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卑弥呼と司馬懿



西暦238年。魏の将軍・司馬懿は、疾風怒濤の勢いで遼東へと進軍し、長年東夷の海を支配していた公孫淵を瞬く間に滅ぼした。それまで倭国が大陸と通じる唯一の窓口を独占していた公孫氏の消滅は、東方諸国に未曾有の動揺をもたらした。

しかし、日向の宮殿に座すヒミコだけは、数ヶ月も前からこの結末を「視て」いた。

彼女は幽世の淀みから、巨大な「死の気」が黒雲となって遼東へ向かうのを察知していたのである。





「公孫の龍が堕ち、北の虎(司馬懿)が眼を覚ました。今こそ、海を開く時である」

北九州の王たちが「公孫氏亡きあと、交易が途絶える」と狼狽するのを尻目に、ヒミコは難升米ら使者を直ちに派遣した。その決断は、公孫氏の遺構がまだ燻っているうちに行われた、乾坤一擲の外交攻勢であった。



魏の国


黄土の地平線が、低くうねっていた。

それが最初、軍勢だと気づいたのは、風の音が変わったからだった。

馬蹄が地を打つ重い律動。鉄と革が擦れ合う鈍い響き。

難升米は歩みを止め、使節団の後方に視線を走らせた。

「……魏の軍だ」

その声は小さかったが、空気は一瞬で凍った。

黄塵の向こうから現れたのは、整然とした陣形を崩さぬ騎兵と歩兵。旗には「司」の字。

難升米は、その名を知っていた。

――司馬懿。

魏において、武と智の双方を備えた男。

戦場での冷酷さ、朝廷での沈黙。そのどちらもが恐れられている存在。

軍勢は使節団の前で止まった。

一頭の馬が前に出る。黒馬。その上の男は、甲冑を纏ってなお、異様な静けさを放っていた。

「倭国より来たる者か」

低く、感情を削ぎ落とした声。

難升米は一歩進み、深く礼をした。

「女王・卑弥呼の命を受け、魏に朝貢いたします」

司馬懿は一瞬、難升米の目を見た。

その視線は、剣の切先のように鋭く、しかし熱はない。

「遠い海を越えたな。……だが、魏の都はさらに遠い」

そう言って、司馬懿は馬首をわずかに巡らせた。

「道中、賊も、疫も、嘘もある。

生きて洛陽に辿り着けるかどうかは――運ではない。覚悟だ」

それだけを残し、軍勢は再び動き出した。

砂塵の中に消えていく背を見ながら、難升米は思った。

――この国は、人そのものが城壁だ。

洛陽、石の都

洛陽が見えた瞬間、難升米は言葉を失った。

土ではない。

木でもない。

石だった。

城壁は山のように積み上げられ、削り出された石が寸分の狂いもなく噛み合っている。

門楼は空を裂くようにそびえ、柱も階も、すべてが冷たい灰色の石で築かれていた。

倭の国では、権威は「人」に宿る。

だがここでは、権威は構造そのものに封じ込められている。

宮殿へ続く広い道を進むたび、足音が硬く反響した。

それはまるで、都そのものが侵入者を測っているかのようだった。

やがて辿り着いた正殿。

石の階段は果てしなく、天に向かって伸びているように見える。

難升米は思わず立ち止まった。

「……これが、天子の座する場所か」

石は冷たい。

だが、その冷たさこそが、永続の象徴だった。

――木は朽ちる。

――人は死ぬ。

だが、石は時を越える。

難升米は深く息を吸い、再び歩き出した。

女王・卑弥呼の名を、この石の都に刻むために。


魏朝廷 ― 倭の使節、言葉を放つ

正殿は、音を拒む空間だった。

石の床、石の柱、石の天井。声を上げれば吸い込まれ、囁けば切り取られる。

玉座の奥、高く設けられた壇上に天子が座す。

その左右には文官、武官が列を成し、視線だけが動いていた。

難升米は中央へ進み、跪いた。

「倭国女王、卑弥呼が詔を奉じ、魏皇帝に拝謁いたします」

巻物を広げる音が、異様なほど大きく響く。

――この一声で、倭という国が測られる。

難升米は静かに、しかし一字一字を削るように読み上げた。

「海を隔てし小国なれど、天の命を敬い、

魏の徳が四海に及ぶことを知る。

女王卑弥呼、遠き波濤を越え、

心のみをもって、天子に仕えるを願う」

殿内に、ざわめきが走る。

「女が王?」

「巫女の類か」

「国を治められるものか」

声には出さぬが、空気が語っていた。

そのとき――

「静まれ」

低く、短い声が落ちた。

司馬懿だった。

彼は列の中から一歩だけ前に出た。

玉座を見ず、難升米を見る。

「倭の女王は、なぜ自ら来ぬ」

問いは単純。

だが罠だった。

難升米は一瞬も間を置かず答えた。

「女王は国に在り、国を離れぬがゆえに王なのです。

もし去れば、倭は乱れます」

司馬懿の目が、わずかに細くなる。

「……国より重い王か。

それとも、王より重い国か」

難升米は答えなかった。

ただ、深く頭を垂れた。

沈黙。

その沈黙の中で、司馬懿は確信した。

――この使節は、言葉を操る。

――そして、その背後にいる女王は、さらに深い。

宮殿回廊 ― 司馬懿、難升米を測る

謁見後、難升米は回廊に呼び止められた。

「歩け」

司馬懿はそう言って、並んで進み出す。

護衛も、侍従も下げられていた。

「倭は、魏を恐れているか」

突然の問い。

「恐れております」

「ほう。正直だな」

「恐れぬ国は、いずれ滅びます」

司馬懿は足を止めた。

「では問おう。

倭は、魏に服するのか」

難升米も止まった。

「服するのではありません。

道を同じくするのです」

司馬懿は笑わなかった。

だが、その目にはわずかな光が宿った。

「……面白い。

倭は小さいが、愚かではない」

遠くで、石の宮殿に夕日が差し込む。

光と影が、柱に鋭い線を刻む。

司馬懿は背を向けた。

「覚えておけ。

魏は友を選ぶ。

そして――敵も選ぶ」

その言葉は、警告であり、承認でもあった。

難升米の独白

夜、宿舎の石壁に手を触れ、難升米は目を閉じた。

冷たい。

だが、確かに生きている。

――この国は、力を隠さない。

――だからこそ、信用もできる。

倭は海に守られ、魏は石に守られる。

違う国。違う在り方。

だが、橋はかかった。

「女王よ……」

難升米は心の中で呼びかけた。

「あなたの名は、

すでにこの石の都に、刻まれました」



洛陽の夜は、静かすぎる。

灯籠の火が石床に揺れ、その揺らぎの中で司馬懿は独り、書案に向かっていた。

巻物には、倭国の記録。海路。人口。交易品。女王・卑弥呼。

「……小国だ」

呟きは事実だった。

だが、軽蔑ではない。

司馬懿は知っている。

小さい国ほど、扱いを誤れば厄介になる。

倭は遠い。

遠いがゆえに、武力では支配できない。

ならば――

「名だ」

司馬懿は筆を取り、紙に一字を書いた。

王。

剣より軽い。

だが、時に城を落とす。

魏は今、内にも外にも敵を抱えている。

蜀、呉、そして朝廷内部の権力争い。

こんな時に、海の向こうの国と争う価値はない。

むしろ――

「倭を、使え」

司馬懿の思考は冷徹だった。

卑弥呼は巫女王。

宗教と政治を一つに束ねる女。

その権威の源は「天」と「外」だ。

ならば、外から天に等しい権威を与えればいい。

親魏倭王

魏に親しむ、倭の王。

従属ではない。

だが、独立でもない。

――絶妙な位置。

司馬懿は筆を止め、天井を見上げた。

「女であることも、むしろ都合がいい」

女王は、血統でなく象徴で立つ。

象徴は、認められることで強くなる。

魏が認めれば、

卑弥呼は倭国内で無敵になる。

無敵になれば――

魏に刃を向ける理由も、失う。

称号の上奏

翌朝、朝廷。

玉座の前に進み出た司馬懿は、簡潔に述べた。

「倭国女王に、王号を賜るべきかと存じます」

ざわめき。

「女に王号を?」

「聞いたことがない」

「前例が――」

司馬懿は一切、感情を動かさない。

「前例は、作るものです」

その一言で、空気が変わる。

「倭は魏に服しておりません。

されど、魏の徳を仰いでおります。

ここで王号を与えれば、倭は魏の秩序の内に入る」

誰かが問う。

「もし裏切れば?」

司馬懿は即答した。

「その時は、王号を奪えばよい」

静かな声。

だが、それは死刑宣告に等しい。

称号とは、与える者が生殺与奪を握る刃なのだ。

天子はしばし沈黙し、やがて頷いた。

「……親魏倭王とする」

その瞬間、司馬懿は心の中で一つだけ思った。

――倭は、もう外ではない。

司馬懿の確信

夜、再び灯籠の下。

司馬懿は一人、杯を傾ける。

勝った、とは思わない。

だが、布石は打った。

卑弥呼は賢い。

だからこそ、この称号を拒めない。

受け取れば、国内の敵は沈黙する。

拒めば、権威を失う。

どちらを選んでも――

魏の名は、倭に深く食い込む。

「海の向こうの女王よ」

司馬懿は微かに笑った。

「お前は、魏に選ばれたのだ。

……そして、魏もまた、お前を必要としている」

石の宮殿は、何も語らない。

だが、政治はすでに動いていた。  



こうして、公孫氏討伐直後の混乱の最中、ヒミコは鮮やかに「親魏倭王」の金印と、百枚の青銅鏡を勝ち取った。

この百枚の鏡は、大陸の高度な鋳造技術の結晶であると同時に、ヒミコの霊力を増幅させ、倭国連合を束ねるための物理的な「神の依り代」となった。大陸の覇者・魏から受けた公認は、国内の不穏な反乱分子を黙らせる絶対的な権威となり、邪馬台国の地位は不動のものとなったのである。

だが、大陸からの風は、新たな戦火の種をも運んできた。ヒミコの視線はすでに、南に潜む巨大な「影」――狗奴国の卑弥弓呼との最終決戦へと向かっていた。

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