27 番人
「――閻魔大王に劣らぬ寛大な恩赦。あたしとしてもそうしてもらえるとありがたいさね」
不意に、どこからともなく女性の声が重厚に響き渡った。
声のした場所。岩陰の薄闇が集まり濃い影になったかと思うと、人の形を象る。
「う、右大看守様!」
烈が直立不動し、耳としっぽもピンと立てる。
その視線の先に、黒い着物を妖艶と着崩した妙齢の女性が、騙し絵のように現れた。
よく日に焼けた棗色の肌。黒曜石のような深く鋭い眸。
漆黒の着物よりなお闇色の黒髪が、肩口まで優美に届いている。
まるで彼女の存在すべてが黒一色に染めあげられているようだった。
ひどく美しい。
同時に、ひどく人間離れした存在だった。
烈と、……そして鑑と似た冷たい気配を放っている。
陸は悟らざるを得なかった。
底が知れない。おそらく、烈なんかとは桁どころか次元が違う。黒い女性が、人に似た人からかけ離れた存在だということ以外、なにもわからない。
震えるという原始的な抵抗をすることも。恐怖を抱くという愚かな思考さえ働かない。
だから陸はなにもできず、ただ立ちつくすことだけしかできなかった。
せっかく紫織を救えたと思ったのに、悔し涙を浮かべることさえできなかった。
そんな中、鑑だけが前に出て、大刀を斜に構えた。
「――そういう下らんことはやめてとこうさ。ここにいるのは、ただのおばさん。朋輩の息子の探しに来ただけの、ただのおばさんということにしておこうさ」
殺気立つ鑑に、黒い女性は頭を掻いて場を取りなす。
否。気さくな声だが、口許には鋭利な八重歯を覗かせ、魂まで凍りつきそうな冷笑を称えている。
この女はきっと、気が変わらないうちに陸たちを置いていけと言っているのだ。
力の差は明白なのだろう。武器を持つものに身構える必要がないまでに。
怒りか。それとも畏れか。あの鑑が、足許を細かく震わせている。
「……喩え貴女には下らないことに映ろうと、この子たちには手を出させない」
鑑は大刀を握りしめ、はっきりと拒絶する。後ろにいる者を護るために。
「……鑑ちゃん」
「鑑、おまえなんで……」
陸はわからなかった。
どうして鑑はここまでしてくれるのだろう?
ただ紫織に傘を貸してもらった。そんな小さな義理のためではないのは、もう明らかだ。
「……本気で信じていてくれたのに。本気で願っていてくれたのに。わたしはその気持ちに答えてあげなかった。その償いをいまここでする。――ただそれだけよ」
その後ろ姿からは、鑑の表情が窺えない。
だから彼女の言葉の意味も気持ちも陸にはわからない。
ただ早く逃げてと、その華奢な背中が静かに語っていた。
「……いやごめん。覚悟決めてるところ非常に申し訳ないんだけどさ。あたしはそこの馬鹿たれを迎えに来ただけなんだって。だからそこの坊主や嬢ちゃんに危害を加える気なんて更々ないんだよ」
わたわたと、黒い女性は両手をあげ、戦意がないことを示すべく“笑って”みせた。
「「「「……え」」」」
微妙な空気が、荒野にわだかまった。
鑑のまろやかな砂糖菓子のような耳が、うっすらと赤く染まる。
紫織も長いまつ毛を揺らして、眼をぱちくりさせる。
やっちゃえやっちゃえと尻尾を振っていた烈まで、みょんとその動きを止めた。
当然陸までも、石化の呪いを受けたように完全沈黙である。
「……もしかして友好的に笑ったつもりなんだけど、ちっとばかし怖く見える?」
先生の顔色を伺う小学生のように細々と尋ねる黒い女性からは、敵意というものがまるで感じられない。その顔が厳つく凄んで見えること以外は。
「……………かなり苦労、してるのね」
「……………ああ食べられちゃうんだな~って」
「……………うちの伯母さんより」
そっと顔を見合わせた後、遠慮のない意見が鋭く告げられる。
伯母の琴音、鑑と恐ろしい笑顔は陸も多く見てきたが、これはダントツであった。
黒い女性の笑顔は、どれだけよくたとえても、空腹の肉食獣が獲物を前に、にたりと口の端を吊りあげるような――そんな威嚇にしか見えないのだ。
少なくとも鋭利な八重歯は見せないほうがいいと思った陸たちだった。
◆◇◆
「……そっか。その様子だとチャーミングには見えなかったみたいだな……なかなか妹のようにはいかんね」
しょぼんと、黒い女性はこのまま影となって消えてしまいそうなほど力なくうな垂れた。
「こらぁ。おまえら右大看守様に謝れっ! これでも毎日こっそり笑顔の練習されているんだぞ。鏡の前でがんばられておられるんだぞ!」
「よ、余計なこというな。この馬鹿」
黒い女性のことをよほど心酔しているのだろう。
烈は拳骨を浴びせられても構わず、烈火のごとく怒って陸たちを睨んでいた。
「あら。琴音おばさんといっしょだわ」
「マジかよっ?!」
陸にとって初耳の、衝撃の新事実だった。
「……地獄はいつからこんなゆかいな場所になったのかしら」
そんな光景を見て、鑑は決まり悪そうに武装解除するのだった。
「ははっ。どうせあたしの笑みは、“ムンクの叫び”より呪われそうですよーだ。“シャナァク”も“ディスペル”も効果ありませんよーだ。マスターヨーダよりも面妖な笑みですよーだ」
そのまま身体にコケがむしそうなほど、どよんと黒い女性は落ちこんでしまった。
陸たちの言葉が、彼女のトラウマを掘り起こしてしまったようだ。
それにしても、地獄なのに妙に世俗に染まった言葉だった。
というより、どこか人間味があって親しみを持てると、陸は思いはじめた。
「あ、あのお? それで貴女はどなたなんですか? 烈……くんのお知り合い?」
なんとかしようと、紫織はやさしく呼びかけた。
が。黒い女性はいじけて地面に“ムンクの叫び”の絵を描き続けて反応がない。 このまま額縁に飾りたくなるほど上手だった。美術の成績が5の陸が実物を見ながら描いても、ここまでうまくかけるかどうかだ。……描き慣れているだろうか?
「地獄の盟主の一王“泰山府君”子飼いの“番犬”。ヘルハウンドやケルベロスって言えば、わかりやすいかしら。右大看守なら、たしか姉の魅耶だったはずよ」
鑑がかわりに黒い女性の正体を告げる。不思議な少女はなぜか闇世界の事情に精通していた。それに陸は首をひねる。
「へ? ゲームによく出てくるけど、そいつって頭が三つもあるすげえ恐い狂犬じゃねえか。まあたしかに笑顔はアレだけど――すごくきれいで……キレイすぎて恐いぐらい。あり? ならけっきょく恐いのか」
「おまえっ。右大看守様になんて口聞くんだ」
「……別にいいさ。未熟者は黙ってな」
「みぎッ!?」
掴みかからんとする烈を、黒い女性――魅耶がデコピンひとつで制した。
なんとか会話するだけの気力は取り戻したらしい。
岩肌に彫ったジェダイマスターの絵を消した後、魅耶は背筋良く立ちあがった。……うまかったのに、もったいない。
「で、ですが……」
「だいたいあたしはどう指示したのさ? 嬢ちゃんを丁重に連れてくるようにって、言わなかったかい?」
「は、はい。でもこいつらが邪魔したんです」
「邪魔、ねぇ。この行いを邪魔というのなら、世に聖も清もなくなってしまうよ。そもそもだ。おまえが独断で無茶しなければ、こんな間違いは起こらなかったっていうのに、まったくさ」
切れ長の眼をさらに厳しくして、魅耶は烈をたしなめる。
「う。で、ですが! 俺は早く一人前になって母様にーー」
「あんたのその気持ちは応援してやりたいよ。でもさ。今回みたいなことをやっても人の子からは憎悪されるだけで、畏敬の念を抱かれることはまずない。そんなことさえわからずに、まだ言い訳しようっていうのかい?」
「むぐっ。……も、申し訳ございません、右大看守様」
烈は、耳としっぽをしょげさせて押し黙った。
◆◇◆
右大看守とは魅耶の地獄での役職名なのだろうか。
様づけだし、あの生意気な烈が敬っているし、まだ二十代半ばぐらいに見える女性だが、相当偉いやつのようだと、陸は当たりをつけた。
人を殺すのが仕事の妖怪の中でも、大ボスと言える存在。陸は口内のツバを集めて問いかけた。
「……えっと。こんな間違いってどういうことっすか?」
――たとえ相容れない関係であっても、偉い者には無意識のうちに敬語になってしまう。体育会系の悲しい性だった。
「うん? ああ。そうさねぇ……」
魅耶は陸にはじめて気づいたように眺めたあと、思案げにアゴに手を当てた。老人のような落ち着いた仕草だと、陸は思った。
「――誤解されちゃっても仕様がないけどさ。“火車”っていう妖魔は本来、死者の魂を運ぶ存在であって、生者に死を運ぶもんじゃないのさ」
「え。でもコイツは河原で……」
「そうさ。とんでもないことをしでかしてくれた。現世へ家出まがいに無許可で抜け出すだけじゃ飽き足らず、無辜の裸虫にまで危害まで加えた。こんなのだから、まだ見習いのままなのさ」
子供の躾をするように烈をつねりながら、魅耶は申し訳なさそうに告げた。……引っ張っていたのは頬ではなく獣耳で、紫織が触りたそうに人差し指を口に当てていた。
(……あり? そういえば耳が四つ? どっちの耳が本物なんだ。獣耳のが弱点なら、もっとひっぱってやればよかったな)
魅耶の話がすぐには頭に入らず、陸はそんなことをぼんやり考えた。
話が難しくなると他のことを考えてしまうくせが直れば、彼の成績もよくなるだろう。
だが今回ばかりは、脱線するわけにはいかなかった。徐々に陸の眼が見開かれていく。
「……家出って、はあ?! じゃ、じゃあなんだ。姉ちゃんがひどい目にあったのって全部こいつが悪い――いや、悪いのは元々だけど。オレたちはこいつのバカやって巻きこまれただけなんですか? 妖怪だから人を殺すのが当たり前、それが仕事じゃなかったんですか!?」
「……あんた、そんなこと言ったのかい?」
「いたっ。ちょっ、いたいですっ。右大看守様」
烈を睥睨する魅耶の眸から、蒼い燐が放たれたように陸には見えた。荒事に疎い紫織でも息を呑む、すさまじい眼力だった。
「己の存在理由と関係ない殺しは厳禁。そもそも理不尽に命を奪われ、憎悪や悲哀の念に凝り固まった裸虫の霊魂に価値はないって、あたしは言ったよな」
「ひゃい。いいまちた。でも、みんなを見返して、やりちゃかったんでしゅ」
雑巾のように耳を強くねじられ、烈は呂律が回らなくなる。
まだ口答えしようとする烈に、魅耶は大喝した。落雷のような声に、鑑まで耳を押さえている。うるさいのが苦手なようだ。
「この莫迦者が! 若い妖魔はただでさえ当てられやすいっていうのに。あんたは自分の存在そのものを歪めて台無しにしたかったのか。火車は裸虫に理不尽な死を与えることを愉悦する化け物じゃない。悪人の魂だけを地獄に連れ去ることで、裸虫に善行を積むよう訓戒を与える誇り高い存在なのだぞ!」「……。……ごめん……な――さ、い」
陸はその光景が信じられなかった。
悪いことをした子供をしつけるような魅耶と烈のやりとりは、どこの家庭にでもあるような平凡なものだ。陸は怒りを通りこえて、呆れてしまった。
烈が河原にいたのは、犠牲者を探すための営業出張ではなく、ただの子どもの家出。
そして半人前の自分のことを周囲に認めさせるために、“妖怪らしい”悪行をした。
けれどそれは、本来の火車という妖怪のあり方からは間違ったものだったらしい。
すべては子どもの背伸びがなしたもの、といったところか。
よくイタズラをする陸でも、流石にここまでバカなことはしない、はずだ。
いや、そんな大ごとにならないよう、紫織がしっかり支えてくれたのだ。
それなのに、平和の象徴のような紫織をひどい目に遭わせただなんて、と陸は閉口する。
◆◇◆
「本当にすまなかったね。謝ってすまされる事じゃないがこの通りだ。こいつだって根はまともな子だからさ。――ほら、あんたもまずは謝りな」
魅耶はそう言って、膨れる烈といっしょに頭を下げる。
その姿は、子供の不始末を謝る母親そのものだった。
ひくりと、陸の胸が痛んだ。寒さで古傷が痛むような感覚が、胸に染みる。
「……いや。謝るならオレより姉ちゃんに言ってください。一番の被害者は姉ちゃんです」
魅耶から顔を逸らし、陸は石ころを転がして気のない返事をする。
ごめんなさいで許せるほど陸は大人ではなかったし、お人好しでもなかった。
「……ここまで助けに来たことを含めて、ホントにできた弟さんだね」
陸は暗い思考の海に沈む。そんなことを言われる資格が自分にあるのだろうか。
「わたしの自慢の弟ですから」
紫織がやさしげな笑顔で微笑んでくれるのなら、真実なのだろう。――たとえその笑みが、中学生の少女に相応しくない慈愛に満ちたものだったとしても。
「怖い目に遭わせて悪かったね、嬢ちゃん。どんなことをしたって償わせてもらうよ」
「……。……ご、ごめんなさい」
「はい、よくできました。ちょっと貴重な経験ができたし、別にもういいよ」
「……っ」
ぎちりと、すり減ったなにかが壊れそうな音。陸は歯を強くかみ合わせていた。
(なんでこのクソ猫は姉ちゃんにしっかり謝ることもしねえんだ? なんでたったそれだけで姉ちゃんは許しちまうんだ? なにがあっても許し続けて、ずっと笑って……!)
陸が不満に思っていると、紫織は彼の心情を察したように弟のおでこを小突いた。
「でも陸くんは謝ってもくれてないし、もう簡単には許してあげないよ」
「――ぬへ?」
「川でもここでも危ないことばっかりして、あとでたくさんお説教だからね」
「ぬぐっ。お、お手柔らかに」
「ふふっ。だーめっ♪」
紫織が本気で説教した場合、伯母の琴音のお小言より泣きそうになる。
なのに、その身内には厳しい姿に――陸を特別扱いすることに――彼は現金にも溜飲が下がるのだった。




