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難升米の苦難



「……しかし、彼らは南方の民。寒冷な山岳地帯では……」


司馬懿の言葉は、あくまで慎重だった。

あくまで、止めようとしているように聞こえた。


曹爽は、その声音に苛立ちを覚えた。


「だからこそよい!」


声が、殿に響く。


「魏の将は皆、常道しか知らぬ。

ならば異道を用いる!」


振り返り、司馬懿を睨む。


「仲達殿は、倭の兵を“海の鬼”と言ったな。

ならば山など、鬼にとっては庭も同然であろう!」


その論理の粗さに、

司馬懿は内心で静かに息を吐いた。


(……孔明なら、決して言わぬ)


だが、口には出さない。


「大将軍のお考え、

壮大にございます」


一礼。


それが、最後の後押しだった。





駱谷道。


霧が濃い。

湿った岩。

凍る風。


倭の兵たちは、沈黙していた。


彼らは、海を知っている。

潮を読む。

風を読む。


だが――

山は、語らない。


足元で、石が滑る。

一人が転び、音を立てた瞬間――

上から矢が降る。


蜀の伏兵。


「伏せろ!」


だが、叫びは遅い。


倭の兵は勇敢だった。

だが、陣形も、地形も、

すべてが敵のものだった。


雪混じりの雨が降り始める。


「……寒い」


それは、恐怖ではない。

理解不能への戸惑いだった。



二四四年、春。 蜀への進軍ルート「駱谷道」は、生きた人間の通る場所ではなかった。 左右から切り立つ断崖、雲を貫くような険路。魏の将兵たちは、重い甲冑を背負い、酸素の薄い山道で喘いでいた。 「おい、何を止まっている! 前へ進め!」 曹爽の怒号が谷間に響く。だが、先頭を進む倭国の兵たちは、ピタリと足を止めていた。 「……大将軍閣下、風が変わりました」 難升米が静かに告げる。彼の指差す先、谷の奥から不気味な霧が這い上がってきた。蜀の将・王平が仕掛けた「空城の計」ならぬ「山の罠」である。

「風だと? 貴様ら蛮族は、山道一つ満足に進めぬのか! それで『鬼道』の兵とは笑わせる!」


曹爽が鞭を振るい、倭兵の一人を打ち据えようとしたその時——。 難升米が懐から一枚の銅鏡を取り出し、霧の向こうにかざした。 わずかな陽光を捉えた鏡が、眩い閃光を放つ。 直後、霧の中から無数の矢が雨のように降り注いだ。 「伏せろッ!」 悲鳴と怒号が交錯する。険峻な崖の上から、蜀軍が岩を落とし、火矢を放つ。退路は狭く、数万の魏軍は互いに押し合い、次々と谷底へ滑落していった。


「何をしている!

狂戦士ではなかったのか!」


側近は、言葉を失う。


「……彼らは、海の兵でございます」


曹爽は初めて気づく。


自分が欲しかったのは、兵ではない。

手柄だった。





司馬懿 ― 何もせずに勝つ


司馬懿は、庭で鳥を眺めていた。


「駱谷道……失敗いたしました」


報告は淡々としている。


司馬懿は、うなずいた。


「そうか」


それだけ。


(倭の兵が敗れたのではない)


(使い方が間違っていただけだ)


そして、それを間違える男が、

自ら兵権を握った。


――十分だ。



---


難升米 ― すべてを理解した男


難升米は、洛陽の宿で一人座っていた。


倭の兵が、

大陸の山で死んだ。


(俺は……)


拳を握る。


(兵を渡したのではない)


(愚かさを試す道具を渡したのだ)


司馬懿の顔が浮かぶ。


(あの男は、

最初から分かっていた)


使えば失敗する。

だが、使わせれば勝てる。


「……女王よ」


難升米は、深く頭を垂れた。


「あなたの神託は、

血を最小にした」





ここは洛陽・司馬懿の書斎

その頃、洛陽の司馬懿は、自邸の庭に置かれた水盤を眺めていた。

波紋一つない水面。それは、彼が描き出した「曹爽の墓標」であった。

「今頃は、駱谷の冷たい霧に巻かれている頃か……」

司馬懿は独りごちる。





司馬懿は知っていた。曹爽が大敗すれば、朝廷内での彼の発言力は地に落ちる。後は自分が「救世主」として表舞台に立つだけだ。













数ヶ月後。

洛陽にたどり着いた曹爽は、権威も自信も失い、ただの抜け殻となっていた。

対照的に、司馬懿は「敗軍の将を労う慈悲深い賢者」として、民衆から圧倒的な支持を集める。

すべては司馬懿の計画通り。


曹爽は、兵を失い、信を失い、 それでも権力にしがみついていた。 司馬懿は、病を装い、 静かに時を待つ。 倭の兵は、 すでに洛陽にはいない。 だが―― “倭の失敗”は、 曹爽の失敗として記録された。 司馬懿は、夜、独り呟く。 「孔明よ…… お前は戦で勝とうとした」 灯が揺れる。 「私は、人に勝つ」 その先にあるのは、 高平陵。


---


邪馬台国・祭祀の広間


薄暗い広間の中央には、巨大な水鏡が置かれている。

磨かれた青銅の縁。

水は張られているが、波一つない。


天井の高みから落ちる一筋の光が、水面に円を描いていた。


その前に、卑弥呼は座していた。

白い衣。

背筋は伸び、微動だにしない。


背後に立つのは、弟。

王の代理として政を司る男。


その隣に、魏から戻ったばかりの使者――難升米が、静かに控えている。


旅の塵はすでに払われている。

だが、目だけが、洛陽を連れて帰ってきていた。


「……始めよ」


卑弥呼の声は、低く、広間に沈んだ。


弟が合図を送り、巫女たちが水鏡の周囲に進む。

鈴。

太鼓。

音は一定ではない。

乱れた拍が、意図的に刻まれる。


卑弥呼は、ゆっくりと水鏡に手をかざした。


指先が、水面に触れる。


その瞬間――

水が揺れた。



---


水鏡に映るもの


弟は、息を呑んだ。


水面に浮かんだのは、炎ではない。

血でもない。


崩れる陣。

山道。

霧。

倒れ伏す兵。


そして――

都。


洛陽の石の影。


「……魏の軍?」


思わず、弟が呟く。


卑弥呼は答えない。

ただ、水を見つめる。


やがて映像は変わる。


玉座の前に立つ、若い男。

怒りに歪んだ顔。


曹爽。


その背後に、

動かぬ老人の影。


司馬懿。


影は剣を持たない。

だが、次の瞬間、玉座の周囲から人が消える。


血は映らない。

叫びもない。


ただ、空席。



---


卑弥呼の神託


卑弥呼は、手を引いた。


水面は、再び静まる。


「……戦は、終わる」


弟が振り返る。


「姉上。

呉は?

魏は?」


卑弥呼は、初めて弟の方を見た。


その目は、巫女のものでも、王のものでもない。


すべてを見終えた者の目だった。


「呉は生きる。

魏も生きる」


一拍。


「だが、

人が変わる」


弟は、はっとする。


「では……

我らは?」


卑弥呼は、静かに答えた。


「倭は――

消える」


広間に、ざわめきが走る。


「消えるとは……!」


卑弥呼は、ゆっくりと立ち上がった。


「名を消す。

姿を消す。

歴史の波の裏へ退く」


水鏡を見下ろす。


「それが、

生き延びるということだ」



---


難升米 ― 最後の理解


難升米は、ようやく膝をついた。


(ああ……)


司馬懿は、倭を使ったのではない。

倭もまた、魏を使ったのだ。


血を流しすぎぬために。

大陸に呑まれぬために。


「女王よ……」


声が震える。


「我らは、

正しかったのでしょうか」


卑弥呼は、振り向かない。


「正しさは、

勝者の言葉」


一息。


「生き残るのは、

沈む者だ」



---


終章の予兆


水鏡の底で、最後に一つだけ、像が揺れた。


それは、船。


霧の中へ、静かに消えていく船影。


弟は、それを見て理解した。


――倭は、

戦わずして、

戦を終わらせたのだ。


卑弥呼は、再び座に戻る。


広間の灯が、ゆっくりと落とされていく。


歴史は、

ここで一度、闇に沈む。


だが――

沈んだものだけが、


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