狗奴国の侵攻
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地平が不気味な赤に染まったのは、夕刻のせいではなかった。
燃えているのだ。村が、倉が、祈りの場が。
卑弥呼は、祭祀殿の高台からそれを見下ろしていた。
風が運ぶのは、焦げた木と血の匂い。
「姉上!
官兵たちが次々と討たれております。
狗奴国の兵、その勢いはこれまでの小競り合いとは比べものになりませぬ!」
弟の声が、初めて震えていた。
卑弥呼は、答えない。
その視線の先――
黒い奔流のように、兵が押し寄せてくる。
整ってはいない。
だが、迷いがない。
「……来たか」
ようやく、卑弥呼が口を開いた。
「卑弥弓呼」
その名は、呪のように広間に落ちた。
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狗奴国の王 ― 卑弥弓呼
戦場の最前。
卑弥弓呼は、甲冑を着ていなかった。
肩を覆うのは獣皮。
手には、血に濡れた長槍。
「女王は、神に隠れた」
低く、荒い声。
「魏の名を借り、
神を語り、
血を流さずに支配する」
吐き捨てる。
「そんな王は、
地に立っていない!」
彼の背後で、兵が吠える。
彼らは巫女を信じない。
力だけを信じる。
「今日は、
神を地に引きずり下ろす日だ!」
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邪馬台国 ― 崩れる均衡
城門が破られた。
矢が飛び、
叫びが上がり、
人が倒れる。
難升米は、剣を取っていた。
使節ではない。
将として。
(……これが、残った戦か)
外の世界と戦わぬために、
内を犠牲にした。
その現実が、
目の前で血となる。
「後退せよ!
祭祀殿を死守しろ!」
だが、兵は減っていた。
魏へ送った。
呉へ送られた。
そして、戻らなかった。
(司馬懿……)
難升米は歯を食いしばる。
(あなたは、
ここまで見ていたのか)
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卑弥呼 ― 神を降ろす決断
祭祀の広間。
水鏡の前で、卑弥呼は独り立っていた。
鈴も、
巫女も、
もういない。
外の轟音が、はっきり聞こえる。
弟が駆け込む。
「姉上!
もう持ちませぬ!
神託を!
兵に神託を!」
卑弥呼は、首を振った。
「……もう、神は使えぬ」
弟は愕然とする。
「なぜ……!」
卑弥呼は、水鏡に映る自分を見た。
老いた顔。
疲れた目。
「神を使い続ければ、
人は刃を研ぐ」
静かな声。
「卑弥弓呼は、
神と戦うために来た」
一歩、前に出る。
「ならば――
私は、神を降ろす」
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最後の対峙
炎の中。
卑弥呼は、門の前に立った。
護衛は、誰も連れていない。
卑弥弓呼が、足を止める。
「……来たか、巫女王」
卑弥呼は、まっすぐに彼を見た。
「王よ」
それだけ。
「神は、どこだ」
卑弥弓呼が問う。
卑弥呼は、胸に手を当てた。
「ここにいた」
そして、ゆっくりと下ろす。
「……もう、いない」
その瞬間、
卑弥弓呼の表情が、初めて揺れた。
彼は理解した。
――この女は、
戦うために神を捨てた。
「ならば……」
卑弥弓呼は槍を構える。
「王として、斬る!」
卑弥呼は、逃げなかった。
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終わりの始まり
その夜、邪馬台国は落ちた。
だが――
倭は、滅びなかった。
卑弥呼の死は、
神話となり、
名となり、
霧となった。
卑弥弓呼は王となる。
だが、
彼は知っている。
――自分は、
神を殺したのではない。
時代を殺したのだ。
難升米は、海へ向かう。
もう、洛陽へは行かない。
(これでいい)
倭は再び、
歴史の影へ戻る。
だが影は、
消えたのではない。
深くなっただけだ。




