11 閑話・雨傘
この話は、本編とは別の日の出来事です。
……また今日も雨だ。天外が抜けてしまったように、ずっと降り続いている。
ジメジメと蒸し暑い中、小さな古本屋の軒先で、わたしは雨宿りしていた。
古代、雨とは天からの恵みであり、神が零した涙とも考えられたという。
なにがあっても無慈悲に降り続けるそのさまは、彼らの荒ぶる性質を現している。そして高みから姿を見せないそのさまは、悠然と坐すだけの彼らの本質を表している。
……そんなカビの生えてそうな盲信者のような考えが浮かぶほど、わたしは参ってしまっていた。
ばしゃりと。前を通り過ぎた車が、豪快に泥水をはねる。
元より雨除けには頼りない軒先だったのだ。おかげでわたしは濡れ鼠になってしまった。今度は逆に水浸しとは、まったくもって嫌なことは立て続けに起こってくれる。
かといって他に行く当てはない。軒先で無様に縮こまっているぐらいが、いまのわたしにはお似合いだろう。
「うわぁ、さっきよりすごい雨。滝みたいで気持ちいいな~」
……いったいどういう神経をしているのか。ひょっこり古本屋から出てきたそいつは、おっとりと外を眺めた。
豪雨の中、人工の大輪の花――チェックの黒い傘が咲き、嬉しそうに水を浴びる。
蒼穹の空でも見あげるように雨空を仰ぎ、そいつは鼻唄を歌いはじめた。
るんるんと。傘をまわし、水たまりを踏みしめ、童女のように笑っている。
母の迎えを待つその童唄は、底に哀しい響きがあり、切なささえ感じられた。
雨の中に浮かぶその笑顔に、あなやと、わたしは首を傾げる。
「あれれ? どうしたの? あなたひとりかな?」
チャプチャプと。そいつはわたしに気づくと近づいてきた。
雨は嫌いだ。嫌いな水に濡れるから。
とても相手にする気がなれず、鉛の空を見あげた。雨が落ちてくる。神さまの涙はでもほら、高みから憐れむだけでうっとうしいだけだ。
「――?」
ふいに涙が――いや、雨がやんでいた。
……変なやつ。そいつは屈んでわたしに傘を差し出していた。自分が濡れることもいとわずに。
「もう、めっだよ。せっかくこんな可愛いのに、びしょ濡れじゃない」
そいつは齧歯類のように頬を膨らませると、わたしの体を拭きはじめた。有無を言わさず布巾で擦る手つきは、けれど優しい。
変なうえに、暇なやつ。でもこいつが神さまなら、迷惑だとわかってない分、まだ公正かもしれない。そんな馬鹿みたいなことを夢想して、ちょっとだけおかしくなった。
雨だれは、穏やかに世界をうるおす。そんなどこか心地よい静寂は、長くは続かない。
古本屋の店主が軒先に顔をのぞかせ、うっとうしげにため息をついた。
「なんだ。まだ居やがったのか、そいつ」
「あれ。おじさん、この子知ってるんですか?」
「ああ、最近ここらをうろついてるんだ。商売の邪魔になって仕方ないよ」
「えぇ。可愛いし、福を招きそうですよ?」
「まさか。そいつの愛想悪い目、よく見てみな。赤いだろ」
「あ、本当だ~」
「いかにも不吉を呼びそうで、気味が悪いじゃないか」
……雨に濡れて、馬鹿みたいだ。
うっそりと立ちあがり、わたしは他の軒先に行こうとする――その背後に声がした。
「もう、おじさん。そんなこと言っちゃダメですよ」
そいつはゆるやかな眦を吊りあげて、人差し指を突き立てていた。
口調はやわらかい。だがどうやら怒っているようだった。
「すごく綺麗じゃない。夕焼けを見ているみたいでわたしは好きだな」
わしゃわしゃと、わたしの頭を撫でて、そいつは微笑する。
大人のような淑やかな笑顔だ。雲の隙間から差し込む太陽のように温かく、けれどその底に愛しいものさえ秘めている。
少女の浮かべる笑みに、わたしはちょっと興味がわく。
「はぁ。紫織ちゃんの優しさには敵わないよ」
この少女と接してきた店主の言うことは、もっともだろう。
でも、わたしはそれを見て花を思った。
美しく凜と張りつめた、石英細工の花。枯れずに残る、透き通った花を。
そこで気づく。ああ、そうだった、この娘は――
でも、まあ、こうも違うものか。なるほど、これはこれで趣深い。
雨が好きらしいそいつは、濡れながら夏の驟雨の中をのんびりと歩いていった。
傘が力強く雨を弾く音。古本屋の軒先にはチェックの黒い雨傘が残っている。 わたしは雨が嫌いだ。嫌いな水に濡れるから。――そしてなにより、退屈で昔のことばかり思い出すのだ。
分厚い雲から光が差しこみ、雨のかわりに蝉時雨がうるさく鳴きはじめた。
愚かでちっぽけで弱々しいくせに、好き勝手に騒いでいた。まるでぼーやのように。
――さて、やるべきことと、したいことができた。
いまのこの有様は腹立たしくはあるが、些末なことだ。それよりもこの因縁果でひとつ、消閑の具とすることにするとしよう。
雨傘を手にしなやかに。暇つぶしに。わたしはこの場から動いてみることにした。
次話より転パートです。




