31 泡沫
「――わたしの代わりにお父さんのことお願いね。放っておくとお父さんってだらしないとこあるからー」
紫織の別れの言葉。
それに陸は……
頷かなかった。
頷けなかった。
頷けるはずがなかった。
言葉にあおられて認めたとき、その瞬間からそれは本当になってしまうから。
でもそれだけで、彼にはなにもできなかった。
陸の視界が、涙で情けなくにじんでいく。
(――思えば、オレは姉ちゃんのほんとの笑顔が好きだった)
でもそばにいてるだけで重荷になるほど、自分は弱かった。
悲しくて泣きたくなるほど弱かった。
今も昔も、記憶の中の自分はいつも泣いていた。
いつも姉に心配ばかりかけて、その笑顔を曇らせてばかりいた。
結局、自分はなにもできずに立ち止まったままだったのではないか。
ただ紫織の優しさに甘えているだけで。ただ姉に負担をかけているだけで。
ただ泣いていたあのときと、なにも変わらないのではないのだろうか。
――ならもう許してくれるのではないのだろうか?
「っっ! ばっかじゃねえのっ。クソくらえ!!」
血を吐くように叫んだ。
今は泣いているときではない。
泣いていないでがんばれと、もっと強くあれと、なにもせずに立ち止まっていては辛いだけだと。
そうだれかは教えてくれたのだから。
陸は涙をぬぐって、声を張りあげた。
「鑑!」
陸は胸に沸きあがる想いのままに吠え立てた。
「鑑っ! 頼む、一生のお願いだ。オレの願いを叶えてくれ。姉ちゃんを――久遠院紫織を助けてくれ!!」
陸は胸の底から沸きあがってくる想いを、直接鑑にぶつけて拝み倒した。
「――陸。私は人の子が安易に死を取り返しが付くものだと想うな、と言ったはずよ」
ゆっくりと、白い少女の双眸が開かれる。
魔性の美貌を彩る紅玉の眸が、魂の根幹まで見透かすように陸へ注がれる。
陸。自分の名前を呼ばれただけで、心臓が痺れて身体が凍る。
鑑の紡ぐ言葉には、抗えない重みがある。
“わたしはえらいから、軽佻浮薄に名を呼んではいけない”
陸の家で言われたその言葉の意味が、今ようやくわかった。
呼んではならないのは鑑の名ではなく、鑑が他者の名を呼んではならない。そういう意味だったのだ。
“言葉には霊的な力が言霊として宿っている”
そう冷厳に述べた彼女の言葉は、その一言一言が武道家の発する気合い声のように陸を竦ませ、全身を小刻みに震わせる。
ともすれば目の前の愚者へ死の制裁さえもが下されるだろうと、陸は覚悟した。
「……知ってる。でもあんいにって簡単にってことだろ。じゃあ鑑なら――魔法を使える鑑なら、死んだ人を生き返すことだって難しいけどできないこともないんじゃねえか?」
それでも陸は言った。自分の魂を伝えるべく、言の葉を紡いだ。
それは屁理屈のほうがまだましの、強引な論法だった。
されどたった一つしかない突破口だった。
“貴方が支払った代償でこれ以上の事を望むなんて、烏滸がましいにもほどがある”
その言葉は、裏返せば支払う代償を追加すればこれ以上のことも望めるということになるのではないか、と。
空気すら澱のように重い。瞬きすらない険しい視線が、鑑と陸の間に交差する。
そんな彼らを、紫織は息をひそめて見つめた。
それは今までで一番永い一瞬だった。
――はたして返ってきたのは、鑑のかすかな嘆息だった。
うつむいた拍子に、冷たい美貌が長い髪で隠れる。
それは、嘘があっけなくばれておびえる幼子のような、頼りない姿だった。
「……ええ。重い代償が必要だけど、たしかにできないことはないわ」
鑑は希望を見いだせる言葉を、しかしとても辛そうに呻くようにそろりと告げた。
「ホントかっ!」
「肉体はまだ失われてないから、“反魂法”で……」
「難しいことはわかんねえからいい。オレにできることはなんだ?」
「――天秤と同じ。一人の命救いたいのなら、最低でもそれと等価値の重さのもの、代償に捧げないといけない。その覚悟が君にある?」
鑑は試すように、陸をそっと見つめた。
――簡単には教えてくれなかった理由は、このためだったのだ。
◆◇◆
静かすぎる眼差しに、陸は喉を鳴らす。
禁断の黒魔術らしく、紫織を黄泉返すには、他のだれかの命が必要になるのだ。
陸は口唇を引きしめる。
……他に道はない。道を明かしてくれただけでも、ありがたい。
これ以上、その優しさに甘えて困らせるわけにはいかない。
――まだなにか気づけてないことがあるような気も、陸はした。
けれどバカな自分は、元々難しいことを思いつくようにはできていない。
わかっているのは、母からも祖母からももらってばかりでなにも返せなかった。
でも姉になら、あげることができるものはあるということだ。
「……そういえば誕生日プレゼント。姉ちゃんに渡せてなかったな」
「――陸くん?」
陸の答えは決まった。
ここまで来た理由は、そのためなのだから。
自分は紫織の忠告も聞かずに川に入り、結果、姉を溺れさせてしまった。なのに、どちらも助けてほしいなんて虫のいいことを頼めるはずがない。
ならばせめて――
「――鑑! オレの心臓だろうと魂だろうとなんだろうとくれてやるっ。ひとつしかないものでも全部やるっ! だから姉ちゃんを生き返してやってくれっ」
陸は震える身体に喝をいれて、声を鋭くはりあげた。
死への恐れを強引に払拭するためではない。
魔性の妖女の要求する代価は、自分でも支払えるだけむしろ安いほどだ。
彼が望むものは、愛してやまない姉の幸せだけなのだから。
ただその隣にもう自分がいることができないのが残念で、はらはらと、頬から雫が流れ落ちる。
「……本気?」
「おう。あったりまえだ」
「……。……正気?」
「お……いや。姉ちゃんが大好きすぎて狂ってないとこうはできないか」
「――そ。いいわ。最低の男になる覚悟はあるみたいね」
……たしかに鑑の言うとおり最低だろうと、陸は思う。
紫織が助かっても自分は死ぬ。
ならばこれも陸の願いからはほど遠い。
独善的なただの自己満足に過ぎない。
それでも、陸は紫織に生きていて欲しいと思った。
それなら、紫織が助からないよりまだ納得できた。
無力さに打ちひしがれ、なにもできないよりも満足できた。
「ちょっと待って。なんてこと言い出すの、陸くん! 鑑ちゃんまで」
そんなことを紫織が認めるはずがなく、声をはりあげる。
そんなことを紫織が望むはずがなく、声をはりあげる。
「……ごめん。でもオヤジみたいな堅物のそばにいるのは、姉ちゃんのほうがいいだろ。だいたいさ。溺れたときに助けてもらった命を返すまでじゃねえか」
「なっ……。いや、いやっ。そんなのだめよ。陸くんだけ、そんなのずるいよ」
陸の身勝手な決意に、自身が死んだときさえ穏やかだった紫織が声を荒げる。
(……こんな顔ばっかりさせちまって、オレってマジでどうしようもない弟だったな)
「……ごめんな。けどオレは、やっぱ姉ちゃんに生きていてほしいんだ」
陸の決意は固く、姉のその表情を見ても変わらなかった。
照れくさそうに鼻をこすったあと、卑怯にも鑑のいる方向に跳んだ。
死者と生者の境界が阻み、これで紫織はもう手出しができない。
◆◇◆
「ばかっ。やめなさい。おねがい、やめてっ。陸くん」
トートバックから水筒が、救急箱が、包帯が、次から次に飛んでくる。
最後に傘が境界をすり抜け、陸の足元に転がる。
生死の境界を手で叩く紫織の声は、哀切に染まっている。
紫織の悲鳴を背に、陸は鑑を見た。
怜悧な瞳はとろりと静かに揺れて、本当にそれでいいのかと問いかけている。
陸の脳裏に、これまであった様々な出来事が思い出される。
家庭科の授業で習ったお吸い物を披露しようとして、見事に作りすぎたこと。
今年こそは泳げるようになろうと海にいって、案の定失敗したこと。
しぶしぶお金を出し合って父の誕生日プレゼントを買ったこと。
冷蔵庫に入っていたビールをジュースと間違えて大変なことになったこともあったし、流れ星を捕まえに行こうとしたなんてこともあった。
そんな自分のそばにはいつも紫織がいた。その笑顔が自分の生活の象徴だった。柔らかで、楽しくて、ぽかぽかと温かい大切な居場所だった。
それに陸は一瞬迷い、けれど大きくうなずいた。
だからこそ自分はここまできたのだ。
姉のためにできることがあるなら、なんだってしてあげたい。
……たとえ嫌われて、怨まれることになったとしても。
「姉ちゃんにもう一度会わせてもらったし、こんなきれいなやつに殺されるんだ。なら、こんなおわりかたも悪くねえよ」
これから死ぬというのに、陸は自分でも驚くぐらい穏やかに言いきってみせた。
「――あら、ナンパ?」
それに、鑑はあえて清涼な態度で応じた。
「……こんなときまで変なこと言うなって。決意がゆらいじまうだろ」
その意外な優しさに苦笑し、陸は今にも振り返りそうな足を固着させる。
「そ、残念。おごってくれるなら、お茶ぐらいしてあげてもよかったのに」
「……悪いな。イヤな役押しつけちまって」
それが冗談じゃなかったら、とても残念だ。
彼女とも、もっといろんなことを話したかった。こんな日の当たらない場所ではなく、青空の下でただいっしょに遊んでみたかった。
そう陸は最後に鑑にもあやまり、静かに身構えた。
「……ぱーね。こんなときまで変なこといわないで。決意がゆらぐじゃない」
鑑は口許に笑みを作り、慰撫するように陸の胸に手を添えた。
ゆっくりと、静かに、白い繊手は陸の身体へ沈みこんでいく。
身構えていたためか、陸はあまり痛みを感じなかった。
「誕生日、祝ってやれなくてごめんな、姉ちゃん。代わりに……オレの命、やるから。だから、オレの分も生きて、、、くれ……」
「いやぁああぁぁぁぁっーー」
陸の身体から血が溢れ出し、力が抜けていく。
色づく世界が、失われていく。
笑ってほしかった姉の悲鳴が、消えていく。
神秘的な少女の意外な手の温もりが、消えていく。
「ばいばい。ぼーや」
(――こんにゃろ、またぼーやって……結局、このお人よしな白い少女は何者だったんだろう?)
そんな疑問さえも光とともに消え、すべては泡沫のユメと消えていった。




