台与の覚醒
司馬師は大将軍の位を継いだ。
父が手に入れた絶大な権力、広大な領土、そして逆らう者のいない朝廷。すべては司馬氏の掌中にあった。しかし、執務室に座る司馬師の心は、晴れることがなかった。
「……また、報告が届いたのか」
弟の司馬昭が、険しい顔で書簡を差し出す。
「はい。東方の偵察から。邪馬台国は依然として激しい内乱の中にありますが……最近、奇妙な噂が流れているようです」
「奇妙な噂?」
「『死んだ女王の言葉を話す幼子が現れた』と。男王たちの争いに嫌気がさした民たちが、その幼子のもとへ集まり始めているというのです」
司馬師の手が止まった。父・仲達が死の間際に見開いた瞳。あの、何かに怯え、同時に何かに狂喜していたような眼差しが脳裏をよぎる。
「父上は……あの卑弥呼という女に、我らには見えぬ『何か』を植え付けられたのではないか」
司馬昭は自嘲気味に笑った。
「まさか。父上は生涯、現実を生き抜いた御方です。幻になど屈するはずがない。……ですが、兄上。私も時折、夜の静寂の中に波の音が聞こえる気がするのです。あの女が、鏡の中からこちらを覗いているような……」
二人の権力者は、豪華絢爛な宮殿の中にいながら、目に見えない「東方の影」に怯えていた。父の遺言は、司馬氏が築こうとする「晋」という完璧な世界の、唯一の亀裂となっていた。
同じ頃、邪馬台国。
かつての栄華は見る影もなく、村々は焼き払われ、大地は男王たちの覇権争いによって流された血で汚れていた。
戦火を逃れた民たちが、深い森の奥、卑弥呼がかつて瞑想したという古き神殿の跡地に身を寄せていた。そこへ、血に染まった剣を手にした兵たちが踏み込んでくる。
「隠れている奴らを引きずり出せ! 反逆者の芽は今のうちに摘んでおくのだ!」
兵士のひとりが、神殿の奥で静かに座る一人の少女を見つけた。
名は、台与。わずか十三歳の、どこにでもいるはずの少女だった。
「小娘、貴様が『女王の再来』と噂されている預言者か?」
兵士が嘲笑いながら、剣を台与の首筋に突き立てる。
しかし、台与は瞬きひとつしなかった。彼女の瞳は、目の前の兵士を見てはいなかった。彼女が見ているのは、もっと遠く——海を越え、大陸の果て、黄金の椅子に座りながら震えている「影」だった。
「……鏡の破片は、まだ熱を帯びている」
台与の口から漏れたのは、幼い少女には似つかわしくない、深く、染み通るような声だった。
「西の地の老いた怪物は、己の墓穴の中に鏡を隠した。けれど、光は閉じ込められない」
「何をわけのわからぬことを……死ね!」
「ぎあああ!」
光に焼かれた兵士たちは、武器を投げ出し、その場に平伏した。台与がゆっくりと立ち上がると、彼女の周囲の空気が一変する。霧が晴れ、戦の怒号が消え、森に静寂が戻った。
台与は、自らの掌を見つめた。そこには、割れたはずの「鏡」の記憶が刻まれている。
「仲達。あなたが恐れた通り、私はここにいます」
台与の瞳に、かつての卑弥呼と同じ、すべてを見透かすような輝きが宿る。
「あなたが血で築いたその国が、自らの血で崩れ去るまで……私はこの海から、あなたの末路を照らし続けましょう」
少女の覚醒とともに、邪馬台国の内乱は終わりを告げようとしていた。
邪馬台国の内乱を鎮めるという名目で、洛陽から派遣された軍事補佐官・張政は、鬱蒼とした森の奥にいた。
彼は、司馬師・司馬昭兄弟から密命を帯びていた。
『倭国の動向を逐一報告せよ。もし卑弥呼に代わる不穏な芽があるならば、即座に摘み取れ』と。
張政は草むらに身を潜め、神殿の跡地を見下ろす。そこには、光に包まれ、兵士たちを平伏させた一人の少女、台与が立っていた。
「……信じられぬ」
張政は手にした木簡を握りしめ、冷や汗を拭った。
彼は数年前、卑弥呼が司馬懿に宛てた貢物や書状を扱った際、その異様なまでの「先見の明」に寒気を覚えた記憶がある。しかし、目の前の少女から放たれる気配は、老獪だった卑弥呼のそれとは異なり、もっと純粋で、それゆえに鋭利な刃物のような危うさを秘めていた。
「あれが、台与……。ただの十三歳の童ではないか。だが、あの眼はどうだ」
張政が震える手で筆を走らせようとした、その時。
台与が、ゆっくりと首を巡らせた。
彼女の視線は、何十歩も離れた茂みに隠れている張政の瞳を、正確に射抜いた。
張政の心臓が、跳ね上がる。
(気づかれたか? いや、そんなはずはない。私は風下におり、気配も殺している……!)
しかし、台与は静かに微笑んだ。その唇が、声には出さず、形だけでこう告げたのを張政は見逃さなかった。
『見ていなさい、洛陽の使いよ』
張政は思わず後ずさり、背後の樹木に背を打ちつけた。
「……私の名も、出処も、すべて見透かしているというのか」
彼が次に見た光景は、さらに信じがたいものだった。
台与が天に手をかざすと、それまで荒れ狂っていた天候が劇的に変わり、重く垂れ込めていた暗雲が、彼女を中心として渦を巻くように晴れていったのだ。
ひれ伏していた兵士たちが、恐怖を忘れたかのように、陶酔の表情で彼女の名を呼び始める。
「台与様! 女王台与様!」
「これは……術などではない。民の心を、理屈を超えた力で支配している……」
張政は確信した。この少女を放っておけば、父・司馬懿が予言した通り、司馬氏が築き上げる新秩序にとって最大の「呪い」となる。
「司馬師様、司馬昭様……。お伝えせねばなりませぬ。卑弥呼は死んでなどいなかった。この地で、より強大な『怪物』として生まれ変わっております」
張政は急いでその場を離れ、海岸に待機させている船へと走った。




