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プロローグ

京都府北部を〈帝國〉西方諸侯軍が襲撃してから3ヶ月後の話になります。

隠岐島後南東海上12マイル 日本海

2012年 9月21日 03時52分


 激しい音を立てて舷窓を叩く風雨は、一向に弱まる気配がない。低く垂れ込めた雨雲は、あと2時間で日の出を迎えるはずの海域を硬く闇に閉ざしている。日本列島を縦断する勢いの台風16号は、広く西日本全域に暴風と豪雨の傘を広げ、小樽発福岡行きのバラ積み貨物船〈第7小倉丸〉の船体を手酷く翻弄し続けていた。

 うねりに乗り上げた船体が左に傾きながら大きく持ち上げられた。白波を立てて荒れ狂う海面の代わりに時折稲光を煌かせる雨雲が視界を埋める。轟々という暴風の叫びが、締め切ったドア越しに耳に届く。

 〈第7小倉丸〉がうねりを越えた。一瞬の浮遊感。そしてすぐに衝撃が船橋内の課員ごと〈第7小倉丸〉を突き上げる。船首が波に突っ込み、青波が甲板上を走った。青波はそのまま船橋に当たり白色の飛沫となって視界を塞ぐ。船体が不気味な軋みを響かせる。甲板上で不振な金属音が鳴ったような気がした。


「せ、船長……」海図台の上を転がったコンパスや鉛筆を顔面に浴びた航海士が、真っ青な顔で悲鳴を上げた。「このままだと危険です! 海は荒れる一方です!」風速は50ノットを超え、〈第7小倉丸〉は木の葉のように翻弄され続けている。

「わかっとる。じゃが、この程度でおたおたするな! もう少し行けば美保湾に避航できる」

 船長は舵輪をしっかりと握り締めたまま航海士を叱った。確かに厳しい状況だが、船長は乗り切る自信があった。経験豊富な彼は〈第7小倉丸〉を隅々まで知っている。

 不意に手元の船内電話がけたたましい音を立てた。嫌な予感がする。「こちら船長。どうした!」船長は受話器をとると、予感を打ち消すように強く応答した。

『こちら船倉甲板。船長こりゃまずいでぇ。船倉に海水が入りよったわ!』

 普段はおっとりとした甲板員が切羽詰った声で言った。船長は小さく罵り声を上げた。

「どんぐらい入った? だいたいハッチは閉めとったんじゃないんか?」

『ハッチカバーがめげたみたいやわ! いまんとこちょっぴりやけど、波かぶり続けたらあかんで──』


 船倉に水が入ると、動揺に合わせて水は船倉内を移動する。船が左に傾けば左へ、右に傾けば右へ──これは荷崩れと同様の結果をもたらす。つまり、重心が上昇し船舶の復原性は著しく低下するのだ。いわゆる『自由水影響』と呼ばれる現象である。荒天時の船舶で発生するという事態は、船乗りにとっての悪夢と言える。

 おそらく、波に船首が突っ込んだ時に甲板上のハッチカバーが破損したのだろう。この天候では修理などできるはずもない。上甲板に出た瞬間に波にさらわれてしまう。


「全員、救命胴衣を着けて上がって来させろ……」

 船長は暗い声で言った。航海士が慌てて受話器を握り船内へ伝達する。それを横目に船長はGPS画面で現在の船位を確認した。最悪の事態には備えるが、船を諦めるつもりはさらさらなかった。なんとしてでも風をしのげる湾内まで持って行ってやる、彼はそう決意した。幸い、美保湾はここからそう遠くない。右舷に西郷岬灯台が視認できるはずだ。

 船長は右舷側に目をやった。海水と雨水の混ざった飛沫が、猛烈な勢いで舷窓を流れている。水平線さえ定かではない暗闇で、幸運にも彼の目は30秒に2度白灯を煌かせる西郷岬灯台の明かりを捕らえることに成功した。心中に安堵が広がる。彼の光に〈第7小倉丸〉の苦境をどうにかする力など無いのだが、船乗りにとって灯台の明かりはそうした理屈を越える何かを持っていた。

「航海士! 西郷が見えるぞ」

「はい、見えました!」救命胴衣を着けヘルメットをかぶった航海士が、精一杯の声で応えた。

 船長は思った。あとは左に美保関灯台が見えれば──。


「船長! 見てください! 船長!」突然、航海士が叫んだ。


 いまさら何だ? 船長はいぶかしんだが、航海士のあまりの叫びにつられ左を見た。


「……な、なんじゃいありゃあ」船長は思わずつぶやいていた。


 〈第7小倉丸〉左舷、北の方向に異様な光景が広がっていた。闇夜に不気味な光の帯が明滅している。稲光ではない。それは刻々と色を変え、螺旋を描くように輝いていた。距離はおそらく10マイル以上はあるだろう。この悪天候下では見えるはずの無い隠岐島後の島影が、謎の光に照らされて浮かび上がっている気がした。

「何なのでしょう……?」呆然とした航海士が言った。

「わからん。長いこと船乗りやっとるが、あんな光は、見たことがないわ。だいたい──」


 船長が言葉を続けようとした次の瞬間、猛烈な横波が〈第7小倉丸〉を襲った。アッパーカットを食らったかのような衝撃が、船長をはじめとする乗組員たちを床に叩きつけた。

 衝撃に耐えかねた舷窓がけたたましい音を立てて砕けた。どぅと海水が船橋になだれ込む。照明灯が消え、一瞬の暗闇のあと非常灯に切り替わった。視界が赤く染まる。海水を浴びたAIS(自動船舶識別装置)の端末が、煙を上げて停止した。


「ちくしょう! 窓を塞げ!」

 船長はいち早く立ち上がり、舵輪にしがみついた。せわしなく視線を走らせ、迫り来る次の波に船首を立てようと舵輪を回す。彼は左足で足元に転がったまま呻いている航海士を蹴り上げた。「さっさと立て小僧! 死んじまうぞ!」


 もはや船長の意識の中には、何としてでも〈第7小倉丸〉と乗組員たちを生き延びさせることしかない。航海士たちも、無理な納期で自分たちを追い立てた船会社と、荒れ狂う日本海と、船乗りになった自分を呪いながら、必死に己の職務を果たそうとしていた。


 結果として〈第7小倉丸〉が目撃した謎の光は、どこにも報告されることなく、9月21日は嵐の朝を迎えようとしていた。





松江地方気象台 

2012年 9月21日 04時27分


「ホリさん、ホリさん。見てください、これ」

「……こりゃ、ごっついなぁ」

 松江地方気象台に勤務する堀内は、気象庁の各観測所から送られてきた画像を表示したモニターを覗き込み、呆れたような感心したような声を出した。

 そこには、近年まれに見る状況が映し出されていた。


「16、17、18号か。何もそろって仲良く日本に来なくてもいいのに」

 9月に入り太平洋高気圧が絶妙な張り出し方を見せた結果、グアム付近で連続して発生した3つの台風は水車に運ばれるかのような動きで南西諸島沖を北上している。折り悪く偏西風は日本上空を通過しており、3つの台風はいずれも日本列島付近を縦断するという進路予想が出ていた。すでに16号は日本列島を掠めるように通過し、台風によって西日本に送り込まれた雨雲は、各地に猛烈な暴風雨をもたらしている。

「まさにジェットストリームアタックだわ」

 予報では、島根県全域で21日の午後には一旦天候が回復するものの、23日以降は17、18号が西日本を直撃するため大荒れの天候となる見込みである。すでに気象台の主要幹部は庁舎に詰めるか、県庁に設置された災害対策本部に出向し、有事に備えていた。


「おりょ?」予報官の益田がおかしな声を出した。

「どげした?」

 堀内が尋ねると益田は黙ってレーダー画像が映し出されたモニターを示した。そこには三坂山山頂のドップラーレーダーが捉えた出雲地方の雨雲の様子が表示されていた。すぐに違和感に気づく。堀内の目は隠岐島後の周辺に吸い寄せられた。


「時計回り?」

「ありえないでしょう? 規模もやたら小さい……というか台風の中でこんな逆向きの渦ができるなんてありえますか?」

「ううん」

 台風16号の渦は、隠岐の西方を中心に山陰地方を覆っている。その大渦の中に小さな雲の渦が存在しているのだ。しかもそれは『時計回り』で渦を巻いている。非常識な光景に堀内と益田はしばらく声も出なかった。


「ホリさん、どうします?」益田がおずおずと尋ねた。

「うーん」堀内はようやく我に返った。「とにかく、西郷の観測所に電話だな。隠岐がどげな状況か聞かんと分からんわ」

 北半球では『反時計回り』に渦を巻く台風の、その只中に生まれた謎の雲。頭が落ち着くにつれて堀内も益田も俄然興味がわいてきた。もしかしたら世紀の大発見かもしれない。そう思うと早く状況を確認したくなり、堀内は外線電話に手を伸ばした。


「おりょりょ?」益田が素っ頓狂な声を出した。

「今度はどうした?」堀内が聞くと、益田は狐につままれたような顔で、言った。


「消えちゃいました」


 堀内は慌ててレーダー画面を見たが、すでにそこには謎の渦は存在せず、ただ日本海上を東進する台風16号の渦があるだけだった。





第8普通科連隊第3中隊隊舎 陸上自衛隊米子駐屯地

2012年 9月21日 07時00分


 課業始め前の隊舎内は、普段よりややのんびりとした空気が流れていた。本日予定されていた行軍訓練が昨日のうちに正式に延期されたことが理由だろう。外は激しい風雨が荒れ狂っているが、隊舎内は快適な状態に保たれている。第3中隊の隊員の一部は、娯楽室で食後のひと時を楽しんでいた。

「秋上、お前明日どうすんの?」

 横道秀人よこみちひでと二等陸曹は秋上宗あきあげそう三等陸曹に話しかけた。二人は入隊同期である。

「んぁ? そうだなぁ給料入ったし射撃に行くかなぁ」

 秋上三曹は細面をだらしなく緩ませ言った。実家は歴史ある神社で父親は神職なのだが、当の秋上は継ぐ気はないらしい。

「また、皆生かよ。独身はいいな」

 横道はポケットに入っていた紙くずを丸めると、秋上に放り投げた。駐屯地に程近い皆生温泉は、県内有数の温泉街であり、歓楽街であった。

「横ちんはドライブ?」

「と、いきてぇんだけどな。多分官舎の片付けに駆り出されるんじゃねぇかなぁ」

「ご愁傷様」秋上がニヤニヤしながら言った。

「うるせぇ」と、またごみを投げつける。横道は一つ下の妻と官舎に住んでいる。夫婦とも浜田市出身で高校時代からの付き合いだった。休日は愛車の86でドライブデートが定番なのだが、今週末に限ってはそうもいきそうにない。勝気な横道と享楽的な秋上は性格も趣味も異なるのだが、なにかとうまが合った。


「先輩、見てくださいよ。すげぇすげぇ」

 お調子者だが要領の良い五月早苗さつきさなえ陸士長がつけっぱなしだったテレビを指差した。五月士長は22歳。れっきとした男性隊員なのだがその名前のせいか女子に間違えられることが多かった。同期や先輩からからかわれることも多く、その度に揉めていた時期もある。

 彼の指差したテレビ画面は、ローカル局の情報番組が視聴者提供の動画を映し出していた。隠岐の島町で撮影されたという映像は、不気味に渦を巻く黒雲が七色に色彩を変えながら光る姿を示している。興奮気味の撮影者の声は風音でよく聞き取れないが『UFO? UFO?』という字幕がついていた。

「これ、なんすかね? 雷? UFOってありえねぇっすよね」

「うるせぇ。どうでもいいよ」横道が面倒くさそうに言った。「それより五月はどうすんだ週末。またパチンコじゃねぇだろうな?」

「ひでぇ。デートっすよ。こないだ知り合った看護学校の子と」

 五月の発言に周囲が色めき立った。彼女のいない連中が詰め寄る。「おい友達紹介しろよ友達」「同じ小隊の戦友だろうが!」まるでハイエナの群れだ、と横道は思った。



「お前らお気楽にもほどがあるぞ」

 娯楽室の入り口から、涼しげな声が大騒ぎに冷や水を浴びせた。横道が目をやるとそこには1班長の山中幸介やまなかこうすけ二等陸曹が腰に左手を当てて立っていた。身長180センチ、体重78キロ。引き締まった体躯と、野性味を感じさせつつも知性を合わせ持つ容貌を持つ山中は、その見た目通りの男だった。

 山中は何故か拳法着を右手にぶら下げている。横道がさっそく尋ねる。

「班長は何で道着なんてぶら下げてるん?」

 その問いに山中は右手を持ち上げ、目の前で道着を掲げてみせた。

「ああ、これな。今日は自選作業だって話だったから、ちょっと稽古しようかなってな」

「朝っぱらから?」秋上が眉根にしわを寄せ心底信じられないという顔で言った。

「ん? 何か変か?」当の本人は全く疑問に思っていないようだ。呆れ顔の秋上に五月が顔を寄せささやいた。

「班長、前回の拳法大会がよっぽど悔しかったらしくて、ずっと稽古漬けですよ」

「何で? 全自ベスト8じゃん」

「団体一回戦、海自と当たったでしょ? あれで一人だけ負けたのが響いてるみたいっすよ」

 中隊一の猛者として鳴らす山中は、全自拳法大会団体一回戦で対戦した海自チームに対して、チームで唯一敗北を喫していた。

「あー、あの化け物みたいなおっさんがいたやつか。海老だか蟹だかって名前の……」


「聞こえてるぞ」

 そう言った山中の声がかすかに震えていることを、横道は聞き逃さなかった。話を変えるぞ。素早く周囲とアイコンタクトをとる。

「で、お気楽ってなんだ?」

 山中は、ニヤリと笑いゆっくりと言った。


「週末の外出許可は取り消し。災害派遣に備えて3中隊も上番だとさ。そこで小隊長に聞いた。五月、残念だったな」

「ええええッ! 当番中隊は2中隊でしょぉぉぉ!?」

「台風が三つも来てるからなぁ。諦めろ」

「ファァァック!」


 愕然とする五月士長を尻目に、他の面々は仕方ねぇなあと課業始めの準備に立ち上がった。




隠岐の島町

2012年 9月21日 11時18分


 裏の鶏小屋が何やら騒がしい。

 外はようやく明るくなってきた。雨足も弱くなり風も収まったようだ。この家に独りで住む田中章夫は、のそのそと起き上がり分厚いカーテンを開けた。停電したせいで真っ暗だった居間に、うっすらと光が差し込む。15年前に役場を退職後、田中老人は山奥のこの家に移り住んだ。一緒に畑仕事をしていた妻は五年前に亡くなっている。

 余分な物が無いせいでがらんとした印象の居間には小さな仏壇が一つ置かれていた。田中老人は台所で湯飲みに水を汲むと仏壇に供え、線香に火をつけた。


 鶏小屋の騒ぎがさらに大きくなった。六羽いる軍鶏が狂ったように鳴いている。

 野犬でも出たかな。田中老人は勝手口に向かった。戸口に立てかけておいた鉈を掴み、ドアを開ける。小雨が顔に降り注ぐ。何故か鉄臭い臭いがした。いつの間にか、軍鶏の声が止んでいる。

「おおい。何しちょうだ?」何となく声をかけた。当然返事は無い。勝手口からは鶏小屋を見ることはできなかった。一瞬誰かを呼ぼうかと思う。だが、一番近い家で3キロ先だ。家の周囲はとても静かだった。

 田中老人は鉈を右手に提げ、慎重な足取りで鶏小屋へと近付いていった。



 電話が鳴った。居間の電話が電子音を響かせている。だが、誰も取る者がいないまま、しばらくして電子音は絶えた。

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