離宮の魔物
王都の北端、手入れの行き届かない庭と、蜘蛛の巣が張った天井。そこが私の新しい「城」――離宮である。
婚約破棄され、追放先からも「あんな変態を寄こすな」と受取拒否を食らった私に与えられた、惨めな軟禁場所。
ああ、なんて素敵。日の当たらない、忘れ去られた存在。この日陰者という響きだけで、白米が三杯はいけるわ。
「……はぁ。なんで私が、こんな呪われた王女の世話をしなきゃいけないのよ」
廊下の向こうから、一人の若い侍女の声が聞こえてきた。名はアリス。最近、私のお世話係(という名の監視役)として赴任してきた、気の強い娘だ。
彼女は私の部屋の前に来ると、これ見よがしに大きな音を立てて、ドア前に盆を置いた。
「ノノシリーナ様。食事です。……ちっ、面倒くさい」
――ッ!
今、聞いた!? 聞いたわよね!?
鼓膜を震わせる、あの鋭利な摩擦音。舌を上顎に打ち付けて放たれる、軽蔑と嫌悪の凝縮体。
「舌打ち」よ!!
私は弾かれたように立ち上がり、扉を勢いよく開けた。
「……っ! 今……今、舌打ちしたわね!? アリス、あなた、今、私に向かって『ちっ』って言ったわね!?」
「ひっ、い、いえ! そんなことは……!」
怯えるアリス。いいわ、その「触れてはいけないものに触れてしまった」ような引き攣った表情!
私は彼女の肩をがっしりと掴み、至近距離まで顔を近づけた。
「隠さなくていいのよ! その舌打ち……最高に汚らわしいものを見るような音だったわ! もっと……もっとその汚物を見るような冷たい目で、私をなじって! ほら、この汚れた廊下を見てちょうだい! 『この無能王女、いつまで突っ立ってるの! 今すぐ素手で雑巾がけをしなさい!』って、そう命じてちょうだい!」
「な、何を……! お放しください! 私はただ、食事が遅れたことを……」
「いいえ、あなたは私を蔑んでいる! その瞳の奥にある、ドロドロとした優越感を見せて! さあ、私の首根っこを掴んで、冷たい床に押し付けて、『一生そこで埃でも啜ってろ、この泥棒猫の成れの果て!』って叫ぶのよ! ほら、早く!! 何してるの!!」
私の鼻息は荒くなり、頬は紅潮していた。
アリスは真っ青になり、ガタガタと震え出した。
「う、うわあああああん! もう嫌だ、この人、怖い! 頭がおかしい!!」
アリスは持っていた盆を放り出し、涙を流しながら廊下を全力疾走で逃げ去っていった。
あとに残されたのは、ひっくり返ったスープと、呆然と立ち尽くす私。
「……あら。逃げちゃった。あんなにいい舌打ちをしていたのに、もったいないわ……」
私は地面にこぼれたスープを眺め、ふふ、と独り言を漏らした。
その後も、私の「狂気」は離宮全体を侵食していった。
王家が送り込んでくる侍女たちは、皆、最初は「落ちぶれた王女をいびってやろう」という下卑た野心を持ってやってくる。けれど、私の前ではその野心は無力だった。
例えば、ベテラン侍女のマーサ。
彼女はわざと私の寝室に冷水をぶちまけ、「あら、手が滑りましたわ。お掃除、よろしくて?」と嫌味たらしく笑った。
普通なら、ここで王女としてのプライドが傷つき、泣き崩れる場面。
けれど、私は歓喜のあまり、彼女の足元に跪いた。
「マーサ……! あなた、なんて無慈悲なの! 私の安らぎの場を、一瞬で冷たい沼に変えるなんて! ああ、この水、冷たい……心まで凍りつきそう! お願い、もっとかけて! バケツごと、私の頭からザバーッといってちょうだい! そして『あんたには、湿った床がお似合いだよ』って、冷たく言い放って!」
「……え、あ、あの、ノノシリーナ様? これは、その……」
「さあ、どうしたの!? あなたのサディスティックな魂を解放して! 私はここよ! あなたの前に横たわる、踏みつけられるのを待っている一塊の肉よ!!」
マーサは、自分が持っていたバケツを落として、腰を抜かした。
「……あ、あ、悪魔だ。この女、人の皮を被った何かなんだわ……」
彼女は翌日、精神的な衰弱を理由に長期休暇を出した。
さらに、気の弱い見習い侍女のピピ。
彼女が私の食事にわざと砂を混ぜた時(おそらくギルバート王子の差し金でしょう。感謝するわ)、私はその砂を一つ一つ丁寧に愛でながら、彼女を追い詰めた。
「ピピ……。この砂の食感、ジャリジャリとしていて、私の惨めさを引き立てるわ。なんて素晴らしい演出なの。ねえ、次はガラスの破片でも入れてみる? 私、あなたのその、震えながら毒を盛るような臆病な指先が大好きなのよ……。さあ、次は私の顔に泥を塗って、『このブタ女!』って罵りながらビンタしてちょうだい。あなたの細い腕で、精一杯の力で!」
「ひいいいいいっ! ごめんなさい! ごめんなさいいいいい!」
ピピは泡を吹いて倒れ、そのまま医務室へと運ばれた。
一ヶ月が経つ頃には、離宮の待女たちの間で「ノノシリーナ様には絶対に関わるな」という鉄の掟が出来上がっていた。
彼女たちは、私の姿を見かけるだけで、モーゼが海を割るように左右に別れ、全力で視線を逸らす。
「あ、あら皆様。おはようございます。今日も私のこと、無視してくださるのかしら? それとも、あえて私の存在自体を無視して、いないものとして扱う『徹底的無視』という名の拷問を私に与えてくださるの!?」
私が声をかけると、侍女たちは悲鳴を上げて散り散りになる。
静まり返った離宮の廊下で、私は一人、満足げに微笑んだ。
「ふふ、ふふふ……。誰も口を聞いてくれない。誰も私を認めない。世界から隔絶された、孤独な王女……。ああ、これよ。これが欲しかったの。なんて、なんて惨めで――幸せな日々なのかしら!」
しかし。
あまりにも侍女たちが次々と精神を病み、再起不能になっていく事態を、王宮側も放置できなくなっていた。
「……何? ノノシリーナの離宮から、まともな侍女が一人もいなくなっただと?」
王宮の執務室で、ギルバート王子が書類を叩きつける音が響く。
彼の計画では、離宮で精神的に追い詰められ、ボロボロになったノノシリーナが「助けてください、王子!」と泣きついてくるはずだったのだ。
「……あいつは何を考えている。幽閉されているというのに、なぜ私の送った刺客(侍女)たちが、先に心を折られて帰ってくるのだ!?」
ノノシリーナの真の恐ろしさに、ようやく王子が気づき始めた頃。
当の本人は、離宮の庭で。
「……誰もいない。誰も私を罵ってくれない……。あ、そうだ。自分で自分を罵ればいいんだわ! この、ドM王女! この、救いようのない変態!」
と、セルフ罵倒で更なる狂気の高みへと昇り詰めようとしていた。




