15 閑話・発端
この話は、本編とは別の日の出来事となります。
――十年ほど前――
「うそつき。うそつき。うそつき」
そう小さなぼーやは、泣いていた。
吹雪にさらされ、石畳に立ち尽くし、社の前で泣き喚いていた。
「やくそくしたのに。みんなでまた“しちごさん”いこって、いったのに……」
愚かでちっぽけで弱々しく。だれよりも泣きじゃくっていた。
「たくさん“ぱんぱん”ってしたのに。なんでママいなくなっちゃの? ねえ。すごいやつなんでしょ! ぼくのおねがい、きいてよ!」
何度も何度も本殿の鈴緒を揺らしていた。ジャラジャラと。鈴を鳴らされた。
「もうネネとけんかしないよ。パパのいうこともきくよ。ぐりんぴーすも、のこさずたべるよ。ちゃんといいこになるよ! だから、ママをかえしてよ、かみさまっ!」
母への思慕の念を募らせて、そうぼーやは慟哭していた。
ぽろぽろと、ビードロみたいに小さな眼から涙をこぼしていた。
煩わしい。それ以外に思うことなどなかった。なのに――
「こんなところで泣いていたら風邪、ひくわよ」
そうわたしは彼に話しかけていた。
◆◇◆
――昨日・七月二十三日――
その日は昨日までの大雨が嘘のような、雲ひとつない青空が拡がっていた。
水たまりも夏の陽射しにすぐに乾き、大雨の名残として河川が多少荒れている程度の、ごく平穏な暑い一日になるはずだった。あのときまでは。
にこやかに談笑する一組の男女が、橋の上にさしかかる。
恋人というには初々しさがなく、全体の雰囲気がどことなく似通っていた。
おそらく姉弟だろう。陸と紫織だった。
「あら? なにか声がしなかった?」
おっとりとした少女――紫織が小首を傾げ、耳をそばだてた。
「いや、川の音じゃねぇか? ……うわ、すげぇ荒れてんなぁ」
快活そうな少年――陸が橋の下を覗きこみ、眼を丸くした。
普段は鏡面のように澄んでいる河川は褐色に濁り、白い荒波が立っていた。
「いいえ。やっぱり……ほら。あそこ!」
紫織の指さす先――そこに茶色の毛玉のようなものが動いた。
仔猫である。増水する河川の中州に、取り残されていたのだ。
大自然の暴力に怯えるように、小さく縮こまって鳴いていた。
「……あのバカ。どうしてあんなとこに?」
「うう。どうしよ~」
「よし。オレが助けてくるよ」
「ダメよ!? 危ないでしょう。だれか大人の人に連絡しないと」
「だいじょーぶだって。それに人を呼んでるうちにチビが流されちまうかもしれねえぞ」
川の流れは荒々しく、中州の砂利を徐々に削っている。すでに畳一枚ほどの面積しか残っておらず、水しぶきが何度も仔猫にかかっている。
紫織は逡巡したが、結局陸の指摘と猫の鳴き声に根負けしてしまった。
「本当にだいじょうぶ?」
「ああ。思ったより深くないみたいだ。これなら、ゆっくりいけばいけるよ」
ズボンの裾をあげて、陸は慎重に河川へ足を踏みいれていく。
ただ当たり前のことをしようとしただけだった。紫織に格好いいところを見せたいという見栄も多少はあったが、単純に仔猫を助けたかったのだ。それなのに――
「あともうチョイ。――うっし。もうだいじょうぶだぞ、チビ」
陸はなんとか中州にたどり着き、そっと手を伸ばす。
水に濡れ、脆弱に震える仔猫を抱き寄せようとする。
そんな、心優しい少女と純真な少年の美談になるはずだった。
「――え?」
仔猫に触れようとして、陸は違和感に手をとめる。
嗤っている。恐怖ではなく狂喜で震えるように、仔猫の口端が不吉に吊りあがったように見えたのだ。
「マヌケ」
だれかが声。たしかにそうせせら嗤った。
「――えっ? うわっ?!」
「うそっ。陸くん――!!」
微笑ましかった光景は、悲劇へ転じる。
突如中州が崩れ落ち、陸は濁流のなかへ放り出される。
息ができない。どこを蹴っても足がつかず、強い力に引きずりこまれる。
紫織の悲鳴が遠くで聞こえる。……セミの鳴き声が近くで聞こえる。
「――なん、で……姉、ちゃん……」
――陸が気づいたときには、すべてが終わっていた。
川辺に打ちあげられた紫織は、蒼白な顔のまま眼を開かない。
頼りになる大人がいまさら駆け寄ってくる。
仔猫は一鳴きして、茫然自失の体で立ち尽くす陸から離れる。
その鳴き声は、ねっとりと陰険なものだった。
動かない紫織をせせら笑うように、茶色の毛玉は軽やかに河原を駈け去る。
河原のぬかるみに映った仔猫の眸は、血のように不吉な朱い色をしていた。
この発端となる水難事件のことを、陸はショックで忘れてしまっていた。




