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邪馬台国 卑弥呼  作者: レン
考察 邪馬台国論争
23/23

畿内説考察 関門海峡瀬戸内海を使者は渡れたのか?

輸送ルートを畿内説の視点で見てみましょう

大陸・朝鮮半島→対馬・壱岐・北部九州


→関門海峡→瀬戸内海→淀川・河内湖(難波)

→奈良盆地 


となります。



魏から使者が正式に来たのは2回です

正始元年(240年)の「梯儁」

卑弥呼を「親魏倭王」と認める詔書と金印を届けた実務上の最重要使節。

倭人伝に書かれた「伊都国」などの詳細な地理や風俗のレポートは、実質的に彼の見聞に基づいています。



正始8年(247年)の「張政」

狗奴国との戦争の報告を受け、詔書と「黄幢(軍旗)」を持って応援・仲裁に来た軍事・政治使節。

卑弥呼の死、そして壱与(台与)が王になるまでの混乱期を現地で見届けた人物です。

張政は西暦247年に倭国へ派遣され、卑弥呼の死後、後継者である台与とよを立てるなど、長期間倭国に滞在しました。




彼は「塞曹掾史さいそうえんし」という、軍事や国境管理を司る役職に就いていました。




「奈良まで来た」と考える根拠(畿内説の視点)

畿内説をとる研究者の多くは、張政が当時の倭国の中心地(女王の都)へ行ったと考えます。




長期滞在: 張政は、卑弥呼の死後、宗女の壱与いよが即位して混乱が収まるまで数年〜10年以上、倭国に留まっていた可能性があります。

外交の核心: 当時の魏の目的は、呉を牽制するために倭国を安定させることでした。そのため、張政は女王の宮殿(畿内説なら大和の纒向遺跡など)に直接入り、壱与を指導・補佐したという見方が自然とされます。



3. 「奈良までは来ていない」と考える根拠(九州説の視点)



九州説の場合、張政が到着したのは現在の福岡県を中心とする九州北部となります。

地理的限界: 『魏志倭人伝』の距離記述を文字通りに解釈すると、近畿まで到達するのは困難であるという立場です。

伊都国の役割: 魏の使者は、常に「伊都国いとこく」に駐在して倭国を監視していたという記述があります。そのため、張政も伊都国(現在の糸島市付近)に留まり、そこから女王の都(九州内)へ連絡を取っていたという考え方です。




張政の足跡に関する謎

興味深いのは、張政が帰国する際に壱与が送った使節に同行している点です。もし邪馬台国が奈良にあったなら、彼は瀬戸内海を渡るルートを通ったはずですが、その具体的な道中の描写が乏しいため、今もなお想像の域を出ません。



当時の船は、現代の船とは比較にならないほど「ひ弱」で、関門海峡のような激流を突破するにはあまりに頼りないものでした。

主な特徴は以下の3点です。



丸木舟に板を継いだだけ(準構造船)

当時の主流は「準構造船じゅんこうぞうせん」です。

作り: 太い丸木をくり抜いた土台に、横板(舷側板)を継ぎ足して少し高くしただけのもの。

弱点: 継ぎ目から水が入りやすく、波をかぶるとすぐに浸水します。また、底が丸いため横揺れに非常に弱く、渦潮に巻き込まれたら一瞬で転覆(沈没)します。




動力:人力(手漕ぎ)がメイン

帆も使われ始めていましたが、基本は「かい」で漕ぐスタイルです。

速度: 時速4〜5km程度。



関門海峡: 海峡の潮流(時速18km)に対しては、文字通り「川をさかのぼるアリ」のような状態です。逆潮のときは、どれだけ必死に漕いでも後ろに流されてしまいます。




全長10〜15メートル前後、幅1メートル強の細長い形が一般的でした。

数十人が乗ればいっぱいで、大量の食料や魏の使者の贈答品を積んで長距離航海をするには、あまりに不安定な「小さな舟」でした。



結論

この性能の船で関門海峡に突っ込むのは、現代で言えば「カヌーで激流下りをする」ような自殺行為に近いものでした。

そのため、もし移動するなら「潮止まりの数十分」を狙って対岸へチョイ乗りするのが限界で、そこから先(瀬戸内海)を延々と進むのは、当時の人間にとっても「命がけ」だったはずです。



関門海峡の最大潮流は10ノット(時速約18km)に達します。

船の能力: 前述の通り、準構造船の巡航速度は時速6〜9km程度です。

逆潮ぎゃくしお: 潮の流れに逆らって進もうとすると、全力で漕いでも後ろに押し流されます。

順潮じゅんしお: 逆に潮に乗れば一気に通過できますが、舵が効きにくくなり、渦潮に巻き込まれたり岩礁に激突したりするリスクが跳ね上がります。



当時の航海において、関門海峡を「強行突破」することはまずありません。

タイミングの把握: 潮の流れが止まる「転流時てんりゅうじ」や、進みたい方向へ潮が流れる時間帯を正確に待つ必要があります。

待機場所: 下関側や門司側の穏やかな入り江で数時間から、場合によっては数日間「潮待ち」をしていました。山口県の沿岸部は、こうした航海者たちの重要な休息地・待機地であったと考えられます。




鏡はどうなったのか?


「銅鏡100枚」を、現代の梱包技術で運ぶと仮定してシミュレーションしてみましょう。



邪馬台国時代の鏡として有名な「三角縁神獣鏡」などのサイズを基準に計算すると、意外なボリュームが見えてきます。



鏡1枚あたりのスペック

直径: 約20cm〜24cm

厚さ: 縁の最も厚い部分で約1cm

重さ: 1枚あたり約1kg〜1.5kg



100枚の合計ボリューム(梱包なし)

鏡を単に積み重ねた場合:

総重量: 約100kg〜150kg(力自慢の大人2〜3人分)

純粋な容積: 25cm四方の柱状に積み上げると、高さは約1メートルになります。




現代の輸送基準でのシミュレーション

現代において、これらを超貴重な「美術品」として安全に運ぶ場合、1枚ずつ緩衝材で包み、専用の木箱やコンテナに入れる必要があります。

個別梱包: 鏡の表面を保護するために不織布や中性紙で包み、さらに厚さ2cm程度のクッション材で挟みます。




外箱のサイズ: 10枚ごとに1つのケースにまとめるとすると、一箱あたり「35cm × 35cm × 高さ20cm」程度のサイズになります。これが10箱。

総容積: およそ 0.25〜0.3立方メートル。

イメージ: 現代の家庭用冷蔵庫(300L〜400Lクラス)の半分〜3分の2くらいのスペースを占める計算です。




現代の軽トラックなら余裕で積める量ですが、当時の船にとってはかなり「シビアな荷物」でした。

重心の問題: 150kgの金属塊は、船のバランスを大きく左右します。船底に平らに敷き詰めれば安定感が増しますが、少しでも片寄ると、関門海峡のような激流の中では転覆の引き金になります。

湿気対策: 銅鏡は湿気で錆び(青錆)が出やすいため、木箱の中にさらに「おがくず」や「乾燥させた植物」を詰め、徹底的に空間を埋めて固定していたと考えられます。





山口県での「積み替え」の光景は

もし関門海峡が荒れていて陸路を併用した場合、この150kg以上の荷物を運ぶには:

人力: 1箱15kg〜20kgの箱を、8〜10人の運搬人が担いで峠を越える。

牛車: 当時はまだ一般的ではありませんが、もし存在したなら1頭の牛で運べる限界に近い重さです。

結論

銅鏡100枚は、容積としては「冷蔵庫の半分」程度に収まりますが、その「密度の高い重さ」と「壊れやすさ」が、未整備の海や道を進む上での最大のネックでした。



これだけの重量物を、浸水しやすく不安定な船で仮に奈良まで運びきったというのは、当時のロジスティクス能力が極めて高かった証拠でもあります。

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