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_君にまたこいねがう  作者: みなたけ6
末 白い少女
33/37

33 明日

 ――悪いユメを見た。 

 ひどく悲しかったのか。ひどく辛かったのか。ひどく恐かったのか。 

 よくわからないが、とにかく何度も泣きたくなるような悪いユメを見た。


 ――いいユメを見た。

 とても楽しかったのか。とても嬉しかったのか。とても幸せだったのか。

 よくわからないが、とにかく何度も泣きたくなるようないいユメを見た。 


 真っ暗な世界で、清廉な鈴の音が聞こえた気がした。


「――ぬ。ぬうん」


 寝苦しさに、寝返りを打った。 

 暑い。そしてうるさい。 

 ミーンミーンというセミの大合唱が暑苦しくて、とても寝ていられない。 


「あさ……?」 


 うっそりと目尻を擦った後、彼は目蓋を開いた。 

 目やにがひどく、眼が開くまで時間がかかった。

 おじいさんの横顔のような木目のある天井が、ぼんやりと映った。 


 よく知っている天井に、気だるげに寝返りをうつ。

 鮮烈な夏の陽射しが窓から差しこむ。 

 眩しい。なんだかそれがとても懐かしかった。 

 

 ハンドグリップやダンベルといった筋トレ器具。マンガが目立つ本棚。教科書の代わりにプラモが飾られた勉強机――雑多に物はあふれているが、きれいに整理整頓された六畳半の部屋がそこにはあった。 


「オレの部屋……?」  


 少年は、自分が朝日を浴びて部屋いることに違和感を覚えた。なぜかはわからない。わからないが、信じていない神さまに感謝したくなるほどありえないことに思えた。

 しかし寝起きの頭ではぼんやりとして、その理由がわからない。


「ぬぅ?」


 この部屋の主の少年――久遠院陸はベッドの上で眉間にしわを寄せると、タオルケットを蹴り飛ばして腹筋の力で軽々とベッドから跳ね起き、床に降り立った。

 全身が痛い。筋肉痛のような鈍い痛みに顔をしかめつつ、枕元のケータイを手に取った。

 日付を確認してみる。七月二十五日の午前六時二五分。あれから一日経った。まだまだ身体は休息を訴えているが、もう起きて朝の自主練をする時間である。

 

「ぬーん、くそっ。マジで体痛え。制服のままなせいか?」 


 陸は両手を背中側に倒し、大きく伸びをする。

 なぜ自分は制服のまま寝てしまったのだろう? 制服にしわが寄るから絶対にしないでねと、注意されていた、のに――


「くっ!」


 途端、陸は激しい飢餓感にも似た不安に襲われた。


「姉ちゃんっ!」 


 なぜか姉の紫織の姿を確認せねば、という思いにとらわれた。毎日見飽きるほど見ているはずなのに、その気持ちはどんどん膨らむ。

 あののんびりと穏やかな顔を見ないと、この胸の焦燥感は収まらない。

 陸はドアを壊す勢いで蹴り開けると、下の階に雪崩降りた。


◆◇◆


 一階に下りると、茶の間で陸の父――慎治が新聞を読んでいた。

 

「……おはよう」


 騒々しい陸にかすかに眉間にしわを刻むも、平凡な朝の挨拶を慎治はした。 


「――くっ」


 ならいつもどおり、紫織も台所にいるはずだ。

 いてくれるに決まっている。

 返事もせずに、陸は突風のように茶の間を横切った。

 だが包丁を刻む安心する音も、食材を調理するいい匂いも、なにもない。

 ……まるでだれもそこにいないかのように。 


(違うっ! いまはちょっと休んでいるだけだ)


「姉ちゃんっ!!」


 不安で歪む視界。陸は強引に身体をドアの隙間にねじこんだ。

 ――はたして台所には人の温かみはなかった。 

 小奇麗に整理整頓されていて、紫織はどこにもいない。 


「ははっ。まったく、しょうがねえなあ。寝坊しやがって」


 認められなかった。

 陸は荒々しく階段を駆け上り、紫織の部屋にノックもせずに入った。

 ……やはりだれもいない。


 慎治の仕事部屋、座敷、トイレ、風呂場――家中探し回ったが、紫織の姿は影も形もなかった。

 きれいに片付いた部屋は普段通りなのに、一番重要なものがどこにもいない。


「――うそ……だろ……そん、な……」 


 激しい吹雪に襲われたように、陸は力なくうな垂れた。

 そして昨日あったことをすべて思い出す。

 認めざるをえなくなり、力なく片膝をついた。 


「ははっ。マジでばっかじゃねえの。中学生にもなって、バカなユメ見過ぎだぜ」 


 ちっとも楽しくないのに、陸の口から乾いた笑みが勝手に洩れてくる。

 強くつねった頬は、絶望的なまでに痛かった。 

 自分が今こうして生きているのなら――白い少女も、あの世での壮絶なやり取りも、最後に姉と交わした言葉も、なにもかも。昨日のことはすべて都合のいいユメだったのだろう。紫織の通夜を行ったこと以外。


 ぽろぽろと、陸の眼から涙があふれ出す。

 紫織がいない。どこにもいない。ならば姉はやはり死んでしまったのだ。

 もう会えない。戻ってきてくれない。その温もりを感じることはずっとない。

 その笑顔は遺影の中だけに永遠にある。

 母や祖母のように、四角い額縁の世界に切り取られてしまったのだ。


「どうした?」


 生気を失った幽鬼のような顔で茶の間に戻った陸に、慎治は訝しげに新聞から顔をあげて、低く問いかけた。


「今日は……」


 ――昼ごろに告別式があり、最後のお別れになる。

 しかしそのことを自分の口で決定してしまうのが恐くで、陸は途中で言葉を飲みこんだ。


「……準備はもういいのか?」


 陸は口をもごもごさせ、致命的な単語を抜かして慎治にそれとなく確認する。


「ああ。とっくにすませてある」

「……オヤジはいつも通りなんだな」

「ああ。社会人はいつだろうと怠けていられないものだ」

「っ! どうしてオヤジはそんなヘイキな顔してんだよ?!」

「まだ時間には十分余裕がある」  


 陸の大きな声に、慎治は一度腕時計を見たあと、また新聞へ視線を落とした。

 いつも通り冷静な慎治の態度が救いのようで、それ以上に理解できず陸を苦しめた。


「……で。いつ行けばいいんだ? できるだけ早めに行ったほうがいいだろ?」


 あまり遅いと、体裁にうるさい久遠院家の親戚にいい顔をされない。

 陸はこれ以上、イヤな気分になりたくなかった。 


「ぬ? それはそうだが、なぜ陸がそこまで気にするんだ?」 


 メガネのブリッジをあげ、慎治は怪訝そうに片眉を上げて陸を見やった。


「は? なに言ってんだよ。オレも行くからに決まってるだろ」 

「私の職場に来られても困るのだが……」

「職場って、こんな日まで仕事に行くことねえだろっ!」

「私はまだ休日じゃないんだ」

「っっ! 休日も何も今日は十二時から告別式じゃねぇか」


 慎治の態度があんまりだったので、陸はその言葉をついに言ってしまった。


「告別式? 一体誰が亡くなったんだ?」


 返ってきた反応は予想外のもの。そして望んでいたものだった。


「だれってそんなの――。……って、あり?」


 そこで陸は、慎治との会話が微妙に噛み合っていなかったことに気がついた。父とここまで長い会話が続いたのが久しぶりだったせいもあるのだろう。

  

「何を寝惚けているんだ。今日から夏休みだからといって気が緩んでいるぞ。そんなのだから間違えて学校の制服を着てくるんだ」


 そう注意しつつも、もしやと新聞の“お悔やみ欄”を確認するのは、いつも通りの実直な父親の姿だった。


「……ないな。まったく、縁起でもないことを言うな」

「ごめん、勘違いだったみたいだ」


 気むずかしげに慎治は眉間を寄せるが、悲愴な影はどこにも過ぎっていない。


◆◇◆


「ぬぬ。じゃあ姉ちゃんは……?」


 陸は思わず、慎治と同じように眉間に力を入れてしまう。すると――


「ただいま~」


 のんびりと温かい声が、陸の表情を溶かした。

 玄関からだ。吸い寄せられるように明るい声のしたほうへ向かうと、そこに陸が求めてやまない姿があった。


「姉、ちゃん……どこ行って……?」

「ん~? 食材足りなかったから、ちょっと買いにね。ってあれ。なんで陸くん制服着てるの? 今日から夏休みだよ」


 まったくお寝坊さんねと、紫織は朗らかに笑い、ゆったりと靴を脱ぐ。

 ユメでも幻でもない、おっとりした変わらぬ姉の姿だった。

 ただ――陸の疑問は増すばかり。 


「本当にどうしたの? なんだかまるで外れたと思ってた福引きが、実は一等賞だったみたいな顔してるよ」


 福引きではティッシュ以外当たったことのない陸には、自分がどんな顔をしているかわからなかったが、今の状況のほうがもっとわけがわからなかった。 

 やはりユメではなかったのか。たしかに昨日の出来事は血の味まで鮮明で、いつものユメ以上に現実的だった。

 でも……自分はこうして生きている。最後の部分で、つじつまがあわない。紫織を助けるために命を差し出したはずなのに……。

 陸は自分の顔をそっと触る。眉に唾を塗っていないから、化かされているのだろうか。


「あのさ、姉ちゃん。昨日のことだけど……」 

「成績表のこと? 気にしない気にしない。いいところもたくさんあったんだから、夏休みはいっぱい遊んでいっぱい勉強しようね」


 紫織は鼻歌を歌いながら家の中へ入っていってしまった。

 いっしょに不思議な体験をしたはずの姉は、平常より機嫌がいいようだ。


「あぁ、お父さん! もう、新聞くしゃくしゃにしないでって、いつも言ってるでしょう」

「ぬ。すまん」


 ……この様子だと、本当にみんなは一昨日からの絶望を体験していないようだ。

 しっかりした記憶があるはずの陸も、自信がなくなってきた。

 制服にべったりついていたはずの血も、きれいさっぱりない。

 なにより傘立ての中に、古いチェックの黒傘が整然と立てかけてある。

 白い少女が借りていた紫織の傘が、そこにはちゃんとあった。


「ぬぬ、どうなってるんだ? バカだとは自覚してたけど、とうとうユメと現実の区別もつかないイタイやつになっちまった、のか?」


 紫織がこうして元気なのは、もちろんうれしい。

 だが、まるで自分だけ風邪で旅行に置いて行かれた気分だった。

 素直に気持ちが共有できず、陸は紫織の傘を手に取ってみると一枚の紙が滑り落ちた。

 “アサガオ”に折られた折り紙だった。


「ぬ? これって……」


 折り目を拡げてみると、裏面の白紙に文字が浮かびあがってきた。 


“――この手紙を見つけられた君へ。

   試すような意地悪な真似をしてごめんなさい。

   少年たちの心魂は、誠に善美でした。

   よって、わたしからこの奇蹟を贈ります。 

   少女が生きられたはずの分の命は、火車猫の寿命より支払わせました。

   川原での一連の事件も、綻びのないよう修正しておきました。

   こちらでうまくやっておいたので、君は元の生活に戻ってください。 

   どうか、いつものように笑顔溢れる健やかな日々を過ごせますように。

   P.S.(追伸のことよ)これはちゃんと読解できた? 勉学にも精進しなさいよ――”


 差出人の名はない。けれど、その丸みを帯びた女の子らしい筆跡には、見覚えがあった。


「――そうか。おまえだったのか」


 陸は目頭をこすったあと、何度も何度も丁寧に読み返す。

 わざわざこうやって手紙で伝えたのだ。 

 陸はもうあの白い少女と会えないような気がした。


「ぬぅ。ということは、あの猫妖怪がオレの肩代わりをしてくれたってことか。……まあ、いっか。妖怪ってすげえ長生きそうだし、元々アイツが悪いんだもんな」


 陸は烈の小憎らしい顔も思い出して苦笑する。


「陸くん~。ご飯できたよ」

「おう、わかった。いま行くぜ」 


 紫織の呼びかけに、現金にも腹の虫が鳴く。 

 これで元通りの生活をつかみ取ったんだから、喜ばないと嘘だ。 

 陸は今、物足りないと感じる身体に紫織の料理を腹いっぱい詰めこみたい気分だった。





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