考えずに適当なこと言うのなら、もう勝手にしろっ。失せろ! 今すぐにっ!」
「――わたしはカガミ。君がそう望むなら、その願望に従うのもやぶさかじゃないわ。でもほんとにそれでいいの? このままだとあの娘“三途の川”さえ渡れないわよ」
鑑の腕をつかんだ拍子に長い髪が乱れて、陸の頬をこすった。
ぞくりとした。腕をきつく握られても、鑑はされるがまま身じろぎひとつしない。
ただ傘の下から覗く紅い眸だけが、下火が燻るような秘やかな眼光を宿している。
まるでめったに怒らない紫織が、本気で怒ったときのような凄味がそこにはあった。
「さ、さんずの川?」
平淡すぎる声にたじろぎ、陸は手を握ったまま動けなくなる。紙粘土のようにきめ細やかな鑑の柔肌は、ひやりと冷たかった。
「生者と死者。彼岸と此岸へだてるはてなき大河のことよ。その境界には、みっつの渡りかたがあるから“三途”の川と例えたの、ね」
「あの世とこの世の間にある川って、そんな、ゲームじゃねえんだから……」
陸は困惑して、鑑から手を離す。強く握ったはずなのに、跡ひとつないのが不気味だと思った。
「あら。生死の世界観あやふやな昨今でも、死への畏怖はなくならないでしょう? 死そのもの克服でもしないかぎり、あの世とこの世は対のものとして存在するわ」
鑑の声はとろりと静かだった。作り話そのものなのに、淡々と真実を述べているようにしか聞こえない。だからもう少しだけ話を聞いてみることにした。
「ぬぅ。死後の世界があるなんて、よくそんなきっぱりと言いきれるな」
「“地獄”はまだだけど、“根の國”にはいったことあるから、ね」
「ねのくに? どこの温泉地か知らねぇけど、地獄谷みたいのと本物のあの世をいっしょにすんなよ」
「……仏教と神道の区別もつかない常人の認識って、こんなものなのかしら」
「ぬ? 宗教勧誘の話、なのか? 悪いけどオレは神さまなんて信じてないんだ」
かすかな嘆息をして、鑑は小さく頭を振る。乱れた髪を整えて、どこか哀しげに透徹とした紅い眸を揺らして陸を見つめた。
「そのくせ、つぎの生に執着する人のひたむきさってなんなのかしら。もういっそ“三途”の川じゃなくて、“一途”の川のほうがいいのかも、ね」
「ぬぬ? 悪いけど、さっぱりわからんってことしかわからねえんだけど……。結局、さんずの川を渡れないってどういうことなんだ、鑑?」
言葉足らずでひとりで納得する鑑を批難する陸だったが、彼にも問題があった。
大事なことを言っているようだが、知らない言葉ばかりで陸の頭では半分も彼女の言うことを理解できないのだ。なので中々話が進まない。
「そうね……。君の場合、言葉かさねるより、実際に見せたほうが早いわ、ね」
ゆらりと、鑑は鶴の舞のようにみやびに右腕を掲げた。その指先には、古いテレビが置いてある。
ぱちんと、音がこだました。鑑が親指と小指を曲げて爪先であわせたあと、弾指をしたのだ。
「えっ。停電?」
ふっと、部屋の電気が消える。そのかわり、鑑の手元に明かりが凝縮したように輝きを放ちはじめる。彼女の爪が柘榴石のように朱く彩られ、陸をはっとさせた。
世界に光が消える。世界が闇に包まれる。日常が薄れて、非日常が露になる。 そんな中、鑑の紅い眸が獣のそれのように欄と美しく輝きを放った。
「―――、みずかがみ。」
声が染み渡る。鑑の澄んだ声は、鈴の音のようによく透った。
彼女の手元に集まっていた光が、前へ放たれる。その光弾は、古いテレビに吸いこまれ、ブラウン管を青白く照らしはじめた。
「ど、どうなってやがるんだ? テレビが勝手に」
「黙って見てなさい。位相合わせるから」
音はでない。ただ灰色の濃淡と明暗が砂嵐になって、不鮮明な映像を揺らしている。
徐々に砂嵐がまとまってくる。祖父の家に昔あった白黒テレビのような映像。ぼんやりと人の輪郭らしきものが露わになる。どうやら女の子が歩いているようだ。
「え――? なん、で……」
とぼとぼと、辛そうに。苦しそうに。砂漠のように荒廃した場所をさまよっている。
彼女はしばらく歩き続けたが、道なき道に果てがあるようには見えない。やがて足を取られて、力なく膝をついた。そのまま座りこんで小さく前屈みに丸まる。憔悴したその顔は、今にも泣きそうだった。
「なんで、姉ちゃんが……」
ブラウン管に映っているのは、姉の紫織だった。
だがこんな映像は一度も見たことがない。陸の家庭は元々ビデオを頻繁に撮らないし、そもそもこんな悪趣味なものを撮るはずがない。ありえない光景だった。
「なんだよ、これ。どうなってるんだよ!」
陸は説明を求め、鑑へ視線を向けた。
鑑は平然としていた。何事にも無関心そうな、どこか遠くを見つめるような眼差しで、ぼんやりと紫織の映像を眺めている。
テレビの光を浴び青い燐を放つその横顔は、差した傘の影に紛れ幽鬼のように不気味だと陸は感じだ。
「……なあんだ。まだ三途の川にはついてないの、ね。夭折した親不孝な罪人らしく、“闇穴道”わたってる途中かしら。このぶんだと、七日ではとてもたどりつけそうにないわ、ね」
鑑はひとり頷いて、開いていた黒い傘を閉じた。
ぶつりと、テレビが消えて座敷が完全に闇に包まれる。
「ちょっ、おい?」
暗がりの中、陸は四角い箱に戻ったテレビを強く叩いた。
辛そうでも紫織の動く姿をまた見たい一心で、台の上にあったリモコンを強く押す。
青いランプはつかない。
……赤いランプすら、ない。
陸の背筋に、蟲が這うような悪寒が生じた。
テレビのコンセントが入ってなかったのだ。
そもそもこの古いテレビは故障していたからこそ、普段使わない座敷に移したのだった。
先ほどの色と音のない紫織の映像は、怪奇現象そのものだった。
◆◇◆
「おまえ……なにしやがったんだ?」
震える声で、陸は鑑に問いかけた。
彼女が見せた映像は、トリックがあるような粗末なものに見えなかったのだ。
「“遠見”よ」
「とうみ?」
「望んだ遠くの景色見る――そうね、魔法や超能力と言えば、わかりやすいかしら。見かたや考えかた変えた先にある世界の法則使った、ちょっとした児戯、ね」
鑑はこともなげに言って、実演するように指を鳴らした。
近未来のハイテク機能などないのに、部屋の明かりが当然のようにつく。
そしてちゃっかり、エアコンもつけていた。……どうやら気にいったらしい。
超常現象を見せても変わらず気ままな鑑の様子に、陸は少しだけ冷静さを取り戻す。
「ばっかじゃねえの。魔法や超能力って……そりゃああればいいなとは思うけど、そんなのありえねえだろ。そんな子供だましなこと信じられっかよ」
目の前で不思議な現象を見せられても、陸は容易に信じられなかった。
幼くして母や祖母を亡くし、姉までも喪った今、奇跡など認められなかったのだ。
「……そ。なら話はここまでかな。地獄も、霊魂も、見ようとしなければ存在しない月のようなものだもの」
小さく肩をすくめて、鑑は座敷から出て行こうとする。陸に見切りをつけた潔い姿は、嘘や冗談を言っているようには見えなかった。
「待てよ。待ってくれ! じゃあなんだ。姉ちゃんがあんなに苦しそうにしてるのは、その……、今のことなのか?」
だからこそ、陸は鑑を呼び止める。あの映像を現実のものと認め、認めるわけにはいかないことを問いただす。紫織は死んだ後さえ苦しんでいるのか、と。
「そうだとしたらどうなの? 少年は神も魔法も信じないのではなくて?」
「ふざ、けんな! なんで、姉ちゃんばっかが、苦しい思いをしなきゃなんねえんだよっ! 姉ちゃんみたいなぽややんとしたヤツが、地獄に行くなんてありえねえだろ!?」
「いいえ。地獄にはたどり着けず、輪廻の輪すらくぐれず、その霊魂は消滅するでしょう、ね。親より早く死ぬのは、それだけで大きな罪だもの」
彼を見つめる彼女は冷ややかだった。まるで子供が古いオモチャを見つめるような興味のない眼差し。無垢で純粋で、けれどボロボロに苦しむ陸を他人事のように眺めている。
「なんだよ、それ。罪ってなんだよ。そんなのってねえだろ。なんで死んだあとまで、姉ちゃんがそんな目に合わなきゃならねえんだよ。姉ちゃんはやさしくって、自分のことより家族のことを優先するようなヤツで、損するぐらいバカみたいなお人よしなのに、どうしてそんな……」
瞬きもしない陸の眼から、涙が零れ出す。守りたかった紫織になにもしてあげられない悔しさに、奥歯を噛みしめた。
その様子に鑑の冷たい表情がゆるやかに溶けた。
「……君って男の子のくせに、ほんとに泣き虫なの、ね」
「泣いてねえ。泣いてなんかいられねえよ。今もまだ姉ちゃんが辛そうなのに」
「そ、ちょっとは信じる気になってくれたの、ね。なら少年はどうしたいの?」
「オレになにができるってんだよ。だって姉ちゃんは……」
死んでしまった。そこまで言えず、陸はまた嗚咽を洩らした。
紫織の亡骸のそばで寝ずの番をする。姉を偲んで思い出話をする。
自分はそんなことがしたいんじゃない。もうそんなことしかできないのだ。
それが死という重いものなのだ。
けれど彼女はそうは頷かなかった。
「そうよ。青ざめて血の巡らぬむくろになってもなお、その霊魂は黄泉路さまよってる。彼女と君たちのさもしい未練が、彼岸と此岸つなぎとめている。なら許されない希望が、叶えたい願いが他にあるのではなくて?」
「っ。それは……!」
陸の見開かれた眼に溢れる涙を、鑑は指先でそっと拭った。
涙を手に、彼女は天使の慈悲のように優しく、悪魔の誘惑のように甘く彼へ囁きかける。
「君の願い、かなえてあげてもいいわよ」
それはどんな願いでも? 死んだ姉にまた会うことさえ?
陸は眼を見開いたまま、言葉が出せない。
嘘みたいにきれいな彼女は、嘘のようなことを平然と言う。
その妖しさに、常識や倫理観といった正常な思考が、すすり取られていく。
「願わくば、君の選ぶ道に幸あらんことを」
鑑はにわかに机に置かれたメモ用紙を手に取った。
陸から拭った涙を指に乗せたまま、紙を何度か撫でる。そして木の葉についた朝露を払うように息を吹きこんで宙へ飛ばした。
なんの変哲もない、ただの紙切れだ。だがそれは蝶のようにふわふわと舞う。舞いながら折りたたまれていく。そして陸の胸元へと収まった。
涙を服の袖で拭って、陸は紙を恐る恐る眺める。
折り紙の“やっこさん”の形に折られたメモ用紙には、やはり陳腐な仕掛けがあるようには思えない。そこに赤い文字が燃えあがるように浮かんでいた。
「これってどういう……って、鑑? どこだ? ――くそっ、また隠れんぼかよ。あいつ現代に生きる忍者の末裔かなんかなのか」
陸が紙から顔をあげたとき、白い少女――鑑は忽然といなくなっていた。馥郁とした果実のような残り香だけが、エアコンの冷風に混じっている。
しかたなく陸は折られた用紙をもう一度見つめる。人型の胴体の部分には、女性らしい丸い文字でこう書かれていた。
“君は自分の望みに釣りあう代償を支払うことが出来る?
No/Yes
願いが決まったらこの紙にサインして、件の河原まで一人で来なさい。
その祈りを贄と捧げることで、相応の奇跡を授けます。”
「え、ええと……?」
しかし陸には、この四行の文章がうまく読解できなかった。
代償、件、贄……、しっかり読めない漢字がいくつもある。覚悟があるか問われているのはなんとなく理解できたが、結局なにをすればよいのだろうか。
何度も読み直し、二行目に、夏休み最後の日に白紙の算数ドリルを見たような情けない呻き声をあげる。
「のお、やえす? ……ぬがぁ、読めねえよ! 鑑のやつ、悠也みたいに筆記体で書きやがって。つうか野球でするやつをどうやって紙にすればいいんだよ、おい?」
彼は英語の成績がとても残念な中学一年生だった。
カタカナ語を嫌う昔気質な久遠院の家系が、さらに陸の英語の成績を苦しめていた。
その答えを知る鑑は、どうやら一足先に紫織の命を奪った河原で待っているようだ。
本話の奇蹟
金生水 遠見の術 詠唱『水鏡』
遠くの映像、過去を見渡す術。
傘をアンテナに、テレビに異界の景色を写した。




