2 悪友
一学期最後の登校日。
緊急の全校集会がおわり、生徒はアリのように整然と校舎に戻っていく。ひとり欠けても、集団はいつも通りに機能する。
陸にはそのことが納得できなかった。その夜見たはずの夢を、みんな朝起きると忘れているのと同じぐらい不思議でならなかった。
走った。周囲の流れに反発し、生徒を押しのけて四階の教室に駆け戻った。無人の教室で、陸の腹に溜まった感情はついに爆発する。
鈍い音。激情に身を任せ、壁を殴りつけていた。ぱらぱらと、壁の破片がはがれ落ちる。
「――っ!!」
拳がじんと痛かった。腫れた拳が、陸にはたまらないほど憎らしく写った。――死ねばこんな役立たずなものは、見えるはずがないからだ。
(足りない。これっぽっちじゃ、タリナイ! もっと痛い目にあわねえと“同じ”には……)
普段の彼では思いもしない、自虐的な考えが頭を埋め尽くす。
「よし、アイムナンバーワン。……ってありゃ? なんだ、陸が先だったか」
陸が半ば窓枠に身を乗り出しかけたとき、男子生徒が教室に駆けこんできた。どきりと、陸は動けなくなった。
奥歯を噛む。目の前で死なれるのはいやなのか? ……ろくに覚えてもないくせに。
垢ぬけた声の主は、五十嵐悠也だった。陸がひとりで校舎へ駆けていったのを見かねて、追いかけてきたのだろう。
いまの陸に話しかける者はいないのに、図々しくも話しかける――気にかける小学校からの陸の友人だ。
だが陸は、悠也のそんなめずらしい気づかいに、嫌みのひとつも返す気になれなかった。黙って窓際の席に座り、悠也を無視するように窓の外を見あげた。
鉄筋の校舎を溶かすような強い日差しに、いっそ焦がされてしまいたい。
忌々しいほど暑苦しい太陽を睨んでいる間に、ベルが鳴り、担任が教室の扉を開ける。
担任は陸をちらりと見た後、教壇の上で重々しく話をはじめたが、陸はずっと空を見ていた。
陽射しを和らげる大きな雲は、ただひたすら遠くにある。綿あめのように空を包みこむ雲のさらに向こうには、ここにはないものがあってくれるのだろうか?
……けどそれは、もう手の届かないものだ。トンチンカンな発言に、静かに笑って撫でてくれる人はどこにもいない。
陸は空しくなって、靴の裏についたグラウンドの砂利を机の下のパイプで削り落とす。
こんなにも簡単に自分から離れていく。あっさりと零れ落ちていく。
(忘れていた。当たり前の毎日は、この砂みたいにあっけないものだったのに……)
◆◇◆
「おーい、陸。お前、成績どうだった?」
「……?」
……いつのまにか、放課後になっていたらしい。ふと陸が顔をおろすと、教室はがらんとしていた。
まるで壊れた時計だ。時間の流れがとてもはやく、そしてとてもとてものろく感じる。あるときは、記憶からすっぽりと抜け落ちている。またあのときは、ぐるぐると同じことを繰り返している。――濡れた、動かない、冷たい顔、ばかり。
「むぅ。これで三回目になるけど、めげずにワンスモア、チャレンジ。“二度あることは三度ある”になるか。“三度目の正直”になるか。レッツ! おーい、陸。お前成績どうだった? ダンマリだと勝手に見ちまうぞ」
「……」
陸の前の机に悠也が腰掛けていた。机の上にあった通知表を、陸は黙って押しつける。叱られることも、誉められることもない紙切れなんて、見られてもどうでもよかった。
「……うわっ。あはは。なんだこの小学校のころを越えるアンバランスさは。美術、音楽、技術家庭科、体育……実技はオール5の完璧超人なのに、どうしてお前ってば主要五科目じゃこうも残念なんだ? というか1なんてマジであったのかよ! こんなんだからお前、“紙一重の馬鹿”だなんて呼ばれるんだよ。これは新たなレジェンドだな」
「……」
(ほら)
「よ、よーし。こうゆう時は気ばらしだな。せっかくの夏休みだし今からパァと遊びに行こうぜ。あ、そうだ。駅前のゲーセン。リニューアルオープンで一回無料らしいから、ちょっと行って見ねぇか?」
「……。……」
(なんの意味もない)
「ん、んむ。まったく反応しないとは陸くんもアダルトの階段をのぼったな。……あぁ、階段といえば知ってるか? 商店街の“無間階段神社”。大雨ん時にブレイクしちまったらしいぜ。昔埋めたタイムカプセル気になるし、様子見に行ってみないか?」
「……。……。……」
(もうどうでもいい。三人だけの秘密をふたりでやってどうするんだ)
「うぅむ。や、やっぱりここは部活だよな。あのムッサイ剣道着が俺たちを待ってるもんな。まったくユーもまじめ君だな。しゃあない、くっさい臭いが染みつく前に……」
「……今日通夜。三時には帰れって」
憎らしいほど饒舌な悠也の言葉を、陸は抑揚のない声でさえぎった。
あれだけ好きだった剣道も、なにが楽しかったのかまるでわからない。棒切れを振り回しているだけで、結局なにも守れなかった。
「そ、そっか。……あのさ、陸。いつまでもそんな顔すんなよ。きっと――」
「ああもう、うぜえよ! ほっといてくれ。悠也にはなにも関係ねえだろ!」
みんな壊れてしまえ。陸はそんな気持ちで机を叩きつけ、立ちあがった。
そのとき、陸ははじめて自分の友人の顔を見た。悠也は泣きそうだった。陽気な仮面が割れたような、ぎこちない笑みだった。
「……ああもう、ガッテム! やめだ、やめだっ。いい加減にしろよ、お前! シリアスを食いものと間違えるようなサマーヤローが似合わないんだよっ! せっかく俺が心配してやってるのに、その態度はないだろ」
「だれも心配してくれなんて頼んでねえよ」
陸は悠也の胸ぐらをつかみ、鋭く睨みつけた。それに悠也も眉を逆立て、憤然と陸の胸ぐらをつかみ返す。ふたりの間に、一触即発の雰囲気が漂う。
「はんっ、だいたいな。聞いたぜ。あの川での事故、お前が先におぼれたんだって? それを紫織さんは助けようとしてあんなことになったんだってな」
「……。なにが言いたい?」
胸元をつかむ陸の手が、細かく震えた。
今日はじめて、学校でその名を聞いた。陸のかけがえのない家族――姉の紫織が死んでしまった現実を突きつけられて、陸は獣のように低くうなった。
そんな陸を見て、悠也は鼻で嗤った。
「だったら、お前が紫織さんを殺したようなもんだろ? かわいそうなのは、お前じゃないんだよ。なのにしけたツラしやがって、みっともないったらありゃしないぜ」
その一言に、陸の理性は弾け飛んだ。つかんだ胸ぐらを引き寄せ、左拳で悠也の顔面を強打する。
「……うるさい、黙れ! そんなこと、おまえに言われなくてもわかってるっ! おまえにバカにされるまでもなく、バカなオレでもわかってるんだ!! でもな。おまえなんかに、オレの姉ちゃんのいったいなにがわかるんだっ!!」
ガラガラと、教室の机と椅子を巻きこんで悠也が派手に転がる。
殴り飛ばされた悠也は、悪態とともに首を振って起きあがる。その眸は、やり場のない哀しみで暗く濁っていた。
「わかるかよっ、この馬鹿っ! なにもわからなくさせたのはお前だろうがっ!」
悠也の言葉は正しすぎてイヤになる。なんの反論も言い逃れもできない。
でもこんな喧嘩を鮮やかにとめてくれる人はもういない。ずっとずっといない。
そのことを認めてしまうことのほうが、もっとイヤだった。
だから陸は、眼の前の男を黙らせることだけを考える。すべてを忘れたいがために猛然と身体を動かす。がむしゃらに振るった拳は、ただ痛かった。
……そんな当たり前のことさえ、すぐに紫織が喧嘩をとめてくれていたから、陸は久しく忘れていた。




