17 再開
「ぬぐぐっ。げほっ。息できなかった。ショウキよりひでえ目にあった」
「……」
胸を抑えながら、陸は力なく歩く。竹刀袋とトートバックがイヤに重く感じる。
セクハラするぐらい元気があるなら、と紫織探しは早めに再開となった。
鑑は陸と距離を取って、黙々と歩いている。黒い傘が上下に激しく揺れていた。――流石に怒っているようだ。
「けど、あんけつどうだっけ? マジでひでえ場所だよな。せっかく生まれたのに、死んじまって、なんでこんな険しい場所通って地獄にいかないとならねえんだろうな」
陸は改めて殺伐とした大地を眺める。砂、砂、砂。そして岩。行けども行けども、無味乾燥な荒野。空は黒々とした雲――瘴気でおどろおどろしく覆われている。
そばにだれかが――鑑がいなければ狂ってしまってもおかしくない。早く紫織を見つけ出さないと。
「……なに言ってるの? 君たちが、ここ、そうしたんじゃない」
「――ぬえ?」
黄泉路の風よりも冷ややかな声。その言葉が、鑑の返事だと気づくまで時間がかかった。
傾けた傘の布に隠れ、鑑の表情は覗けない。けれど、足許から鳥肌が立った。
「極楽、地獄って、死後の世界にまで差もとめたのは、君たち人間。この末路は、死後の旅路にすらただの安息願えなかった、君たち人間の罪過がなしえたもの」
「――っ!」
「清浄でいたいと祈るなら、なぜ他とくらべて妬み、ツバ吐くの? そんなの、自身の居場所穢すだけじゃない。……人間ってほんと愚かな夢見るものよね」
くるくるり、傘の柄が廻される。布地から鑑の横顔が露わになる。
はじめて見た。こんな色のない笑みを浮かべるやつは。
だがそれは、自分自身まで侮蔑するような、悲しい笑みのようにも陸には感じられた。
「――なんだよ、それ。そんなのおもしろくねえぞ。自分で自分を苦しめてるみたいで、まるっきりバカみたいじゃねえか」
「――そう、ね。なら君は、みんなに救いがある世界希うようになさい。弱い者が呪詛の受け皿になるの、わたしも嫌いだから」
陸の子どもっぽい反発に、鑑は低く笑う。まったく少女らしくない、落ち着いた笑み。だがいくらか温かい眼差しで陸を見つめた。
「こいねがう?」
「強く希望持って、純真に願いなさいってことよ。醜く穢れた世界美しく変えるのも、また人の想いなのだから、ね」
鑑は面倒そうにはせず、むしろ幼子に言葉を教える母親のようにゆっくりと丁寧に陸に言いふくめた。
「……それだけでいいのか? 願うぐらいで世界がどうにかなるんだったら、だれも苦労しねえぞ」
「もちろん、ただ願うだけじゃだめよ。でも、ね。想いとは力。かけがえのない意志の源。その力が人動かすの。情や愛ですら、どうしようもなくちっぽけで簡単に消えてしまうものだけど。でも想いと想いが――人と人が集まれば、それこそ地獄という異界すら、想い描いてしまう。けっして軽んじないほうがいいわ」
それはきっと、鑑の想いでもあるのだろう。儚げのようで、とても強い。
まるで死んだばっちゃんから話を聞いているようだと、陸は思った。
離れていたふたりの距離は、いつのまにか話しやすいよう縮まっていた。
「……ふうん。オレたちが地獄を思い描いた、か。ってことは、こんなすげえ広い場所も、オレたちの思いが造りだしたのか?」
「――人間だけはいつか死ぬこと、知っている。だからこそ、よりよく生きようとする。空飛びたいと想って、飛行機発明したように、想像し、創造していく。それが君たち“有限生命体”の、永遠の託しかたでしょう」
明確に肯定や否定はせず、鑑はじっと陸を見た。憧憬と、眼の奥に寂寞が入り交じったような、複雑な眼差しだった。
陸はそれには気づかず、好奇心旺盛に、黒い眸をくるくると闇穴道に巡らせている。
「――へえ。そう言われると、思いの力ってなんかすげえものに思えてきたぞ」
「……ま。わたしには、希えだなんて君に言える資格ないけど、ね」
「なんでだ? こいねがうって、すごくすてきな言葉だと思うぜ。強く希望を持てば、精一杯がんばろうって思えるじゃねえか」
いいことを教えてくれた、と陸は鑑に磊落に笑いかける。
だから鑑の言葉の中にある線引き――“君たち”という言葉には、鑑自身はいないことに陸は思い至らなかった。否、考えたくなかったのだ。
それではまるで、鑑が自分は人間じゃないと言っているようなものだから。
「……。……ありがと。そう想ってもらえると、わたしも――」
そう呟いた鑑が、ぼんやりと瘴気の空を見あげた。
まるでなにかを思いつめるように、その先を見つめているようだった。
彼女から香る甘い果実のような薫りが、どうしようもなく陸の心をざわつかせる。
“――泣いてないでがんばりなさい。……もっと強くありなさい――”
言っていないはずの鑑の声が、なぜか陸の耳の奥に強く残っている。
凍える雪。鳴らした鈴。合わせた手の平。とろりと澄んだその声を聞いたのは、はたしてどこだったのだろう?
◆◇◆
砂よりも岩場が目立つようになってきた。
足下がしっかりと硬いものになって歩くのは楽になったが、勾配も厳しくなったため、陸たちの進む速度はさほど変わらない。
所々切り立った岩山が行く手を阻むように立ちふさがり、分かれ道のようになっていた。
「――ああもう、また岩が通せんぼかよ。これじゃあ迷路じゃねえか。道なら道らしく案内板でも立てとけっての」
思うように進めず、陸は憂いを眉宇に漂わせた。すぐ近くに紫織がいる気がするのに、なかなかその場所までたどり着けない。
「さて? どちらかしら、ね」
「ぬぬ。赤い砂がなくなってきたな。風もどっちにも吹いてるし……」
「……あかい? ねえ、気配感じないの? 少年と少女は血縁なのよ。肉体という殻がなく霊魂がむき出しのいまなら、近づけばわかるものなのだけど……」
「ぬぬぬ、気配? ぬーん。あっちのほうから、なんとなく春みたいにぽややんって温かい感じがする……ような気がする、かも」
陸は自信なく指さす。その先は険しい岩山で、右か左のどちらかに迂回すべきだった。
「――ずいぶん衰退したもの、ね。ううん。やっとただの青人草に混じれたのか」
「あおひとくさ?」
――あおひとくさは、たしか人のことだ。
陸は祖父母の家で聞いたことがあった。
昔の言葉で――えらいやつが人を指すときに使う言葉なはずである。
なぜ陸と同世代のはずの鑑が、ときおり古風な言葉を使うのか、相変わらず謎だった。
「わたし畏怖するだけの鋭敏なもの、あると思ったけど、それもただの怯懦のせい? ……だからといって姉弟で、こうも縁の絆がたぐれないのも変ね。位相湾曲もあやふやでずれていたし……久遠のときで隠者も常人、ということかしら」
「きょうだ。ひとつはら。つねひと??? ぬぬ、どういうことだ? おーい。鑑」
ぶつぶつと、鑑の言葉は呪文のように難しくなっていく。まるで聞いていない。
やがて自己完結したらしい鑑は陸を見た。
「ねえ少年。ちょっと君のお髪ちょうだいな」
「おぐし?」
「もらうわよ」
「ちょっ、痛てて。な、なにしやがるんだっ!」
陸は鑑に唐突に頭を引っぱられた。ぶちっと、豪快に髪の毛が抜ける音。頭に触れると、もうひとつ、つむじが増えたような感触。ぶちっと、陸は切れた。
「てめえ、こんのっ」
「―――、ゆんでめで。」
「ざけんなよ。オレの髪は、ゴルフで風読むときの芝じゃねえんだぞっ!」
憐れ、投げられた陸の髪の毛は、風に舞いあがる。
詰め寄る陸を一瞥もせず、鑑はその髪の行方を眼で追った。
途中で不自然に動きが変わり、髪は岩山の右側を流れていった。
「こっちみたい、ね」
「え……? あり。もしかして今のって、人探しの魔法、だったのか?」
「まあそんなところよ」
「地味だけどすげえな。……って、オレの髪が!?」
「べつにいいじゃない。血取られるよりずっとましでしょう」
「こんにゃろ。でも男の髪ってのは、一生の友だちで大事にすべきものなんだぞ!」
「そんなのが一生の友だなんて、暗いわね」
鼻先で笑って、鑑は歩き出した。鑑の豊麗な銀髪があとを細かく従う。
髪は女の命だろうと、引っぱってやろうかと陸は一瞬暗い感情に囚われた。
が、鑑は自身の髪のことを嫌っているようなので、やめておく。だれにでも触れられたくないことはあるのだ。
そして鑑が言わないのは、悪意があるからではないのだと陸もだんだんわかってきた。たぶん言われても、なんのことだかちんぷんかんぷんなのだ。なら別にいい。
とことこと、鑑は小刻みな足取りで歩いていく。
陸が風化した岩肌に足を取られたり、傾斜にしゃがむとき、少し先で待ってくれる。わかるかわからないほど陸のほうを向いて、長い髪を揺らしている。
そのやり取りが少し楽しい。まるで影との追いかけっこのようだ。
鑑は不思議なやつだな、と陸は思う。でもその距離は、人が踏み出す先を行く影と同じく、けっして埋まることはないような気もした。
意外と食いしんぼうで、おにぎりは塩だけのが好き。
魔法が使え、とても強く、マンガの必殺技のまねごとすらできるらしい。
気ままな性格で、なんども笑えない冗談に困らされたが、不思議と憎めない。
歌がうまくて、難しい言葉を知っていて、意外と心優しいところがある。
でもそれぐらいしか知らない。
紫織から傘を借りたから、直接返したい。
それぐらいしか、陸に手を貸してくれる理由を教えてくれていない。そんなのは、ほっとけないよりも曖昧な理由なのに。
それとなく何度か訊ねたが、謎は謎のままのほうがいいでしょう、と微笑われてしまう。その笑みの許に、あるかなきかの悲しい色を漂わせながら。
もっと知りたかった。信用するためとかではなく、ただ彼女のことを知りたかった。
「鑑。あのさ……」
「――見つけた」
陸が伸ばした手は、今は鑑に届くことはなかった。
そのかわり、ぼんやりと彼女が見つめる先に、望んでやまないものを見た。
◆◇◆
「あ――」
鑑の視線の先。ご神石のように大きな岩の影に、人が座りこんでいた。
春のようにうららかでやさしい気配の女の子。
一歩ずつ。一歩ずつ。その姿を見失わないように。
夢や幻として消えてしまわないように、陸は瞬きもせずにゆっくり手を伸ばす。
「――姉ちゃん、なのか?」
陸の声がうわずる。
学校指定の紺のセーラー服姿。岩影の中でも黒珊瑚のように黒々と艶やかな髪は、後ろに束ねられている。ゴムの輪に白いリボンがついているそれは、姉が好んで使う髪留めだ。
美しいというより、かわいらしい少女。
間違いない。間違えるはずがない。陸のかけがえのない姉――紫織がそこにいた。生きていた。生きてくれていた。
「姉ちゃん!」
陸の呼びかけに、力なく俯いていた彼女の顔が、はっとあがる。
大きな黒真珠のようにつぶらな眸が、陸の姿を認めてくりくりと揺らいだ。
「――あれえ? 陸くん?」
驚きの言葉さえ、日だまりのように穏やかだった。
陸はわき目も振らず駈けよった。
何度も岩肌にけつまずきそうになりながらも、一直線に走って胸元に飛びこむ。
「あっと。もう、甘えんぼさんね」
焼きたてのパン生地を思わせるように、ふわふわとやわらかい。
雨に濡れた子犬がブランケットにくるまるように、陸は紫織の胸元に顔を埋める。びっくりするほどその身体は冷えていたけれど、紫織は間違いなくここにいた。
川に流されたのに。自分なんかを助けるために溺れたのに。また自分を抱きしめ返してくれた。おっとりと慈しむように頭を撫でてくれた。
「どうして陸くんまで、こんなところにいるの?」
穏やかな、いつもどおりの姉だった。相変わらずのんびりしてる紫織に、陸はうれしすぎて頭にきた。
「ばっかじゃねえの。そんなの、姉ちゃんを探しに来たからに決まってんだろ。勝手なことしやがって。泳げないくせに川飛びこむバカがどこにいるんだよ。どじ。のろま。マジでばっかじゃねえの。よかった。ほんとに、ほんとに――」
他にも言いたいことはたくさんあったのに、ちゃんと謝りたかったのに、陸はこれ以上うまく言葉が出てこなかった。涙しか出てこなかった。こんな情けない顔、見せたくない。
だからもうしばらく、紫織のやさしさに甘えて抱きつくことにした。
はばからずに泣く陸を、紫織はあやすようになで続けた。
「いい子いい子。もう落ち着いたかな?」
「――ん」
陸の小さな頷きに、紫織の野いちごのように赤い唇がゆるむ。見たものを安心させる穏和な笑みだ。
くしゃくしゃな顔をハンカチでぬぐわれ、陸は鼻を鳴らす。本当に今日は泣いてばかりで、男として情けないと思った。
紫織のために持ってきたはずだったのに、トートバッグに入れた水筒のお茶は、陸を落ち着かせるために飲まされることとなる。
紫織は、その残りをゆっくりと味わうように飲んで、こくんと陸の腹部を見やった。
「ねえ陸くん? その制服の赤いの、なあに?」
「ぬえ? あ。ええと、これは……」
「あれ……これって血じゃない! 怪我したの? だいじょうぶ、痛いの?」
そういえば、白いはずの学生服は血糊と砂ぼこりで赤々と汚れていた。
それと変わらないぐらい紫織の身体も薄汚れていて、足に擦り傷があった。
それでも紫織は弟のことを第一に考えて、おたおたと慌て出す。うろたえながらも、てきぱきとトートバッグの中から消毒薬などを取り出していく。
そんな変わらぬ姉の姿に、陸の心にまた熱いものがこみあげる。
「だいじょぶだ。心配すんな。ちょっと色々あったんだ。別に怪我してねえから。……ほら! なんともねえだろ。だからそんな顔しないでくれ」
「――んん。確かに怪我はないみたいだけど……。陸くん。何かお姉ちゃんに隠そうとしてない? 制服は後で洗えばいいから、とりあえず何があったのか教えてくれないかな」
このままでは、逆にお説教をさせそうな勢いだった。
ここまで連れてきてくれた鑑のこととか。紫織の葬儀があげられていて、慎治や、悠也、琴音とみんなが集まり大変なことになってることとか。陸はなにから話せばいいのかわからなかった。
「ぬぐっ。ああもう、歩きながら説明するから――とりあえず、早く家に帰ろうぜ」
「――おっと。すまんがそいつはできない相談だ。その女を帰すわけにはいかないな」
「え!?」
陸の頭上から、男のイヤらしい笑い声がした。
取り戻したと思った温かな空間は、しかし何者かによって唐突に乱された。
今話の奇蹟
水生木 卜占の術 詠唱『弓手馬手』
人や物などを探すことができる術。的中率は二択で九割八分程度。
弓手は弓を持つほうの手で左。馬手は馬上で、手綱を握る手で右の意味。
髪は血と同じく思念が篭もりやすい。陸の髪は呪術の媒体になったのだった。合掌。




