↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

犬の翻訳機が「別に」としか言いません

掲載日:2026/09/09

「僕のこと、好き?」

『別に』


 一万二千八百円を払って、十一年ぶんの関係が二文字になった。


 コロは前足をなめている。

 首輪につけた白い翻訳機だけが、ぴかぴか光っていた。


「ごはん、おいしかった?」

『別に』

「昨日の散歩は? 楽しかった?」

『別に』


 十一歳の雑種犬は、なめる足を替えた。

 口のまわりが白くなったコロに合わせて、声は低めを選んだ。それがよくなかったのかもしれない。

 普通の返事まで、面倒くさそうに聞こえる。


 画面を開いて、声を『明るい』に変える。


「僕のこと、好き?」

『別に!』


 傷つき方が変わっただけだった。


 犬の気持ちが言葉になる。

 そういう翻訳機が発売されたのは、先月のことだ。


 首輪のセンサーで筋肉や神経の信号を拾い、声にする。名前と年齢を入れたら、あとは普段どおりに暮らせばいい。

 使うほど、その犬らしい言葉が増えるらしい。


 広告の犬は、ソファで飼い主に寄り添っていた。


『いつもありがとう』

『大好きだよ』


 あれを見て、お年玉の残りを数えた。

 ゲーム機のために取っておいたお金だった。


 コロだって、家に来て十一年だ。

 一つくらい、僕に言いたいことがあるはずだった。


「声、戻してあげたら?」


 台所から母さんが言った。


「なんか、明るい声で断られるの、私まで嫌だわ」

「断ってない。別にって言ってるだけ」

「そうね」


 声を戻すと、コロは長く鼻から息を出した。


 画面には『質問をどうぞ』と出ている。

 僕は床にしゃがんで、両手でコロの頬をなでた。指のあいだから、柔らかい耳の毛がはみ出す。


「家族の中で、誰が一番好き?」


 コロは頬を僕の手から抜いた。

 それから立ち上がり、台所へ行った。


「言わなくていい!」


 母さんは冷蔵庫からうどんを出している。

 コロは、その真下で座った。背筋まできれいに伸びていた。


 ずるい。

 ごはんを持っている人には、どうやったって勝てない。


 僕は空になった箱を片づけた。

 ふたには、犬を抱いて笑う子供の写真があった。


 その子の犬は、きっと別にとは言わない。


◇◇◇


 月曜日の朝も、僕は学校へ行かなかった。


 制服には着替えた。

 靴下も履いた。鞄を持って玄関まで来た。

 靴のかかとを踏んだところで、お腹が痛くなった。


 母さんは僕の隣にしゃがんだ。


「今日は、休むって連絡するね」

「明日は行く」

「明日のことは、明日決めよう」


 先週も、同じことを言われた。


 学校に行かなくなって、二週間になる。

 中学に入ってから、まだ半年しかたっていない。

 もう二週間も休んでいる。


 母さんは、僕が制服から着替えるまで待っていた。

 出かける前、冷蔵庫の小皿を指した。


「お昼は温めてね。食べられそうなら」

「うん」

「電話、出られなくてもいいから。何かあったら送って」


 玄関の鍵が回った。

 コロがドアの下の隙間を嗅いでから、僕を見上げた。


「母さん、仕事だって」


 コロは廊下を歩き、僕の部屋へ入っていく。

 僕より先に、僕の座布団に寝そべった。


「そこ、僕のなんだけど」


 起きない。

 いつもは僕が学校に行ったあと、こうして使っているのかもしれない。


 机の端末に、担任からの連絡が届いていた。

 母さんにも同じものが届く、学校の連絡アプリだ。


『放課後、人の少ない時間に一度お話しできませんか』


 前にもらったメッセージも、開いたまま返せていない。


 僕は画面を伏せた。

 コロの首輪だけが白く光っている。


 犬は、一日中家にいても怒られない。

 お昼まで寝ていても、明日はどうするのと聞かれない。


 横に座ると、コロが頭を少し浮かせた。

 座布団を返してくれるのかと思ったら、僕の膝に顎を置いた。


「重い」


 鼻の湿ったところが、ジャージについた。


「僕が家にいると、うれしい?」


 丸い光がくるくる回る。

 返事を待つあいだ、コロの耳をなでていた。


『別に』


 指が止まった。


 せめてコロくらいは、うれしいと言ってくれると思った。


 コロの顎を持ち上げて、座布団に戻す。

 僕はベッドへ移った。


 床で爪の鳴る音がした。

 コロが歩いてきて、ベッドの横に伏せる。


 僕は壁のほうを向いた。


◇◇◇


 火曜日、僕は翻訳機の返品方法を調べていた。


 壊れているのかもしれない。

 そう思って検索すると、『別にしか言いません』という質問が見つかった。

 同じ犬が、ほかにもいた。


 回答を開く。


『「特に伝えることはない」という反応も、短い会話表現に変換されます』


 そこまでは、何となくわかった。

 続きに、設定画面の場所が書いてあった。


『初期設定では、人からの質問への応答だけを再生します』


 僕は文章を二度読んだ。


 犬のほうから話しかけたときは、音が出ない。

 家の中で通知が続かないよう、最初はそうなっているらしい。


 設定を開くと、『犬からの呼びかけも再生』という項目があった。

 スイッチは灰色だった。


 広告の犬は、あんなに自分からしゃべっていたのに。

 僕はスイッチを押した。


 コロは机の下にいる。

 いつもと同じように、僕の足を鼻で押した。


『どいて』


 初めて聞く言葉だった。


 うれしくなりかけて、やめた。


「……それ?」


 コロが、もう一度ふくらはぎを押す。


『そこ』


 椅子ごと横へずれると、コロは机の奥に顔を入れた。

 出てきた口には、青いボールがくわえられていた。


 ずいぶん前に僕が買ったものだ。

 噛むと音が鳴ったけれど、今は空気が抜ける音しかしない。


 コロは座布団へ戻った。

 前足でボールを押さえ、端をちょっと噛む。


 すふ。


 変な音がした。


 また噛む。


 すふ。


 コロの耳が、片方だけ動いた。

 僕は返品の画面を閉じた。


 それから十分のあいだに、コロは水の器が空だと言った。

 廊下の洗濯籠を嗅いで、『これ、ぬれてる』とも言った。

 母さんの靴下だった。


 別に、感動するような言葉ではない。

 ただ、コロは思ったより忙しかった。


 僕が机に戻ると、今度は膝に鼻を差し込んできた。


『手』


「手?」


 頭に手を置く。

 コロは少し動いて、僕の指の下に耳の付け根を持ってきた。


『そこ』


 僕が画面を触ろうとすると、また鼻で腕を押す。


『手』


「片手しか使えないじゃん」


 その日は、検索にいつもの倍くらい時間がかかった。


◇◇◇


 午後、散歩に出ようとしたときだった。


 コロは玄関に置いた僕の鞄を嗅いでいた。

 そのまま、靴を履く僕の膝へ鼻を寄せる。


『今日は、学校のにおいがしない』


 靴紐を引く手が止まった。


「……わかるの?」


 コロは鞄をもう一度嗅いだ。


『こっちは、する』


 鞄はずっと持っていっていない。

 制服からジャージに着替えた僕には、何の匂いがするんだろう。


「学校、覚えてる?」


 僕が小学生だった頃、母さんとコロが迎えに来たことがある。

 校門の外から僕を見つけると、コロは立ち上がった。

 その頃は、まだ二本足で跳ねられた。


『たくさん、足』


「そう。たくさんいるところ」


 コロは僕の手にある赤いリードを見た。

 いつも散歩に使っている、持ち手が少し黒くなったものだ。


『つける』


 金具を首輪の輪にかけた。

 僕の指がもたつくあいだ、コロは待っていた。


「学校、行ってないんだ」


 コロは返事をしなかった。

 閉まったドアを向いている。


「今日だけじゃないよ。ずっと行ってない」


 ドアの向こうで、自転車のブレーキが鳴った。

 僕は金具をもう一度確かめた。


「でも、散歩は行ける。……変だよね」


 コロは振り返った。


『あけて』


「今、ちょっと話してるんだけど」


 見つめ合っても、コロの意見は変わらなかった。


 鍵を開ける。

 隙間から入った風で、コロの鼻がぴくぴく動いた。


 家の前の坂を下りると、道が二つに分かれる。

 右は団地を一周する、短い道だ。

 左は川まで行く。途中にベンチがある。


 このところ、ずっと右へ曲がっていた。

 散歩の途中で制服の子を見かけると、早く帰りたくなる。

 コロが匂いを嗅ぐのを待つ余裕もなかった。


 今日も右へ行こうとして、僕は足を止めた。

 コロが左の道を見ている。


「今日は、少しゆっくりできるよ」


 川沿いなら、この時間は同じ学校の子も少ない。


「急いで帰らなくていい」


 首輪が光った。


『じゃあ、長いほうの道』


 コロは左へ向いた。

 僕も、そちらへ足を出した。


 電柱を一本過ぎるまでに、三回止まった。


「ゆっくりでいいとは言ったけどさ」


 コロは返事をせず、枯れ葉の下を嗅いでいた。


◇◇◇


 川のベンチには、誰もいなかった。


 僕が腰を下ろすと、コロは足元に座った。

 鞄から水と器を出す。コロは勢いよく飲んで、僕の靴に水を飛ばした。


「わざとじゃないよね」

『別に』


 またそれだ。

 でも今は、僕の聞き方もおかしかった。


 コロはひと息ついて、地面に腹をつけた。

 僕の靴の横に、白くなった口があった。


「コロ、僕が学校に行ってても、行ってなくても、同じ?」


 返事はなかった。

 川の向こうから、草を刈る音が聞こえる。


「僕のこと、好きって聞いてるんだけど」


 コロが頭を上げた。

 自転車が一台、通り過ぎていく。

 首輪は光らなかった。


 昨日だったら、腹が立ったと思う。

 今日は、コロが自転車を目で追い終えるまで待った。


 言いたいことがなければ、しゃべらない。

 僕が聞いたことでも、全部に答えるわけじゃない。

 説明書には、そういうことも書いてあった。


「僕も、聞かれると困るんだ」


 コロの耳に、小さな草の種がついている。

 つまんで取った。


「いつからとか。何があったとか。明日は行けそうか、とか」


 母さんに聞かれるのが嫌だった。

 答えようとすると、行けない理由をちゃんと出さなきゃと思う。

 ちゃんとしていなかったら、靴を履かなきゃいけない気がした。


「お腹が痛いのは、ほんとなんだよ」


 コロは顎を地面に下ろした。

 耳の先が、僕の靴にかかった。


「でも、お腹だけじゃなくて」


 川の土手を、知らない小さな犬が歩いていた。

 コロの耳が立つ。

 その犬が曲がって見えなくなると、また伏せた。


「国語の発表でさ。言葉、出なくなって」


 言い直そうとして、同じところで三回つかえた。

 そのときは僕も笑った。

 笑っておいたほうが、早く終わると思った。


「そこだけ、動画にされてたんだ」


 机の下で撮った、斜めの動画だった。

 僕の顔は半分しか映っていない。

 声だけが、はっきり聞こえた。


 クラスのグループに送られてきた。

 次の日、誰かが僕の言い方をまねした。

 何人も笑った。廊下でも、同じ声がした。


「消してって、送ったんだよ」


 動画を載せた相手に、個別に送った。

 謝る犬のスタンプが返ってきた。

 動画は消えなかった。


「もう一回言うの、無理だった」


 大したことじゃないと言われたら、今度は何を送ればいい。

 僕も最初は笑ってしまった。

 あれが嫌だったと、あとから言っていいのかもわからない。


 コロが鼻を動かした。

 僕の指先を嗅いでいる。


 口のまわりをなでた。

 いつもより毛が硬いところがあった。さっきの水で、少し濡れていた。


「それで休んだら、今度は、なんで来ないんだって」


 通知が光るたび、端末を伏せた。

 誰かが優しいことを書いてくれているかもしれない。

 また僕の声が流れるかもしれない。


「母さんにも、まだ言ってない」


 コロは体の向きを変えた。

 僕の靴の上に、前足が一つ乗る。


 僕はリードを握り直した。

 帰ろうと思えば、いつでも立てた。


「……もうちょっと、ここにいていい?」


 コロは目を細めた。

 首輪は、何も言わなかった。


 川の音を聞いていた。

 向こうのベンチで、缶が開く音がした。

 コロが顔を上げたので、僕もそちらを見た。


「それは違う。ごはんじゃない」


 コロはまた顎を下ろした。


 僕は、残りを話した。

 休んだ日のプリントが増えていくこと。

 家にいるのに、夕方まで何もできないこと。

 明日は行くと言ったあと、夜になるのが怖いこと。


 途中から順番はめちゃくちゃだった。

 同じことも二回言った。

 コロは、訂正しなかった。


 コロの背中に手を置いていたら、温かくなった。

 何もしていない僕の足元で、コロの腹がゆっくり動いている。


 僕が黙ると、しばらくして首輪が光った。


『水』


「さっき飲んだじゃん」


 コロは器を見ていた。

 僕は残りの水を注いだ。


 飲み終わるのを待ってから立った。

 今度はコロが立つのを待った。

 座っていた地面に、犬のお腹の形が残っていた。


 帰り道、コロは同じ電柱をもう一度嗅いだ。


「さっきも読んだでしょ、それ」


 返事はない。

 僕はポケットから端末を出した。


 母さんへのメッセージを開く。

 何があったか、最初から書こうとして消した。

 動画という字を打って、それも消した。


『帰ってきたら、話したいことがある』


 送ったあと、心臓が速くなった。


 すぐに返事が来た。


『わかった。聞くね』


 コロは、まだ電柱を嗅いでいる。

 僕は端末をしまった。


◇◇◇


 母さんが帰ってきても、僕はすぐには話せなかった。


 玄関で声をかけようとして、コロに先を越された。

 コロは母さんの買い物袋に鼻を伸ばしている。


『それ、何』

「ねぎ。コロのじゃないよ」


 母さんは袋を台所に置いた。

 上着を脱いで、僕の向かいに座る。


「お茶、いる?」

「あとで」


 母さんの指に、袋の持ち手の赤い跡があった。

 僕はそこを見ていた。


「ごめん」

「うん?」

「お腹が痛いって、言ってたけど」


 言葉が詰まった。

 母さんが何か言いかけて、口を閉じた。


「それも、ほんとなんだけど」


 コロがソファに前足をかけた。

 僕はお尻を横へずらした。


 コロは空いた場所によじのぼった。

 丸まるまでに二回、僕の腿を踏んだ。

 座り直すと、今度は母さんの膝に鼻が届いた。


 母さんが、コロの耳をなでる。

 僕も、背中に手を置いた。


「学校で、動画を撮られて」


 母さんの手が止まった。


 僕は川で話した順番を思い出そうとした。

 うまくいかなくて、途中から話した。

 グループを開けないこと。消してと頼んだこと。


 母さんは端末を出しかけた。

 僕が身を固くすると、テーブルに置いた。


「今、見せられそう?」

「……今は、無理」

「わかった」


 コロが僕の手を鼻で押す。

 なでるのをやめていた。


 手を動かしながら、残りも言った。


「僕も、最初は笑ったんだ」

「うん」

「だから、嫌だって言っても、変かなって」


 母さんは首を横に振った。


「あとから嫌だって言っていいよ」


 それを聞いたら、急に鼻が詰まった。

 母さんの顔が見えなくなって、コロの背中を見た。


 コロは口を少し開けて寝ている。

 背中の毛に、川でついた草が一本残っていた。


「明日、先生と話してみる。動画のことを伝えてもいい?」


 僕はうなずいた。


「でも、教室で、みんなの前で見せたりしないでほしい」

「うん。そのことも、ちゃんと伝える」

「それから、明日は行くって、まだ言えない」


 母さんの手が、コロの耳から離れた。

 テーブルの端末を少し遠くへ押した。


「明日行くって、今、約束しなくていい」


 僕は、息を吐いた。

 吸ったとき、鼻が変な音を出した。


 コロが目を開けた。


『何』


「何でもない」


 そう言ってから、首を振った。


「何でもなくは、ないけど」


 母さんがティッシュの箱を取った。

 僕が鼻をかんでいるあいだ、コロは僕の顔を嗅ぎに来た。


「近い。ちょっと近い」


 濡れた鼻が頬に当たった。

 母さんはコロの体を少し引き寄せた。

 コロはそのまま、母さんの腹に頭を押しつけた。


 僕はティッシュを丸めた。

 もう片方の手で、コロの背中をなでた。


◇◇◇


 次の日、母さんと先生が電話で話した。


 僕は少し離れた床に座っていた。

 コロは、青いボールを噛んでいる。

 すふ、すふと、空気の抜ける音がする。


 母さんが僕を見た。


「一つ、先生に伝えたいことがあるって言ってたでしょう。どうする?」


 僕は膝を抱えた。

 コロがボールを落とした。

 拾ってやると、また口にくわえた。


「……代わって」


 端末は温かかった。


 先生に名前を呼ばれ、はいと言った。

 次が出てこない。

 画面の通話時間だけが増えていく。


 僕はコロの耳を見た。


「動画を回すのを、止めてほしいです」


 言えたあとも、心臓は速かった。


「わかった。誰が持っているか確認して、止めるように話します」


 先生は、まだほかにも聞きたいことがありそうだった。

 僕は母さんを見て、それから端末に向き直った。


「今日は、ここまでにしたいです」

「はい。またお母さんを通して、相談させてください」


 電話を返すと、手のひらが汗で濡れていた。


 コロが青いボールを、僕の膝に置いた。


『あっち』


 廊下を見ている。

 僕はボールを転がした。


 コロは立ち上がって取りに行った。

 小さかった頃みたいには走らない。

 廊下の途中で追いついて、くわえて戻ってくる。


 膝に置く。


『あっち』


 二回目は、さっきより遠くへ転がした。


 その日は、学校へ行かなかった。

 次の日も、制服には着替えられなかった。


 グループの動画は消されたと、先生から連絡が来た。

 それでも僕は、まだ自分ではあのグループを開けなかった。


 学校からの連絡は、母さんと一緒に読んだ。

 返事をするのは僕でなくてもいいと、母さんが言った。

 僕が言いたいことは、先に聞いてくれた。


 コロとの散歩は、また長い道を歩くようになった。


 同じ学校の子が見えた日は、一本手前で曲がった。

 コロはそちらの道でも、嗅ぐものを見つけた。

 帰りが遅くなる理由には、困らなかった。


 翻訳機の録音履歴には、言葉が少しずつ増えていた。


『そこ』

『水』

『手』

『あっち』


 母さんの買い物袋への質問が、一番多かった。


 日曜日の朝、僕はコロの器を洗った。

 水を入れ替え、散歩用の鞄にも水を詰める。

 コロは玄関で待っていた。


「今日は、川まで行こう」


 赤いリードを持ってしゃがむ。

 コロの鼻が、僕の膝を一度だけ押した。


 僕はコロの顔を見た。

 何度も聞いた質問が、口まで出かかった。


 首輪の下に指を入れ、金具を留める。

 コロの耳の付け根を、少し長くなでた。


「よし。行こうか」


 立ち上がってドアを開けた。

 コロは動かなかった。


 外には好きな匂いがたくさんあるはずなのに、僕を見ている。

 赤いリードが、二人のあいだでたるんでいた。


 白い翻訳機が光った。


『今日は聞かないのか』


(了)

最後までお読みくださり、ありがとうございました。

コロとの散歩を楽しんでいただけたなら、うれしいです。

心に残った場面や言葉があれば、感想で教えていただけると励みになります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。