34 夏空
朝ご飯を食べ終わり、陸は自分の部屋で一服する。
夏の暑さに計画的に勉強する気にも、健康的に身体を動かす気にもなれない。
手持ちぶさたに冷房を一〇度ぐらいに景気よく下げてみたが、寒いだけだった。
「――なにやってんだかな……」
普段の置き場所とは違い、ベッド脇にあった黒革の竹刀入れを手に取る。
中には愛用の木刀――虎鉄丸が収まっていた。
よく手入れが施された光沢の美しい木肌からは、白い少女の髪色は抜け落ちている。元の紫黒檀の木刀だ。
彼女がいた証は、いまやこの一枚の折り紙の手紙だけである。
「……なんでかな」
いつもの生活のはずなのに、陸は物足りなさを感じていた。紫織の料理をお腹 いっぱい食べても、それはさらに増すばかり。
深いため息をついて整息する。手紙の文章を指でなぞり直す。何度もくり返し読み、もう暗誦できるほどだ。
過去の修正すらできるとんでもない存在。
今まで謎は謎のままだったが、陸はやっとその正体におぼろげに見当がついた。母が死んだあの日から自分はずっと信じようとしなかったものだった。
ふと。ケータイから剣客アニメの音楽の一節が鳴った。メールだ。
“―――暇。どっかいかね?―――”
朝も早くから迷惑なのは、悪友の悠也だった。
暇? と疑問系で相手に窺うのではなく、自分の感情をさらけ出しているのが彼らしい。初日から中学初の夏休みを謳歌する気のようだ。
丁度いい。陸は試しに行ってみたいところがあった。
“―――Yes 三人で神社行こう? タイムカプセル気になる―――”
つい最近覚えたばかりの英語を使ってみて、陸は小学生のころはよく遊んでいたたまり場を提案した。
ちなみにここはYesではなくOKが適切な表現なのだろうが、中一で英語2の成績の彼に正解を求めるのは少々酷である。
やや間があって返信が返ってくる。読んですぐ、眉間にしわが寄った。
“―――Who are you!? 陸が英語使えるはずねぇ!!!!!!!!―――”
「うぜっ。自分が英語できるからってどんだけ驚いてんだよ」
乱暴にキーを叩いて怒りの送信。
“―――あなた ぐらいわかるっ!!!!!!!!!―――”
……“ダブリュ、エッチ、オー”の意味がわからず、なんとも情けないものだった。
さりげなく感嘆符を悠也のメールより一個多くしたのが、せめてもの男の意地だった。
今度は即座に返信がくる。
“―――そのひよっこイングリッシュぶりは本人か じゃ、現地で―――”
どういう認識のされ方をされているか、陸は一度真剣に語り合いたくなった。 ……主に拳で。命がけの戦いを経験した今なら、悠也ぐらい片手で勝てる自信があった。
「ったく」
今日はからっとした快晴。出かけるにはもってこいの一日だろう。いつまでも部屋にこもっていてはもったいない。
◆◇◆
紫織は陸の誘いに二つ返事でうなずいてくれた。
慎治も仕事へ出かけたため、今度はしっかりとカギを閉めて、ふたりは出かける。
青の絵の具で染めたような夏空は、まだ日が昇りきってないこともあってとても清清しいものだった。
帽子を被り、ポケットに折った紙を忍ばせ、神社を目指す。
「なんか今日はご機嫌だな、姉ちゃん?」
真っ青に澄み渡る夏空に負けないぐらい元気なステップに合わせて、ハミングを唄う。紫織の歩みは、見ている陸まで幸せな気分になるほど楽しげだった。
ふたりで出かける時はたいてい機嫌がよかったが、今日は五割増しである。
「ん~? えへへ。あんまりよく覚えてないけど、昨日夢を見たんだ」
「ユメ? へえどんな?」
この様子だとすごくいいユメだったのだろうと、陸は自分までうれしくなる。
「ええっとね。砂ばっかりの知らない場所をわたしひとりだけが歩いててね。さびしくって辛かったんだけど陸くんが迎えに来てくれてね。でも最後には陸くんがわたしを置いていなくなっちゃうんだ」
「ぬ? ええっ? じゃあなんでそんなにご機嫌なんだよ?」
指折りに数えながら喜色を隠さぬ明るい表情で言った紫織に、陸は二度驚いた。
おそらく昨日のことを紫織もユメとして覚えていたこと。そしてそのことを喜んでいること。……情けないことに二つ目のほうが、陸ははるかに衝撃を受けた。
普通、逆のはずだ。イヤなユメを見ておいて、その反応はひどい。
“――本当は陸くんのことが嫌いだった――”
紫織の告白を思い出し、陸は表情を曇らせる。
「だって夢でよかったなって。陸くんはこうしてちゃんとそばにいるんだもん」
「あ……」
それは陸の想像をはるかに上回る不意打ちだった。
穏やかに言って、紫織はやさしげにはにかむ。曇りないあどけない笑み。それは陸がなにより見たかった、偽りのない本物の笑顔だった。
「――そっか。そうだよな」
どんな物事も良い方向に考える紫織の性格を、陸は甘く見ていた。
紫織のことをよく知る人が、彼女を芯が強い女性だと評するのが改めて納得できた。
「――ねえ、陸くん。男の子だからって変に格好つけないでね。わたしは陸くんが元気でいてくれるだけで――そばにいてくれるだけでそれで十分なんだから」
ふと締まりない表情をしぼめて、紫織は陸を見た。
凍える雪風に震えているような、頼りない姿だった。
「おう。なら姉ちゃんもオレのそばから勝手にいなくなったりすんなよな」
もう絶対に放さない。こんな顔をさせない。陸はそう静かに心に誓うのだった。
「えへへ。じゃあ離れ離れにならないように手つなごう」
「おう」
恋人のように、そっと指先が重ねられる。触れる手は優しくて、柔らかくて、そして温かい。――冷たくない、生きた手。
そんな穏やかな空間は、彼らの心に慈雨のような潤いをもたらした。
「みぃー」
甘々なふたりを、茶色の毛玉が見あげる。
視線が合う。それは、どうしようもなく見覚えのある仔猫だった。
陸を見て、小馬鹿にするように小さく鳴いた。
その腫れぼったい顔は間違いなく……
「なっ。おま……」
「おーい、陸。紫織さーん」
「あぁ、悠也くん。おはよう」
「グッドモーニングっす」
悠也が元気よく走ってきて、三叉路で合流する。
陸が声に気を取られた間に、仔猫はいなくなっていた。
(……ぬぅ、いない。でも見間違いじゃない、よな)
「ん、どうした? らしくもねぇ難しい顔して」
「……いや、なんでもねえ。だれかさんがなんちゃって英語を使うのは別にいつものことだしな」
悠也の一言多い心配に、陸も軽い皮肉で応じる。
「なんだ、メールの怒ってるのか? どっか遊びにいかないかって誘ったら、イエスなんて一丁前にアダルトぶるからだろ。マジであなたは誰ですかって思ったぜ」
「ぬ。あのメールって、そういう意味だったのか」
「もっとスタディしろよ。夏休みは遊んでる暇ねぇんじゃね?」
やれやれと大きく首を振って、悠也は陸を小馬鹿にする。
……その動きはあの生意気な赤い少年に似ていて、陸はむっとした。
「おまえだって英語と算数以外そんなに得意ってわけじゃねえだろ。この平均男が」
「算数じゃなくて数学だ。まだ小学生気分の抜け切らないユーは知らねぇだろうけど。だいたい3の成績が一つしかないヤツに言われたくねぇんだよ。このアンバランスが」
優秀な学生とは言えない、似たもの同士の悪友ふたりだった。
「こら、二人とも喧嘩はめっだよ」
「「…う。ご、ごめんなさい」」
「はい、みんな仲良くね」
言葉の応酬が拳の応酬になりそうになった絶妙のタイミングで、紫織が仲裁に入る。
それに陸と悠也は素直に謝る。それを紫織はやさしく誉める。
手は痛くならない。やはり拳で語らうより、こちらのほうがいい。
「――今日はあっちいなあ」
陸は夏の陽射しに眼を細めて、もう一度だけ生意気そうな仔猫がいた場所を振り返る。
敵意は感じられなかった。さすがにあれだけボコボコにされたら、もう懲りただろう。
けれど、不思議な世界は、案外身近にあるのかもしれない。
ならば、ちょっとした偶然でまた白い少女と会うこともあるだろう。
「おう、早く神社いって涼もうぜ」
「あそこって不思議なぐらい涼しいよね」
「そういえば三人で行くのは、久しぶりだよな」
「今回はタイムカプセル開けるからね」
……仲良く神社に向かう三人を見つめながら、仔猫は屋根の上で腫れた顔を労るように舐めた。
雨が降る気配はなく、どうやらただ単に顔の傷が痛むらしい。




