16 歌姫
(――ここは、どこだ?)
ふと気づくと、陸は独りぼっちになっていた。
あたりはツメタイ恐い闇。夜の闇より濁った毒々しい暗色の中に、包まれていた。
自分が沈んでいるのか、浮かんでいるのかもわからない。
底も果てもない暗黒の世界。だからなにもわからない。これが死の世界なのだろうか。
(――いや、こんなところで死んでられるか! 姉ちゃんを探さねえと。地獄になんて行かせねえ。いっしょに帰るんだ)
陸は、闇を蹴散らすべくもがいた。
伸ばした手の先で、しゃらん、という音がした。透明な鈴の音がまた一度、しとやかに。
音のするほうへ身体が吸い寄せられていく。
その先に一筋の光が差しこむ。きれいで優しい輝き。
闇が徐々に明るく溶けていく。
世界が彩られる。感じる温もりと柔らかさ。
「んっ――」
陸はゆっくりと目蓋を開いた。眼の前に、きれいな女の子がいた。
あたかもみずから燐光を放つように、美しく映える白い少女。
鑑、と声をかけようとして、陸は口を噤んだ。
彼女はよく透る声で、旋律を口ずさんでいた。
清流のように澄んでいて、心が洗い清められる。
これはなんの歌だろう?
聞いたことのない不思議な調べだった。
優しくも力強い。物悲しくも温かい。親しみやすくも神秘的。
本来対立するものが、この歌の中だけでは見事に手を取り合い調和している。 歌声がまるで色づいたもののように、陸に届き、世界をほぐしていく。
ただじっと陸は、その歌声に聴きほれていた。
やがて歌が終わり、鑑は陸を見下ろす。見事な黒銀の髪が一房、滑らかにほつれて陸の顔をくすぐった。
「……きれいだな」
仰向けの姿勢のまま、陸はそう呟いていた。
紅い――夕焼けのような切なげで美しい眸に、気だるげな陸が写っていた。鑑の眼だ。
あれほど恐いと思っていたのに、その赤はとてもきれいだと感じた。――あの不吉な赤とはまるで違う。
「――あら、ナンパ?」
ぼんやりする陸に、鑑は首を傾げつつ髪を耳にかけた。
相変わらず彼女の顔の表情はあまり動かない。
しかし、判りにくい、見せないだけで、本当はきっと感情豊かな女の子なのだろう。
そうでなければ、まだ眦がほんのり赤く染まっていることなどない。
陸は苦笑する。柔らかな地面へ後頭部を預けたまま、鑑を見あげた。
「だから違うって。歌のことだよ」
「そ、残念。ナンパしてきたのなら、ひっぱたいてやったのに」
「ったく、暴力はよくねえぞ。とくに鑑のはしゃれにならねえ」
「軟弱、ね」
「ぬぐぅ。すぐ強くなるからいまに見とけよ」
「そ。――飲める? すこし水分、とっときなさい」
トートバックから水筒が出され、鑑の介添いで、陸はお茶を飲む。
鑑の手つきはやさしく、労りがある。少しずつ、少しずつ、陸は舐めるように水分を取った。
うるおいが、身体へ染み渡る。気だるさがぬぐわれていく。混濁した記憶が、だんだんとはっきりしてくる。
「……そういえば、さっきのショウキはどうなったんだ?」
「ぜんぶぬぐい去ったわ。君にからだにはいった毒気もふくめて、ね」
「へえすげえな。また鑑の魔法か?」
あたりを黒く染めあげた不気味な影――瘴気はきれいさっぱりなくなり、もとの赤錆びた大地が広がっていた。
守るつもりが結局、また鑑の世話になってしまったらしい。
あまりかっこいいとは思えない寝転んだ体勢で、陸は鑑を仰ぎ見る。
「いいえ。さっきの女の“冥銭”があってこそよ。……“祓え”行おうにも、触媒がなければ助けられなかった。贄がいるなら先に断ると約束したのに、君がもらったもの、無断で使ってしまった……」
「そんなの別にいいよ。鑑が助けてくれたのは違いねえんだから」
くわしくはわからなかったが、どうやら看取った女性のお守りが、魔法を唱える道具として役立ったらしい。
鑑は律儀すぎた。緊急の事態だったのに、先ほどの口約を気にしている。
「あ。でも鑑。そんなことできるんなら、あの人も助けられたんじゃ……」
「むちゃ言わないで。少年は瘴気に犯されてから時間も浅かったし、なにより生きようとしていた。だからなんとかなったの」
「そっか……。ごめん、余計なこと聞いちまったな」
鑑の言葉は真摯で、言い訳には聞こえなかった。
陸は一度静かに眼を閉じ、名も知らぬ女性にも感謝した。
「ねえ少年。わたしからも聞かせて。どうしてさっきあんなことしたの?」
「さっきあんなこと?」
「わたし突き飛ばしてくれたじゃない。瘴気から庇おうとしたのでしょう? なぜなの?」
「なぜって……そんなのほっとけるわけねえだろ」
「なにそれ。ほっとけないって、そんな曖昧な理由で人間が行動するはずないじゃない。ましてや自分の命危険にさらすなんて、ありえないわ」
きつい声。陸が眼を開くと、驚くほど真剣な鑑の顔がすぐそこにあった。鑑は、本当に理解できないのだと首を傾げて、長い髪を揺らしている。
ふいに思った。彼女は他人を助けたりしないのと同様に、自分が他人から助けてもらえるとは思ってないのだと。それなのに、その主義に反して陸のことは例外に助けてくれている。
そう思うと、陸はなんだか無性に言いようのない感情がこみあげてきた。
深く息を整えて、下手くそでも自分の言葉をさがす。
「……近いくせに、遠いのはイヤなんだ」
「――んん?」
「……昔、すげえ後悔したことがあった。学校の帰り道、捨て犬を見つけたんだ」
「……ん。捨て犬、ね」
「かわいそうだとは思ったけど、家では飼えなかった。母さんがいないから、そんな余裕なんてなかったんだ。でも、毎日寄り道して、給食の残りをわけてやってた。そいつまだ子犬だったから」
「……ふうん」
「そのくせ、休日になると、ころっと忘れて友だちと遊びに行っちまったんだ。……その夜にどしゃぶりの雨が降ってきて、さすがに心配になって様子を見に行ったら……」
「あなや……どうかなったの?」
「いなくなってた。後で聞いた話だと保健所の人が連れて行ったそうなんだけど、その子犬がその後どうなったかはわからねえ」
「……んん。つまり昔、捨て犬を見つけた。でも家庭の事情で飼うとこはできず、行方知れずになってしまった、ということかしら?」
「小学校低学年のころの出来事なんだ。それなのに、いまでもその子犬のことははっきり覚えてる。オレを舐めてきた舌のあったかさも、タオルケットみたいにふわふわな毛並みも、びっくりするぐらい黒い目の明るさも」
「んん。よくわからないわ。それがどうしたっていうのよ」
「近いくせに、遠いんだ。--どれだけ覚えていても、もう会えねえんだ。それがすげえ苦しい。足もとがあやふやになって、自分が今どこにいるのかわからなくなっちまう」
「--はあん」
自分は弱虫なのだと、陸は思う。
心に棘が刺さったままなのに、それを抜くのも恐い。
保健所に連れて行かれた子犬は、結局引き取り手が見つかったのか、それとも処分されてしまったのか、恐くて調べることもできやしない。
そのくせ、町中で似た犬を見かけると、ちゃんと飼ってくれる人を探してやってればよかった。休日だからって遊びほうけなければよかった……と今でもウジウジする。
そんな弱い自分が、陸は心底情けなくてイヤなのだ。
「他の人にとっちゃ、こんなのたいしたことじゃねえのかもしれない。でもオレは、自分ができたはずのことをやらずに、後で辛くなるのがイヤなんだ。だから、うん……ほっとけねえんだよ」
「………そう。ほっとけないんだ」
「子犬一匹のことでいまも胸が痛むんだ。……さっきの女の人も、鑑も、見捨てるなんてことしたら、きっと後が耐えられねえ。自分だけ無事でも、なにもできなくなっちまう。そんなのはゴメンだ。――なにもせずに立ち止まってても、辛いだけなんだから」
「……そっか。ぼーやは昔の些細なこと、いまも大切にしてるの、ね」
鑑は眼を閉じ、そろりと静かに息を吐いた。
「ぬ。ぼーやって、言ってくれるな。たしかに小せえことだけどさ」
「……ごめんなさい。――いいえ、ありがとう」
「ぬえ?」
鑑の超然として秀麗な顔が、ふっとしおれた花のように陰る。
「急げって言っても脳天気な君に、ちょっと灸据えるつもりだったの。瘴気がせまっても、しばらく放置してやって、慌てふためくの見て嗤ってやろう、ってね。――それなのに、わたし助けようとしてくれてありがとう」
一度、桜色の下唇を噛んで、鑑がうな垂れる。そのまま小さな女の子がよくするように、垂れた髪で顔を隠した。
そこにいたのは、ひとりの少女だった。
助けてもらったことにちゃんとお礼が言える。意地悪をして思いがけず陸が怪我したことを悲しむことのできる、ごく普通の女の子。
どうして、そんな当たり前のことに今まで気づかなかったのだろう。
「――どういたしまして。お互いこうして生きてるんだから、もういいよ。ろくに鑑の忠告聞かなかったのはほんとなんだし、おあいこってことにしよう」
いやな言い方にはならなかったと思う。
うつむいていた鑑の顔があがる。その赤眼がより紅く潤っていることに気づき、陸はどきりとした。
「おあいこ、ね。なら、そういうことにしときましょうか」
ふんわりと、柔らかな感触。鑑は目許をかすかに緩めて、陸の髪の毛を梳いた。
その温もりを、陸はどこか懐かしいと思うのだった。
それは揺りかごの中で抱かれるような安らぎだったからかもしれない。
◆◇◆
鑑に間近で見つめられるのが、陸はだんだん落ち着かなくなってきた。
普通だったら絶対言わないようなことを言ってしまって、恥ずかしい。
なにか話題を探そうとして、一番重要なことを失念していたことを思い出す。
「って、そうだよ。早く姉ちゃんを探さねえと」
のんびりしている暇などない。闇穴道は、陸の想像以上に危険な場所だった。
ドジなところのある紫織が、あの瘴気の雨に襲われたらひとたまりもないだろう。
「まだ毒気抜けきってないわ。もうしばらくじっとしてなさい」
「でも、いつまたショウキが降ってくるかわからねえだろ」
陸は上体を起こそうとする。しかし、喋ることはできても、身体はまるで言うことを聞いてくれなかった。
ただ動くだけのことが、激流の流れに逆らうように難しい。あの日もそうだった。今度は選択を見誤るわけにはいかないのに……
「落ちつきなさい。瘴気は生者には猛毒だけど、肉体なき死者にはそれほどじゃないの。濃いかたまり浴びても、三日はへいきなはずよ」
「そう……なのか?」
「それに、そんなありさまで君の姉に会っても、心配させるだけでしょう?」
「……そう、だな」
鑑の説得に、陸は力を抜いて頭を下ろした。
ふにゃんと、柔らかかった。
(――ふにゃん?)
そういえば、先ほどから地面が柔らかくって温かい。
不毛な荒れ地である闇穴道で、よく鑑はそんなものを見つけられたものだ。
横目でなにがあるか、下を見てみる。
まばゆいまでに白い、すべすべしたもの。
吸い付くほどしっとりと包みこみながら、体重を預けるとはじき返す弾力さえある。
――女性の、太ももであった。
見あげると、きれいな女の子の横顔。鑑は正座していた。
陸は鑑のヒザに頭を乗せて、身体を横にしていた。
導かれる答えは――
(ってこれ。ヒザ枕じゃねえか?!)
陸の心臓の鼓動が、寿命が燃え尽きるぐらい早まる。
鑑の服装は、楚々とした黒のワンピースなのだ。丈が短い。そのため太ももが、じかで、生で、当たっている。
(なんてこった。ここって地獄じゃなくて天国だったのか。……うぬ。姉ちゃんに耳掃除してもらうときより気持ちいいぜ)
陸の混乱は、さらに極まる。
一度意識しはじめると、顔が赤信号のように赤く火照っていくのを抑えられない。このままでは赤でも暴走してマズイことになりそうだ。
「あら? 顔赤いわね。また熱でてきたの?」
「え。ええっと。いたって元気だ。気にすんな」
鑑に覗きこまれ、陸はさらにピンチになる。
鑑の服装は、楚々とした黒のワンピースなのだ。生地が薄い。そのため均整のとれた素肌のラインが、実にくっきりと見える。まろみを帯びたふくらみの上に尖った――
(って、おい! おい、おい、おい!! こいつまさか、つけてない、のか……!!?)
陸に雷で打たれたような衝撃が走る。
真っ白できめ細やかな柔肌。舞い降りた粉雪が溶け合わさったよう。
生唾を飲む。身を寄せられた体勢だと、胸元が……彼女のほどよく大きなふくらみの先が――
「……ダメだ。ちょっと待ってくれ鑑。その姿勢は色々とやべえ。顔をあげてくれ」
「あなや?」
――見えそうなところで、陸はぎゅっと眼を閉じて顔を逸らした。
年ごろの男子らしく興味はあったが、日本男児がそんな盗み見るようなまねをするわけにはいかない。そんな矜恃が陸にはあった。――ただの小心者ともいう。
「……ああ、そういうこと」
「ほんとゴメン。でも、見なかったから。惜しかったけど見れなかったから」
「もういいわよ。目開けても」
とろりとした声に、陸は恐る恐る片眼を開ける。
顔を遠のけた鑑の顔は、白磁のように美しいままだった。
怒りどころか羞恥心の色も、まったく感じられない。
「あり? ……怒ってない、のか?」
「わざとじゃないし、むしろわたしの不注意でしょう? それなのに怒るほど、わたしは狭量じゃないわ。そんなことより、めんどい施術だったのだから、いまは体力の回復に努めなさい」
淡々と膝枕を続ける様に、陸のほうが困惑する。
前から感じていたが、鑑は恐いとかそれ以前に、根本的にずれている。
同世代の女の子とこんなことになれば、たとえ悪意がなかろうと害虫のように嫌われるのが普通だ。ラッキースケベなんて言葉はただの幻想なのである。
だから怒られないことに、むしろ後ろめたさがでてくる。なにもされず、ぼんやりと静かに鑑に見つめられることに居たたまれなくなってくる。
会話が途切れたことにどきまぎして、陸は必死で言葉を探す。
「――ああでも鑑。ちゃんとつけたほうがいいと思うぞ」
「んん?」
「寝るときはともかく、普段着けてないと将来垂れ乳ババアになるって近所のおばちゃんが言ってたんだ」
「……」
「……それと下は穿いてない、なんてこと、ねえよな」
すりすり。後頭部を擦りつける。……完全にテンパっていた。
「――ませガキ。余計なお世話よ」
「ぬぐわぁ!?」
掌底が鳩尾に田んぼに植えられる稲のように突き刺さり、真相はわからなかった。
謎とは謎のままがよい?




