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_君にまたこいねがう  作者: みなたけ6
結 謎のままの少女
30/37

30 微笑

「黄泉路に迷った姉を救い出して、めでたしめでたし。――この事案は、そのように風に甘く幕を下ろすことは決してないわ」


 後ろ姿で平然と言った。今まで言葉少なかった鑑が、滑らかに口を動かし出す。

 陸はただ呆然と潤沢な黒銀の長髪を見つめた。

 コップの水に赤いインキが広がるように、陸の心に恐怖が染み渡っていく。


「いきなりなにを……?」

「総領の立場でないとはいえ、久遠院家の者も堕ちたものね。貴方(・・)の姉は既に死んで霊魂だけの状態なの。死者は死者である以上、生者の世界には戻れない。もう童でもあるまいに、そんな当たり前の摂理がまだ分からないの」


 人とは思えない冷ややかな声。

 振り返った彼女は、とろりと眠たげだった眼をさらに細めていた。怜悧な紅い眸は、無機物が結晶化したような永遠に溶けることのない輝きを称えている。

 永い年月を生きた者だけが持てる冷厳な面持ちは、魔女のよう。中空に浮かぶ孤高の月のように、美しく陸を見下ろしていた。

 

「な、なに言ってんだよ。冗談きついぜ。姉ちゃんはここにいるだろ?」


 震える陸は、確かな証拠として紫織を見る。

 思わず声をあげそうになった。見ると、紫織は透き通るような笑みを浮かべていた。でも遠い。姉の笑顔が遠い。その顔が笑顔のまま急に暗くなり、すうっと遠のいていくような気がした。


「冗談? そんな淡い幻想を抱くことこそ冗談にして欲しいわね。貴方はそもそも何処で私に見えたのかしら?」

「――っ!」 


 その言葉は、もはや鋭利な刃物だった。 

 眩暈がした。事件のあったあの川原。その次は通夜の式場。そして――

 彼女の言うとおりだった。 

 大切な人の死という絶望の中で、白い彼女と陸は出会ったのだった。

 

「……ど、どういうことだよ。鑑、言ったじゃねえか。オレの願いを叶えてくれるって」


 陸は豹変した鑑に手を伸ばして、弱々しく訴えかける。

 “君の願いを叶えてあげてもいい”

 鑑はたしかにそう言ってくれたはずだ。

 冷たいけど、恐いところもあるけど、それでも本当はいいやつで、味方だと思っていたのに、どうしていまさら――そんな他人みたいな顔ができるのだろう。


「……貴方、酷い勘違いをしているわね。私が受理した貴方の願いは“また姉に逢いたい”というもの。そして私は、もう一度(・・・・)姉に逢わせてあげるとは契約したけど、姉を黄泉返してあげるなんて世迷い言は一度も言ってない。死とは絶対。その負債を一体誰が支払えるというのかしら?」

「そんなの魔法でオレを治してくれたときみたいに……」

「総ての嬰児(みどりご)を抱く“始祖の母君(おもぎみ)”は、同時に死すらもその胸に抱き込む。でも貴方は青人草。安易に死が取り返しの付くものだと考えることそのものが罪だと知りなさい」 


粛々とした声で、鑑は陸の手を道ばたの棒きれのように眺めた。

その言葉よりも、何もしない態度よりも、なんの感情もない透徹とした眸が、陸を強く打ちのめす。


「なんで、だよ。なんでそんなこと言うんだよっ! 鑑だって弱いやつが酷い目にあうのは嫌いだって言ってたじゃねえか。ひでえよ。オレのことだましたのかよ!?」 


 わからなかった。理解できなかった。

 ただ悲しくて、陸の眼から涙があふれ出した。

 理屈ではわかっている。そんなこと、とっくに知っている。

 彼女の言うとおり、死とはそれだけ絶対のものなのだ。

 どれだけ寂しくても、悲しくても、辛くても、陸の母親や祖母は――大好きな人はもう戻ってこない。

 その絶対だけは、あれだけ正しい父にも、あれだけ優しい姉にも、だれにも覆すことはできなかった。たとえ陸がどれだけ泣いてもだ。


「……死別した姉に今一度逢わせてあげた。それだけでも青人草には身に余るほどの奇跡でしょう? 貴方が支払った代償でこれ以上の事を望むなんて、烏滸がましいにも程があるわよ」

「――っ! なんだよ、それ。なんなんだよ。そんなのって、ありかよ!!」


 ここまで協力しておいて。ここまで希望を与えておいて。ちょっと変わった不思議なやつでも、目的と気持ちは同じだと思っていたのに……。

 どうして……今になってそんな冷たい顔で突き放せるんだ。こんなのただ裏切るよりもひどい。なら最初からなにもしてくれないほうがよかったと、陸は幼子のように泣き出す。   


「……。……怨み、憎み、蔑んでくれて構わないわ。勝手に幻想されて担がれ、勝手に幻滅されて廃れる。それが私の在り方だから」 

「なんだよ、そ゛れ。ばっがじゃ、ねぇ゛……のっ……」 


 陸の恨みがましい視線を、鑑は眼を逸らさずにまっすぐ受け止めた。それがせめてもの償いのように。 

 だが彼女がしたことはそれだけだった。 

 だれしもが幸せになれることはない。

 すべてに救いの手は届かない。

 弱ければ生きることすら難しい。

 だからこそ人は叶わぬ夢と知りつつも、祈り、願い、希い続けるのだ。 


◆◇◆


「別れの挨拶を済ませなさい。気持ちの整理が付くまで待っているから」 


 鑑は壁に寄りかかって瞑目した。彫像のような完成された美を持つ妖女は、目蓋を落とすことでさらに作り物めいたものとなる。 


「もういいよ。いいんだよ、陸くん。何となくそんな気はしてたんだ」


 力なく泣きはらす陸に、紫織はやさしく語りかける。 


「――っ! もういいって、姉ちゃんまでなに言い出すんだよっ」 


 声を張りあげた。

 だれにでもやさしいくせに、自分には厳しい紫織が陸は許せなかった。 

 紫織は心の底から泣いてくれる弟をあやそうとして、黄泉路の境界に弾かれる。 

 眼に見えないそれは、されどどこまでも死者を拒絶する。


「気がついたら独りぼっちですごく心細かったけど、陸くんはこうしてわたしを探しに来てくれたんだもん。ならもう十分だよ」


 だから紫織は、ただ透明に微笑んだ。

 その微笑みは切ないほど儚げで、どこまでも本心を“偽”わった優しいもの。

 人の為に。弟の為に。ひとりの少女である前に、ひとりの姉であろうとする、陸の大好きで大嫌いな笑顔だ。

 陸は受け入れらなかった。そんな笑みを見せる紫織をひとりにさせられなかった。


「なに言ってやがるんだ! 家に帰らねえと。オヤジも、じっちゃんも、悠也も、琴音おばさんだって、みんな悲しんでるんだぜ」 

「無理だよ。だってわたしはもう……死んじゃったんだから」 

「――っっ!」


 死んだ。決定的で致命的な言葉を紫織本人の口から言われ、陸は息をつまらせる。


「それなのに、陸くんはこんなわたしのために、いっぱい怪我までしてがんばってくれたんだもん。ならもうそれだけで十分だよ。だからもう泣かないで」 


 陸はたまらず境界を越え、自分から紫織に抱きついた。

 こんなにもほおに朱が差しているのに。 

 こんなにも柔らかな感触だってあるのに。 

 ひどく冷たいままの身体の紫織は、陸が簡単に通れる壁を絶対に越えられない。

 これが、死という理不尽なものなのか。自分はまたもや無力でしかないのか。


「わたしね。昔は陸くんのこと大嫌いだったんだ」

「――え? なにを……」 


 紫織は陸の髪を愛おしげに梳きながら、思い出話をするようにゆっくりと語りはじめた。


「陸くんが三歳のころさ。お母さん心臓の病気で死んじゃったでしょう?」

「……そうだったっけ。母さん心臓の病気で死んだんだ」 


 急だが真剣な話をしているのだと感じ取り、陸も真面目に返答する。 

 おぼろげな記憶。陸は母親のことを写真でしか知らなかった。 

 だからそんなことはどうでもよかった。たとえ自分に母親がいなくてどれだけ悲しくても、寂しくても、辛くても、紫織さえいてくれれば他にはなにも望まないのだから。

 紫織は薄情な陸に頬をふくらませて、おでこを指先で小突いた。 


「ほら、やっぱり。陸くん、お母さんのことぜんぜん覚えてないんだもん」 

「……ごめん」 

「実は今でもかなり怒ってるんだよ。お母さん、自分が大変なときでもずっと陸くんのことを心配していたのに。わたしのこと全然構ってくれずに陸くんばっかりひいきしていたのに。どうして忘れられるのって。どうして忘れてそんな楽しそうなのって」


 穏やかで静かな声。しかしそれはなによりも陸の心に深く響いた。

 ――やはり、まだ許してもらえないのだ。 


「――違うって。そんなの、母さんの分まで姉ちゃんがオレのことを愛してくれたからじゃねえか」 


 突然の紫織の糾弾に、陸はただ怯える。

 声を震わせるのは、批難の言葉が聞きたくないのではなく、この先に見える結末に恐怖したから。


「ううん。わたし、陸くんのことなんて全然好きじゃなかったよ。無理して陸くんを産んだせいで、体がさらに弱っちゃったって聞いてたから、むしろ憎んでいた。それでもお母さんに、陸くんのことお願いねって約束させられたから、嫌々面倒見てたんだ」

 

 ちっとも楽しくはなさそうな顔で、くすくすと、紫織は乾いた声を洩らす。 


「わたしはお姉ちゃんだからっていろいろ我慢した。そしてわたしがしたいことを自由に元気いっぱいにできる陸くんが、すごく羨ましかった。羨ましくって、眩しくて、大嫌いだって思うぐらいにね」

「――やめろよ」 


 姉の顔が見ていられず、陸は紫織の言葉を遮る。 

 忘れようとした記憶。

 昔ひどい喧嘩をしたときより胸が辛くて、陸は紫織を正視できない。 


「昔の陸くんはちょっとしたことですぐ泣くし、目を離したらすぐどこかへ行っちゃうし、何度そのままいなくなっちゃえばいいって思ったと思う?」 

「やめろって」


 陸の悲痛な制止の願いに構わず、紫織は言葉を続ける。


「でもね、いつの間にか陸くんといるのが楽しくなっていた。いなくなってたら、体が勝手に陸くんを探してた。陸くんがわたしを頼ってくれるのがとっても嬉しくなってた。陸くんがいてくれるだけで、わたしはこんなにも幸せだった」

「やめてくれっ!! “だった”ってなんだよ。これじゃあ、まるでもう二度と会えなくなるみたいじゃねえか!」


 陸はたまらず、声をはりあげた。  

 せっかく会えたのに、せっかく取り戻せたと思ったのに。どうして悲しそうに笑うんだ。どうしてこんなときまで笑おうと顔を歪ませるんだと、紫織に抱きつく。


「家に帰ってからいくらでも怒ってくれていいから、ここではやめてくれっ!」

「お馬鹿さんね。お家に帰れないからここでいったのよ。……うん。ずっと言いたかったこと、ちょっとだけでも言えてよかった」

「っっ! いっしょに風呂に入りたいって言ったじゃねえか。もう絶対入ってやんねえぞ」

「やっぱりもう恥ずかしいかな。いい機会だから、そろそろ弟離れしないとね」


 紫織は小さく嘘を言って、はにかんだ。陸の頭を一度撫でた後、小鳥が啄ばむようにやさしく口づけをする。


「わたしを助けにきてくれてありがとう。大好きだよ、陸くん。わたしの代わりにお父さんのことお願いね。放っておくとお父さんってだらしないとこあるから」


 目頭を赤くしながら、紫織は陸に別れを告げる。

 母から弟のことを頼まれた娘が、今度は弟に父のことを頼む。 

 それは祈りの詞であり、同時に呪いの言葉だった。 



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