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_君にまたこいねがう  作者: みなたけ6
起 雨傘の少女
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4 父親

◆◇◆


 ――陸の物心がついたころには、すでに彼の母親はいなかった。 

 彼を生んでから三年後、病気で亡くなったらしく、そのため母親のことは、おぼろげにしか覚えていない。

 また、いわゆる仕事人間の慎治とは、あまり折り合いがよくなかった。朝早く仕事に出かけ、夜遅くに帰るため、居合わせる機会自体少なかった。 

 休日などで顔を合わせたときにふたりが交わす言葉といえば、はじめたばかりの英語の教科書に出てくるような、ぎこちない挨拶が二、三言ぐらいだった。

 そんな陸が捻くれずに中学まで進めたのは、ひとえに彼の姉、紫織のおかげであった。


 のんびりしているけど、陸が泣いていると真っ先に飛んできてくれた。

 勉強が嫌いでバカなことばかりしているのに、“男の子はこのぐらい元気じゃないとね”と大らかにほめてくれた。 

 そのかわり、本当にいけないことをしたときには、きちんと叱ってくれた。

 そんな紫織が陸にとって自慢の姉であり、大切な心の支えだった。 

 “石動中学一のバカップル”、と周囲から揶揄されるぐらいの仲のよさだった。 

 そんなからかいの言葉を聞いても、なにも気にならないほどの固い絆で結ばれていた。


 それなのに紫織は、中学校生活最後の夏休みを陸とともに迎えることができなくなってしまった。奇しくも彼女の誕生日に、近所の川で流されて、帰らぬ人となったのである。 

 それはあまりにも唐突で、あまりにも理不尽すぎる出来事だった。


◆◇◆


 窓の外で、生命力あふれる木々が流れていく。おぼろに色あせ、もう取りもどせないものが、同じ速度で陸の後ろに流れ去っていく。

 夏の情景が広がる外と、冷房の効いた車内は、別世界だった。

 冷たさがまとわりつく静かな車内に、陸はふと小学四年生の冬のことを思い出した。父方の祖母の急逝の知らせに、降りしきる雪の中、車を走らせていた。

 亡き母の代わりによく面倒を見に来てくれた温厚な祖母は、駆けつけた陸が“ばっちゃん”と揺さぶっても眠ったままで、雪よりも冷たかった。 


 冬のあの日。無個性の、民間タクシーと呼んでも差し支えない清潔な車内で、口をきくものはだれもいなかった。今は、そのときよりも居心地が悪かった。 

 やめたはずのタバコの吸い殻が携帯灰皿からあふれ、車内はヤニ臭い。甲斐甲斐しい紫織がいないだけでこうも息苦しい。

 ハンドルを握る慎治の手は、陸には寝たきりの病人のように弱々しく映った。

 

(……オヤジの体ってこんなに頼りなかったっけ?)


 陸はぼんやりと昔の父親の体格を思い出そうとして、今の顔さえロクに思い浮かばないことに衝撃を受けた。こんな風に紫織の顔まで忘れてしまうのかと身震いした。

 そっとルームミラー越しに慎治の顔を窺おうとして、まず白髪が増えたことに怯えに似た感情を抱いた。

 左折のために慎治が後方を確認したとき、陸と偶然視線があう。


 一秒、三秒、――それともほんの一瞬か。慎治は静かに陸から眼をそらすと、ハンドルを切ってアクセルをふかした。 

 クマの隠しきれない虚ろな眼。分厚い眼鏡の奥から垣間見えたその眼は、無言で陸を批難しているようだった。 


「なんだよっ。言いたいことがあるなら、はっきり言えよ! オレみたいな最低なやつ、生まれて来なければよかったって!!」


 陸の叫びに、ブレーキが悲鳴をあげた。身体が投げ出されそうになり、前の座席に激しく顔をぶつける。


「陸っ! 二度とそんなこと言うんじゃないっ!!」


 それ以上に、慎治のはり手が痛かった。悠也に殴られた拳よりよっぽど重かった。


「頼むから、……頼む、から。お前まで、居なくなったりしないでくれ。俺を一人にしないでくれ」 


 慎治が絞り出した声は、泣いているように弱々しかった。いや、祖母が死んだときでさえ子どもの前では涙を見せなかった父が、嗚咽をこらえて泣いていた。

 バカだ。辛いのはなにも自分だけじゃないのに、と陸は自分の発言を後悔する。


「……だったら安全運転しろよ。危うく外にふっとばされるとこだった」


 もっと他に言うべきことはたくさんあるのに……。父親との距離がつかめず、うまく謝れない自分が陸はイヤになる。

 言い直す前に、後ろの車からのクラクションが、陸の意見を勝手に援護した。


「シートベルト、しておけ」


 先ほどの激情を鎮めた慎治の低い声に、陸は心の中でありがとうと返した。


(けど、そういう父親っぽいことは、もっと早くに言ってくれよ。そうすれば、もっとみんなで笑いあうことができたかもしれねえのに……)


 ついに仲のよい三人家族にはなれなかった。もう男だけだ。もっと仲良くしてよと、膨れながら間を取り持ってくれた紫織は、もういない。


◆◇◆


 車に揺られながら、陸はここではない遠くに思いを馳せる。

 色鮮やかな紫織との日々は、交わした言葉まで子細に思い出せたが、昨日の放課後のことだけがどうしても思い出せない。

 七月二十三日。姉の一五歳の誕生日であって、最悪の日になってしまったあの日。


(いったいなにがあったんだ? オレは姉ちゃんとなにを話していた?)


 去年と同じなら、先に校門の前で待っていた紫織に、喜んで駆け寄ったことだろう(小、中学校と学校が違っても、紫織は必ず陸より先に待ち合わせの場所にいた)。  

 彼女の誕生日なのにどんなケーキが食べたいかとさり気なく尋ねられ、お祝いのための買い物に出かけたことだろう。

 そして、こっそりと小遣いを貯めて用意したプレゼントを喜んでもらえるか、どきどきしていたに違いない。 

 そんな些細な、でも大切なことを陸は覚えていない。なにもかも忘れてしまっている。

 すべてが終わったあとの、水に濡れて瞑目する彼女の顔しか記憶に残っていない。


(そもそも、どうしてオレは川なんかに入ったんだ?)


 いくら考えても、難しく物事を考えるのが苦手な陸にはわからない。

 それでも、いくら暑いからといって川に飛びこむほどバカではないつもりだった。 

 おっとりとしている姉を守るために鍛えてはいたが、けっして命知らずではない。 

 ましてや、あの日は期末試験ごろから続いていた長雨がやんだばかりで、川は増水しきっていたはずだ。


 そんな危ない川に入る理由なんて――……一瞬、不吉な赤い色が彼の脳裡をかすめたが、記憶の糸は繫がる前に途切れてしまった。それがなんだったのか、像を結ばない。おそらく血の色でも思い出したのだろう。


 どちらにせよ。死ぬほどのバカが生き残り、死ぬほどのお人よしが死んでしまったことだけはたしかだった。 

 自分は神さまなんて昔から――あの日から――信じていないが、そいつはきっとろくでもないやつだと、陸はきつく歯をすり合わせた。 


「陸。着いたぞ」


 低く短い声。慎治の呼びかけで、過去へ揺らいでいた陸の意識が引き戻された。

 車から降りるよう促す慎治に、陸は従順なロボットのように従う。

 ドアを開けたとたん、むっと押し寄せる熱気と、うるさいセミの鳴き声が広がった。


 閑静な住宅街に建つ陸の家は、昼間なのにお化け屋敷のようにひっそりとしていた。玄関の前に黒い幕がかかった今は、なおさらそう見えた。 

 だがそこでは、遊園地のように楽しげな悲鳴なんて聞こえるはずがない。あるのはセミの鳴き声よりかすかな、悲しさを押し殺した声だけだ。

 

 普段はスペースのあまる広いガレージは、親戚の車で満杯になっている。

その片隅に、セミの死骸がゴミのように転がっていた。陸は無言で拾って、庭のアリの巣穴の横に置く。

 あんなに元気だったのに。弱く、ちっぽけで、力ない命。

 

(わからねえ。せっかく生まれたのに、どうして死なないといけないんだ?)


◆◇◆


「ただいま」

 

 そんな当たり前の言葉を言えたかさえ、陸は覚えていなかった。

 父方の親戚のものが、何人か葬儀の応援に駆けつけてくれていて、彼らに促されるままに動いただけだ。

 紫織がいたころと違い、6LDKの広い家の中は、せまく息苦しかった。

 別に散らかっているのではない。元々紫織はきれい好きだったし、陸も姉の負担を少しでも減らしてあげたくて、日ごろから率先して彼女を手伝っていた。

 だから普段から家はだれを通しても恥ずかしくないほどきれいだった。――今の家はキレイすぎるのだ。


 必要以上にキレイに掃除されて清められた部屋は、日々の生活の名残が消え、紫織がいた痕跡まで消されてしまったように陸には感じられた。

 紫織がいなくても、陸がなにもしなくても、どんどんモデルハウスのように空っぽになっていく我が家を見ているのは、彼にとって苦痛でしかなかった。

 だから無理を言って学校の終業式へ出たのだ。それは失敗だったかもしれない。 


 紫織の聖域であった台所は、さらにヒドイ有様だった。 

 彼女が使いやすいようにきちんと並べていた調理器具が、――フライパンの置く場所も、まな板を立てかける場所も、お玉を片づける場所も――全部違う並びになっている。

 葬儀の慌ただしさに、小さな虫が湧くことさえ許してしまっている。

 他の家のような台所を茫然と見つめ、陸は以前と変わらぬ場所を探そうとする。

 ――まだある。そのひとつひとつに大切な思い出がつまっている。


(はじめて皿洗いを手伝うって言ったときは、心配そうに後ろから見守られて、結局ぜんぜん手伝いにならなかったっけ)

(夕飯のカラアゲをつまみ食いをすると、“めっだよ”って怒られたけど、次の日からはおやつをいっぱい作ってくれるようになったっけ)

(珍しく早く帰ってきたオヤジと顔を会わせるのがイヤで部屋にこもっていると、まな板を振りかざしてオレの部屋に乗りこんできたこともあったっけ)


 否が応でも紫織との楽しい日々が思い出され、陸はこれ以上台所を正視できなかった。笑いのあふれる場所だったのに、そんな安らぎはもう二度と得られない。新たな思い出ができることもない。 

 全部自分のせいだと、陸はまた自暴自棄になりかけた。先ほど慎治に叱られてなければ、きっとそうなっていた。 


 このままではいけないことは、陸にもわかっていた。けれど、どうすればいいかわからなかった。

 世界の色は失われたまま。いっそこのまま全部真っ白になってしまえばいい。それはなんて楽で、なんて……


「……情けねえな」


 こんなときでさえ空腹を訴える自分の腹の虫に、陸は口端を歪めた。

 こんなときでも貪欲に生きようとする自分の身体が、情けなくも頼もしく感じられた。

 親族のおばちゃんが握っておいてくれた丸いおにぎりを、陸はそのままかじりついた。 

 うまくもマズくもない。特になんの味も感じられなかった。それでも、口に入れると少しだけ腹に力が沸いてきた気がした。


◆◇◆


「――ぬ」


 ふと気づくと、庭にあるカキの木の影が家の中へ差しこんでいた。 

 いつのまにか、紫織が眠っていた座敷までキレイになっている。

 納棺の儀もなにもかも、今日家ですることは終わっていたようだ。


「陸。そろそろ斎場に行くぞ」


 腕時計を見た慎治が、ぼんやりと窓の外を眺めていた陸へ声をかける。


「……ちょっと待って。台所、片づける」 


 これじゃ怒られると、陸は空気漏れのような声をもらして立ちあがった。

 陸は紫織の死に顔を見るのが恐かった。自分が殺したようなものなのに、どの面下げて物言わぬ彼女に接すればいいかわからなかった。


「駄目だ。そんなのは全部済んでからでいい。陸は紫織の弟なんだから、他のどの親族よりあいつの側にいてやらないといかない。行くぞ」

 

 陸は慎治に手を引っぱられ、半ば強引に車へ乗せられた。 

 このように実直で融通の利かない性格の慎治から、どうすれば紫織のような穏和でやさしい姉が産まれたのだろう? 

 どうすれば、自分のようなバカヤロウが産まれたのだろう? 

 本当に同じ母親から産まれてきたのだろうか?


「――そういえば、琴音おばさんとかも来るのか?」 

「……。……ああ」

「……そっか」


 陸の問いかけに、慎治は車を出してしばらくしてから返答した。その様子に、陸も素っ気なく応じて黙りこんだ。 

 亡くなった母の姉で伯母にあたる、久遠院琴音(くおんいん・ことね)のことが陸は苦手だった。その見かけによらず、慎治は駆け落ち同然に母と結婚したらしく、そのため母方の親戚とは折り合いが悪かった。

 手の届かない遠くへ行かれるぐらいなら慎治が婿養子にはいる、ということでひとまずその騒動は収まったらしい。だが、三年前の慎治の母の葬儀には最低限の人しか来なかったことからも、両家の関係は未だに冷め切っていた。

 できれば陸は、伯母を含めた久遠院家の人と会いたくなかった。


次話より承パートです。


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