13 死者
「痛てて。クラクラする……」
「自業自得よ、まったく。時間むだにして」
冗談の過ぎる鑑を成敗すべく戦いを挑むも、簡単に返り討ちにされてしまった。
色々と思うところがあったが、本来の目的である紫織探しを再開させる。
先ほどの攻防で噴き出た汗が冷えたためか……少し、肌寒くなってきた。
視界も悪く、舞いあがる砂煙に地平線は赤々と染まっていた。
「ぬ、これは――」
陸はおもむろに片膝をつくと、乾燥した砂地に手を当てた。
砂の表面に、うっすらと丸い輪のようなくぼみがある。それが点々と一定の間隔で続いている。どうやら足跡のようだ。
「後、たどってみましょう」
鑑の言葉に、陸は頷いて立ちあがった。
視界がさらに悪くなってきた。それでも、岩と砂に埋もれた荒野に点々と続くそれが、徐々にはっきり足跡だとわかるものとなってくる。
だが、赤い微光を放つ砂粒が風に舞いあがっており、少し経てば陸たちの足跡もろともかき消されてしまうだろう。急がねばなるまい。
上り坂となる。容赦なく砂粒が口内に入りこみ、カラカラに渇く。
流砂のような小高い丘をなんとか登りきったところで、陸は立ち止まった。
変わらぬ赤錆びた大地が続いている。足跡がどちらに降りたか見回す。
「……あ」
陸は片眼を眇めた。足跡の終点。そこに力なく倒れ伏す人影があった。
陸は鎖を外された犬のように急いで駆け下りる。
後ろでポニーにまとめた髪。うつぶせに倒れる女性は、砂に埋もれたまま動かない。
「――なんだ、違うじゃない」
冷ややかな声。それが陸の後ろから遅れてきた鑑のものだと気づくのに時間がかかった。
たしかに倒れていた人は、紫織ではなかった。見知らぬ別の若い女性だ。
顔色が悪く、吐いた息をうまく吸えずにいる。
「もうあまり時間浪費できないわ。はやくいくわよ」
「ちょっ。待てよ、鑑? この人、助けねえと」
人ひとり倒れているにも関わらず、鑑の対応は鳥肌が立つほど淡白だった。
行き倒れの女性などいないもののように、鑑は陸の腕をとる。
「そんなのほっときなさい。それで痛い目見たのに、まるでこりてないのね」
「おい。なに言ってやがるんだ? 冗談言ってる場合じゃねえんだぞ!」
振りほどこうとした鑑の手が離れない。白魚のような指に、驚くほど強い力がこもって赤みが差していた。
「少年。君なんのためにここに来たのかしら? こんな風に君の姉が倒れてるかもしれないのに、構ってるひまあるの?」
「ぬぅ。でもだからって……」
鑑の深い眼差しに気圧されながらも、陸は倒れている女性を見やる。
冷や汗の浮かぶ土気色の肌。ぜろぜろと、音を立てる胸許の動きは不規則で、陸たちが側にいることにも気づけてない。
そんな人をこのままにするなんて、陸にはできなかった。
「あの、ね。その女は、みずから命断った自殺者よ。そんなのに情けかけるだけむだよ」
「自殺? ……ああ、そっか。って、なんでそんなことわかるんだよ」
今いる場所は、闇穴道という死後の世界の入り口なのだ。紫織の他にも、死んでしまった人がさまよっていてもおかしくない。だが自殺者とは、どういうことなのか?
「この死体の首筋見なさい。ひもの跡あるでしょう。それなのに今さら空気求めるなんて、浅ましいことよね」
まるで推理でも披露するように、鑑は口許に人差し指を持ってきて首を傾げる。
鑑の揶揄するような仕草が、陸には恐ろしいものに見えた。
「っ、ばっかじゃねえのっ! なにが死体だ! 生きようとするどこが浅ましいんだ!!」
陸は強引に鑑の手を振り払った。
彼女を見損なった。人並み外れたところがあるのはたしかだった。でも悪いやつだとは思わなかったのに……。
(この人は自殺した死体? なんだそら。ざけんな、こうしてまだ生きてるじゃないか)
眼の前で弱っている人を、陸は放っておけなかった。
たとえそれで紫織を迎えるのが遅れても、姉ならわかってくれる。
――まったく覚えていないのに。ふいごのように喘ぐ女性が、陸にはなぜか母親のように見えた。
◆◇◆
「だいじょうぶですか? しっかりしてください」
「え……。だ、れ……?」
陸が何度か肩を叩いて呼びかけると、女性が意識を取り戻した。風で木の葉がこすれるような弱々しい声だった。
陸は、女性の身体を呼吸がしやすいように、うつ伏せから仰向けに起こした。手に貼りつくほど冷たい肌。皮だけなのではと思うほど、その身体は軽すぎた。
鑑は静かに眺めているだけで、手助けのひとつもしてくれない。
「……男の、子? なん、だ。――じゃない、んだ。ははっ。そうだよ、ね」
「大丈夫ですか? オレの声、聞こえますか?」
「ねえ、君。私は……もう、ダメ、だから。これ……、あげる。このさき……川で、、必要、なんだって……」
女性の眼は、焦点が定まっていない。
青い口唇を振るわせて、あらぬ方向へ手をかざした。
「これは……?」
その手には何枚かのくすんだ紙が握られている。見ると、短冊状の紙に、墨で絵と文字らしきものが書かれていた。
祖父の家で見た、神仙へ供える“紙銭”に似ていると、陸は思った。
「“冥銭”――死者のための死後のおあしね。三途の川の渡し賃であり、死者が地獄にたどりつくまでのお守りの役目、担ったものよ」
戸惑う陸を見かねて、鑑が口を挟んだ。機械が発するような事務的で固い声だった。
「あ……れ。……まだ、だれかいる、の……? じゃあ、ふたり、はんぶんこ、に……」
「――三十銭。それはあなたを思う人が、あなたに渡したものよ。それだけ多くの人に思われていてみずから死を選ぶなんて、あなた莫迦なの?」
「……そうだね。……でも、――のいない、世界なんて……、辛いだけ、だから。……こっちで、会えるかな、なんて……ほんと馬鹿だよね、わたし」
女性はかすかに笑い、咳きこんだ。その息が弱くなり、手が地面に転がる。ゆっくりと光を失っていく眼から、涙が一筋こぼれ落ちた。
陸が慌ててその手を握りしめる。
「ちょっ、しっかりしてください! しっかり! おいバカっ。諦めんなっ!!」
「――もう手おくれよ。生きようとしてないから、全身“瘴気”に犯されてしまっている」
「ショウキって。あの毒みたいなヤツのことか? 鑑の魔法でなんとかできねえのかよ」
「助けたいのは少年でしょ? それなのに他者の力あてにするなんて、愚者のすることよ」
女性の手が、石像のように硬くなっていく。眼の前の命の灯火が、消えていく。それでも鑑は、頑なな態度を崩さなかった。
「知るかっ! 愚者でもなんでもいい。助けられねえのか?」
「……どうしてそこまでこだわるの? 赤の他人じゃない」
「知るかバカっ! 赤の他人だろうと、ほっとけるはずねぇだろっ!!」
陸は鑑を強く睨みつけた。
見返されるのは、あめ玉のようにとろりと澄んだ白目に真紅の眸。鑑の眼はどこまでも綺麗で曇りなく、けれど一切の感情がわからない。
蛇のようだと思っている伯母の琴音の眼差しよりも、眸が動かないのだ。
理科の実験のときにじっと昆虫を観察するような、冷たい眼だと陸は思った。
「ほっとけない、ね」
鑑は、本当に理解できないのだと首を傾げて、長い髪を揺らす。
およそ温かい血の通った人間が行う所行とは思えない。
自分ごときが逆らっていい相手ではない。
彼女の機嫌を損ねれば、紫織に会うことはできなくなる。
理屈でも本能でもわかっている。それでも陸は鑑から眼を逸らすことができなかった。
――だがはたして、先に眼をそらしたのは鑑だった。
「……そんな顔してもだめよ。魂まで痛んだ存在癒すなんて、いまのわたしの座位では、むりだから」
「ちくしょうっ」
陸は力なく悪態をついた。
どうしてこうも自分はなにもできないのか。陸は無力な自分こそが、救いようのない罪人だと思えてならなかった。
◆◇◆
静かに息を引き取った女性の身体が、指先から崩れはじめた。
土気色の肌が、骨も肉も覗かせずにそのまま砂と化していく。
肉体という器なき死者の霊魂は、消滅すると周囲に溶けていくのだという。
赤い、赤い、血が固まったように鮮やかな砂粒。それは周囲に吹き荒れる赤砂と同じ色合いだった。
陸が握っていた手が、完全に砂になり指先からこぼれていく。
真っ赤に輝くその粒子は、悲しいまでに美しかった。
女性の亡骸があった場所で、陸はしばしうずくまる。
静かに、頼りなく、徐々に強く、拳を何度も地面に振り下ろす。
すぐに手の皮がむけて、血がにじんできた。
でも陸はいっこうに構わなかった。むしろこれは望むものだった。この痛みはなにもできない不甲斐ない自分への罰なのだから。
声を押し殺し、しゃくり上げ、やがてそれはケモノの叫びとなる。
涙が零れ落ち、血と混ざっていく。
それでもここまで乾ききった砂では、なんの意味もなかった。
こんなので固まるわけがない。
――土に還ってしまった女性はもう戻らない。
「――もうそのへんにしときなさい」
「……なあ鑑。ここって悪いヤツが死んだ後に来る場所なんだよな」
もう何度目になるかわからない腕の振り上げを、鑑に掴まれた。女性がいた場所を見つめたまま、陸はすすりあげる。
「げんに死者がいたのに、まだ受けいれられないの?」
「――っ! あの人、そんな悪いやつに見えたか?」
鑑はなぜこんな言い方しかできないのか。腹が立ってくる前に、陸は悲しかった。
「さあ、ね。悪いと断じえるほど、あの女のことしらないもの。でも大切に思ってくれる人のこしてみずから命たつの、わたしは身勝手だと思うわ」
「けど! 見ず知らずオレたちに、自分のお金くれるような人だったんだぞ」
「そうね。愚かな女だわ。極楽夢見るなら、たとえどんなに辛くても生きぬくべきだったのよ。自分から歩むのやめた者になにかわけ与えるほど、世界はやさしくないのだから」
「なんだよそれ。そんなのってねえだろっ。そんな言いかた、あんまりじゃねえか!」
鑑の声に起伏はない。清水のようにとろりと清らかな声はどれだけ美しくても、陸の心を冷たく浸食して傷つけるだけだった。
「なら……。そう思うのなら……。案じてもらった君は、その安息祈ってあげなさい。その霊魂が輪廻の輪くぐれずとも、現世の肉体は土と還って残された人たちとともに巡っていくこと、願ってあげなさい」
静かすぎる声に、陸ははっと鑑を顧みた。
鑑は長いまつげを伏せ、死人のように瞑目していた。
白磁の美貌を硬く閉ざし、胸の底にある感情は、陸にはわからない。
けれど、鑑も同じように無力さを堪え忍んでいるように見えた。立ち尽くす鑑の姿。それは簡単に手折れてしまう百合の花のように、儚げなものだったのだ。
「……そうだな。じゃあ、このお金もらった礼ぐらいはするか」
「――時間むだにするなって忠告、もう一度だけ言うわよ」
「むだじゃねえよ。だってこのままなにもしねえで行ったら、姉ちゃんに叱られちまう。知らないだろうから教えといてやるけど、姉ちゃんって怒ったら世界一恐いんだぜ」
手の甲で涙を拭い、頬袋を膨らませたリスのように怒る紫織のまねをする陸に、鑑は肩をすくめて黒い傘を差した。
傘の影に隠れ、彼女の顔は完全に見えなくなる。
もう好きにしろ、ということらしい。でも鑑はじっと陸を待ってくれている。
その不器用さに陸は苦笑して、今自分ができることをはじめるのだった。




