19 火車
(――くそっ。なんで気づけなかったんだ)
陸は下唇を血が出そうなほど噛みしめた。
一見、紫織はいつものように穏やかに見える。だが、その笑みは、触れれば簡単に歪んでしまう儚げなものだと気づいてしまった。
それは自分が心から楽しいから笑うのではない。“人の為”に笑う“偽り”の笑み。隣にいる弟を不安にさせないための、精一杯のごまかしだったのだ。
いや、見せかけの明るさだと自覚せずに、自分よりも家族を気遣ってしまう、そんな姉だと陸は知っていたはずなのに……。
「だいじょうぶだ、姉ちゃん。心配すんな。ここにオレがいる。ちゃんと連れて帰るから」
「……陸、くん」
紫織よりもずっと下手な“偽り”の笑顔を浮かべ、陸は姉の手を握りしめた。
荒野の闇穴道にずっといたためか、紫織の手は細かく震え、ひどく冷たかった。あるいはこれが死者の体温なのか。
でも、それでも、ここにいた。紫織はたしかにここにいて、手を握り返してくれた。
ならば、その手の安らぎを、もう失うわけにはいかない。
(このクソ野郎は、姉ちゃんがどれだけ困っているか、ぜんぜんわかってねえ。理不尽に死んだことをどれだけ悲しんでいるか、まるでわかってねえ。オレでもわかっちまうほど笑顔を曇らせることなんて、今までなかったのに!)
火の玉のような激情が、陸を支配しはじめていた。
烈は、聞き捨てならない台詞を言った。
紫織をここに堕とした、とたしかに言ったのだ。
「――おい、おまえ。いったいなんのつもりだ。なんで姉ちゃんをこんな目に遭わせる?川で取り残されてて困ってたんじゃねえのか?」
静かに。せめて言葉だけは冷静に、陸は烈に問いただした。
返答次第では許さないと、肩に背負った革袋から虎鉄丸を片手で抜いた。
「ふふん。この俺が川の水を恐がるはずないだろ。俺は“火車猫 ”っていう“妖魔”。物語にもよく語られる偉大な妖怪なんだから」
「……猫の妖怪か。なるほどな」
「おいおい、妖怪だぜ? 手間が省けていいけど、おまえさんまでこんな眉唾なことをあっさりと頷いてくれるのかい? 姉弟揃ってお人よしだねえ」
「別に信じたわけじゃないさ。ただ、妖怪みたいな人でなしでもなければ、姉ちゃんにこんなひでえことはできないはずだって思っただけだ」
木刀の切っ先を向けられて、烈はゆっくりと嗜虐的な冷笑を浮かべる。
「くはっ、いいね。そうこなくっちゃ。こういうのを待ってたんだよ」
軽薄そうなしゃべり方をしていたが、烈の眼は飢えた獣のように炯々と輝いている。
そこらのいじめっ子とはわけが違う。紫織に危害を加えて薄ら笑む人外の悪党。
今度こそ、絶対に自分が守らなければならないと、木刀を片手で低く構えた。
「楽しませてくれる褒美に、質問に答えてやるよ。なんでその女をこんな目に遭わせたか、だっけ? それは仕事だからさ」
「仕事?」
「火車は死体をさらうことを生業とする妖魔なのさ。けど、最近は地獄も不景気でね。いい死体が中々手に入らない。だから仕様がなく現世まで出張営業してたとこに、見つけたのがおまえさんたちだったってわけだ。くふっ。あの時のおまえさんの顔、最高だったぞ。奪うまでもなく魂の抜けたような間抜け面だったもんなぁ」
烈は愉悦を潤滑油に、饒舌にしゃべる。
「なんだ、それ」
陸の視界が、真っ赤に染まる。
噴火するマグマのような怒りが、腹から吹き上がってきた。
烈はいったい、なにをいっているのだろう?
助けようとした陸を裏切っておいて。中州で取り残されたのを見つけた紫織を溺れさせておいて。悠也を。学校のみんなを。慎治を。祖父を。琴音を。家族を。たくさんの人を悲しませておいて。紫織を殺しておいて。
そんなことが、仕事だってっ!
「ざけんなっ!! ただ、オマエのこと助けようとしただけなのに……なんで!」
「そう熱くなるなよ。それが火車の仕事なんだから致し方ないじゃないか。だいたい俺たちは妖魔。おまえさんたちは人間。元より敵対しあうのは宿命なんだ。恩を仇で返すのは寧ろ当たり前だろう?」
烈は残酷な運命を嘆くように、肩を大仰に竦めてみせる。
軽い動作と異なり、その眼は虎視眈々と陸との間合いを測っていた。
「そうかよ」
陸は久しぶりに、喧嘩で剣の技を使うことを決めた。小学校低学年のころ、母がいないことを自分のことはともかく、紫織のことまでからかわれたとき以来だ。
そのとき以上に、このクソ生意気な猫妖怪をメッタメッタのギッタギタのボッコボッコに叩きのめさないと、気がすまなくなっていた。
◆◇◆
「けど、なんで生身のおまえさんまでここにいるんだろうな。……まあいっか。ついでにおまえさんも殺して、まとめて地獄に連れてってやるよ」
「……」
陸は紫織の手をもう一度ぎゅっと握った後、虎鉄丸に両手を添えて正眼に構えることで烈の悪意に応じる。
殺す。冗談でない本気の殺意を耳にしても、逃げるという考えは浮かばなかった。それほど陸の精神は高揚しきっていた。
「こらっ、さっきから何てこと言い合ってるの。二人とも喧嘩しちゃだめでしょ」
「……姉ちゃん?」
陸の高ぶりを鎮めたのは、紫織の手の重みだった。おろおろと両者の言い合いを見ていた紫織が、虎鉄丸の柄に手を添えて仲裁に入る。
ご馳走を横取りされた猛獣そのものの息づかいで、烈は朱い眼を燃やした。
「んだよ。良いところなのに、邪魔する気かい?」
「もう、喧嘩しちゃダメだよ」
烈の唸りにも紫織は臆さず注意する。けれど、今度はその声は届かない。
常識で計れない世界では、常識的な紫織の言葉は通じない。
「はんっ。俺は俺より弱い奴からの指図なんて受けない」
その愚劣さを、烈は嗤った。
風が一閃、陸のすぐ横を駆け抜ける。
「――え?」
陸には、烈の腕がぶれたようにしか見えなかった。
はらりと、後ろで束ねた紫織の黒髪が拡がる。
彼女の白いリボンがついた髪留めが、ズタズタに細切れになる。
紫織は呆然と、岩場に切れ落ちたリボンの残骸を見つめる。
「来世に渡りたければ、そこを退いてな。今度しゃしゃり出たら、当てるぜ」
その凶事を起こしたのは、烈の爪だった。
肉食獣らしく鋭利に伸びて、研ぎ澄まされた鎌のようにぎらついている。
それは、ナイフを持った殺人鬼よりも原始的な恐怖を人に与えた。
なぜならその力は、道具という借り物ではなく自身の身体が持つ力。存在そのものが恐怖の具現なのだから。――これが、妖怪というバケモノ。
(――また、なにもできなかった。姉ちゃんを傷つけられてしまった)
この一撃で、イヤでもわかってしまった。
皮肉なことに剣道の経験が、烈には勝てないこと陸にはっきりとわからせてしまった。
そう。これは喧嘩や試合などという甘いものでなく、命のやり取りなのだ。そんな殺伐としたものに、平穏に暮らしてきた陸ら中学生が、対応できるはずもない。
「ダメ! やめて! お願いだから乱暴しないで。死んだのはわたしだけなんでしょう? だからお願い。陸くんには手を出さないで」
重々しい殺気の中、紫織が烈の前へ進み出た。
手が、足が、身体が、小刻みに震えている。
おっとりしていても、聡明な紫織のことだ。状況がわからないはずもない。理解してるからこそ、大切な弟の命までもが失われてしまうことだけは避けようとしているのだ。
「はっ。二人仲良く連れて行ってやろうってのに、邪魔な女だなぁ」
ようやく見せた紫織の無力な人間らしい反応に、烈は鋭い犬歯をむき出しにして嗤う。
狂気に酔った妖魔は、ゆらりと、赤銅色の牙爪を胸元で交叉させる。
視線の先は、陸ののど笛。理不尽に冥府に追いやられた紫織を、さらなる絶望の底に沈めようと身体をたわませる。
「クソッ」
陸は指先に力を傾注することで、虎鉄丸の震えをなんとか止めた。
だが陸の構える木刀など、人外の烈にとって蟷螂の斧にすぎない。
わずかに対峙しただけで、呼吸が乱れ、陸の額から冷たい汗が吹きこぼれる。
勝てる道理がない。人と妖。彼我の戦力差は歴然で、勝負にすらならないことを、陸は痛感した。だから己ができることをした。
「逃げろ、姉ちゃん! 早くっ!」
こうなれば、一歩でも遠くへ紫織を逃がすと陸は腹に決めた。身体で紫織を自分の後ろに追いやる。
「いや。やだ。やめて!」
争いを望まない紫織の声は届かない。
烈の身体がさらに低く、這った獣のように地面へ沈む。
その禍々しい牙爪が、反応さえ許さず陸の命を刈り取ろうとした、その刹那――
「そこまでにしときなさい」
――、一陣の風とともに女性の声が届いた。
常識で計れない世界では、常識的な紫織の言葉は通じない。
通じるのは同じく非常識の存在の言葉だった。
凜とした鈴の音。白い少女が――鑑が旋風の中より姿を現す。




