18 元凶
「――おっと。すまんがそいつはできない相談だ。その女を帰すわけにはいかないな」
頭上から、男の声が割りこんだ。
岩の上。赤い少年が胡座をかいてニヤニヤと見下ろしている。やせ気味で小柄な身体つきは、活発で俊敏そうな印象があった。
「――だれだ。おまえ?」
まるで擬態を解いた動物。紫織が寄りかかっていたときには、岩の上にだれもいなかったはずである。――いや、ここは地獄の入り口、闇穴道という非日常の場所だ。多少の不思議なとこは、いい加減慣れておくべきだろう。
陸は油断なく赤い少年を睨みつける。
年のころは、陸と同じ中学生ぐらいか。赤錆びた大地によく映える藍色の着物を、背伸びするように着崩している。
乱雑に切り揃えられた赤い髪の下に、朱色の眼が不敵な笑みを浮かべていた。
「おやおや、つれないなぁ。俺のことをチビ呼ばわりしてくれたくせに、もう忘れちまったのかい?」
赤い少年は、大仰に肩をすくめて見せた。
すごくイヤな感じ。腹立たしくなる前に、芝居がかったそれは不気味に感じた。
「なに言ってやがるんだ。オレはおまえと会ったことなんて……っ!」
不吉な朱色。ごく最近どこかで見た。せせら笑うような薄笑い。
陸は既知感に、頭を振る。
濁流の音。嘲り声。悲鳴。ツギハギの映像にいるのは陸と紫織と――
(オレはこいつを知っている? どこだ? どこで会ったんだ?)
血液が沸騰するように、陸に嫌悪感が沸きあがってくる。
見下してくる朱い眸の底に、暗い煌めきがある。決して相容れることなどできない存在。鑑の眸が紅玉の冷たさなら、この男の眸はあら熱の残った燠火。距離を間違えれば焦がされてしまうような、峻烈な気配を放っている。
「おまえは――!」
「くくっ。そうさ。俺は……」
「こら、きみ! そんな所にいたら危ないわよ。お話しするなら、降りておいで」
緊迫した場にそぐわない声が、赤い少年の名乗りを遮った。
紫織のゆったりした声だった。岩の上にいる赤い少年を、心配そうに見ている。
「はぁ? おまえさん、いまの状況わかってないのかよ。いいか、俺は――」
「いいから、降りなさい。はやく」
一語一語、鋭くはっきりと。
紫織の注意に、赤い少年は、親に悪戯がばれた子供のように身体を縮こまらせた。
それはそれはとてもキレイな笑顔で、紫織は微笑んだのだろう。
通称“般若の微笑”と陸が恐れるものである。わんぱくな陸に対して、紫織が自然と身に着けた静の怒りの体現だった。おかげで怒られていない陸まで身がすくんだ。
「う゛ぐっ。わ、わかったよ。今下りる」
「ひとりで降りられる? なにか台になるもの、探してこようか?」
「いい。いらない」
赤い少年は胡座の姿勢のまま、にわかに足の力だけで跳んだ。一回転して着地。人の身長より高い岩から降りたとは思えないほど軽やかさだった。
「~~っ。これでいいんだろ」
赤い少年は、膝を堪えながら仏頂面に言う。……少し格好をつけすぎたらしい。
場を仕切り直そうと、咳払いしようとして――
「もう。岩なんかに登ったらめっだよ?」
「――っ」
赤い少年は、紫織に叱られる。片手を腰に当て、人差し指をぴんと立て、完全に悪い子扱いだ。ひくひくと、赤い少年の眼の縁の筋肉が痙攣する。
ほんわかとゆるまりそうな気配を払らおうと、大きく二度咳払いしようとして――
「もう、めっですよ?」
「うっ」
紫織はもう一度優しくない微笑を浮かべた。陸まで震えが伝染する。
紫織を本気で怒らせた場合、久遠院家の男衆は無条件降伏を選択する以外なかった。台所には公然と凶器が置かれている。包丁など使うまでもなく、まな板ひとつで陸は昔ノックアウトされたことがあった。
これ以上逆らうのはまずいと、赤い少年も察したのだろう。
「ご、ごめんなさい。気をつけます」
「はい。よくできました」
陸は赤い少年がちょっとかわいそうになってきた。しょぼんと、楽しみにしていた遠足が雨で中止になってしまった幼稚園児のように、うな垂れている。
藍色の着物の裾を力なく掴み、登場したときの不敵さは見る影もなかった。
「……こいつ、なにしに来たんだ?」
「陸くん、こいつなんて言わないの。――きみ、お名前は?」
「……烈だ」
下手に逆らうより、紫織に任せたほうが話も進むと思ったのだろう。
赤い少年、烈はぶっきらぼうに答えた。――苗字を言わず名前だけを。
それに、陸は弾かれたように背中の竹刀袋の紐を解いた。
ごく最近、名前だけで名字を名乗らなかった者がいた。
今は烈もおとなしいが、彼女のように友好的だとは限らない。
そんなことは知らない紫織は、曇天の寒空を晴らすような温かな笑顔を烈に向けた。
「そう。わたしは久遠院紫織。こっちは弟の陸くんだよ。よろしくね、烈くん」
「う、うん」
「ところで烈くん。ここって、どこだかわかるかな? さっきからいっぱい歩いても何にもなくって……」
「――くふっ、なんだ。あはは。そういうことだったのか」
紫織の困り顔に、烈の顔が発狂したように歪んだ。チョウの鮮やかな羽を千切って遊ぶ子供のような、実に愉しげで残忍な笑みだった。
――紫織がいつもどおりほんわかしている理由が、陸にもやっとわかった。彼女は川でおぼれた後、自分がどうなってしまったか気づいていないのだ。
「ここは罪深き人間がさまよう地下世界さ。ようこそ、無知蒙昧なお客人」
左手を胸に当てて、烈は大げさに一礼してみせた。
烈の頭頂部。鮮やかな赤髪から、ふたつの塊が、迫りあがる。
それは人間の耳とは明らかに異なる、二等辺三角形の大きな獣の耳だった。付け耳とは思えない。周囲を窺うように時折、実に繊細に動いている。
そして烈の腰あたりで、ゆらゆらとしなるものが伸びてくる。先っぽが二股に割れた、動物のしっぽだった。
「なっ。獣人?」
「――え? そ、それって本物なの?」
「当たり前だろう」
ぴこぴこと、烈は得意げに耳としっぽを揺らす。まさにマンガやゲームに出てくる空想上の獣人そのものだ。
それはたとえどれだけ人間に似ていても……違うモノだ。
が。警戒を強める陸をよそに、紫織は驚きながらも眼を輝かせる。
「わぁ。うわぁ。可愛い~」
「ふへ? かわいい?」
ほにゃらと、紫織の顔がほころんだ。遊園地のマスコットを本物だと信じこむ無邪気な子どものような笑顔である。
獣の本能か、烈は股にしっぽを挟んで後ずさった。
「いいな、いいな。ちょっと触ってもいい?」
「や。ちょ、待て」
許可を求めておきながら、紫織は有無を言わせず烈を拘束する。
女の子らしく、かわいいもの好き。そして並大抵のことは、“そうなんだあ”で紫織は信じてしまう。
烈が人外だろうと、外国人に会った程度にしか思ってないのかもしれない。
「やめっ。そこひゃ?! にゃははっ!!」
「やだやだ、なにこれ。すっご~い。もふもふだよ。あったかいなあ」
「……なにやってるんだよ、姉ちゃん」
陸が軽く嫉妬するほど平和なじゃれ合いだった。でもその楽しそうな紫織の顔は、どこか必要以上に明るすぎる気もした。
「――このっ、気安く触んなっっ!!」
烈が紫織から跳び退いた。軽業師のような動きで後方宙返りし、しなやかに着地する。軽快なその動きは、獣じみていた。……腰砕けの獣のようになっていた。
「あぅ。ご、ごめんなさい。痛かった?」
「いや、なかなか気持よか……じゃなくって。そんなことより、あんた他に聞くべきことがあんだろっ! 一体何者なんだとか、なんで獣の耳あるんだとかさぁ」
獣の耳という言葉にまた反応した紫織に、みょんと、烈は赤い獣耳をへたらせる。
無防備に再び烈に手が伸びる紫織を、陸は引き止めた。
「だめだ。姉ちゃん」
「あれ? どうしたの、陸くん。陸くんも触ってみたいの?」
陸は額を押さえながら、首を横に振る。万力で締めつけられたような鈍痛がする。
血のように不吉なよどみ。烈の――その朱い眸を見ていたら、言いようのない不快感がこみあげてくる。それは悪寒と言っても差し支えなかった。
雨上がり。
学校。
帰り道。
誕生日。 買い物。 ケーキ。
八宝橋。 中州。 水。 濁った
川 原。 こ、ね、、、、こ
昨日のことの断片が、バラバラになった古い絵本のように再生されていく。
そう。自分はこいつにそっくりなものを、昨日、あの川原で見たのではなかったか。
◆◇◆
「だ、だいじょうぶ? 陸くん」
「……オレはいいから。話を進めてくれ」
「う、うん。じゃあええと……。烈くんってどこの子なのかな? わたしたちのこと知ってるみたいだけど」
脂汗を浮かべる陸を心配しつつも、紫織は柔らかな笑みで烈に尋ねる。
「む。あんたまで子ども扱いしやがって。……まあいいか。つれないこといってくれるけど、俺とこうして遭うのは二度目なんだぜ?」
「あれ? 前に会ったことあったかな?」
「そうだな。この姿だと、ちょっとわかりにくいか」
そう呟いた烈の姿が、ふっと黒い影のようなものに包まれて小さくなる。
烈が立っていた場所に現れたのは、一匹の赤茶色の仔猫。燠火のような朱い眼で、くりっと見あげてくる。
「かっ、可愛い」
紫織が思わず声をあげる。
「もしかして……烈くん、なの? 河原のときの猫さんが」
『そうさ、やっと気づいたか。昨日は助けてくれてありがとよ。思いがけず、野望に一歩近づいたってもんだ』
先ほどまで着ていた藍色の着物に埋もれながら、仔猫短く鳴いた。
また黒い影に包まれ、烈の姿が仔猫からまた人へと戻る。
しっぽと獣耳をこれ見よがしに動かして、得意げに喉を鳴らす。
その烈の姿を見て、陸の途切れた記憶の糸が繋がってきた。
烈は昨日、氾濫する川の中州に取り残されていた仔猫だったのだ。
だが、助けてもらったはずの恩人に、軽薄な薄笑いを浮かべている。
水難事故の全容が、詳らかとはいえない。まだ、陸には思い出せてないことがある。
「――そっか。無事だったんだ。よかった~」
陸の焦燥をよそに、紫織は雨に濡れた花のように麗しげな笑顔で、安堵の息を洩らす。烈が現れてからずっと変わらない微笑。
「反応違くないかっ!? 化け猫だぞ!? 俺はおまえさんをここに堕とした邪猫なんだぞ!? もっと畏れてくれないと張り合いがないじゃないか」
「なに言ってるの? 烈くん、可愛いじゃない。ねえねえ、地下世界ってことは、ここがあの御伽の国なのかしら。一度行ってみたかったんだよね。帽子屋さんとか赤の女王さんとかってどこにいるの、猫さん?」
きょろきょろと見渡す紫織の仕草は、十五歳になりながら絵本の世界に憧れる童女そのものであった。どこか大げさすぎてぎこちないと、陸は思った。
「俺は“不思議の国のアリス”のシェシャ猫じゃないよ!! ここはアンダーランドじゃなくて、闇穴道――地獄への街道だ!」
「え。地獄?」
紫織のつぶらな眸が揺らいだ。ついにその笑顔さえもが曇った。その一瞬を、陸は見逃さなかった。
「そうだよ。おまえさんは死んで、地獄に堕ちるとこなんだよ」
「あぅ。じゃあやっぱりわたし、あの時川で溺れて死んじゃったんだ」
「そういうことさ。どうよ。理不尽に死後の世界に堕ちた気分は」
「どうしよ~。お誕生日のケーキ食べ損ねちゃったよ」
「反応軽っ! 死んでまず気にすることが、食い物のことかよっ!?」
「えぇ。甘いものは、女の子の体を作るとっても大切なものなんだよ」
「ああくそ。なんつうぽやっとした女なんだよ」
頬を膨らませる紫織に、烈もやりにくそうに耳としっぽをへたらせる。
けれど陸だけは、きつく下唇を噛んでその様子を見つめていた。




