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司馬懿の最期

司馬懿が投げ捨てた鏡は、床の上でゆらゆらと揺れ、やがてぴたりと動きを止めた。

その鏡面は、先ほどまでの血の色を失い、今はただ澄み渡った水面のように、天井のはりを映し出している。

「……ふん」

司馬懿は荒い呼吸を整え、冷笑を浮かべて椅子に座り直した。

勝利の余韻。曹爽一族を族滅し、魏の全権を掌握した今、もはや彼を脅かす政敵はいない。息子である師と昭も有能であり、司馬氏の栄華は約束されたも同然だった。

しかし。

静寂が戻った広間の中で、司馬懿はふと、「音」が聞こえなくなっていることに気づいた。

風の鳴る音も、廊下を巡回する兵たちの足音も、自分の心臓の鼓動さえも。

「……父上」

背後から声がした。

振り返れば、そこには長男の司馬師が立っていた。父の狂乱を目の当たりにしていたはずだが、その顔は氷のように無表情である。

「曹爽の一派、三族ことごとく捕らえました。……」





司馬懿が立ち上がろうとした瞬間、広間の四隅から、死者たちの囁きが聞こえ始めた。

それは卑弥呼の声であり、公孫淵の声であり、彼が切り捨ててきた数多の政敵たちの怨嗟であった。

「未来は、終わらない」

司馬懿の視界が歪む。

栄華の頂点に立ったはずの男の瞳に、最後に映ったのは、黄金の玉座ではなく、果てしなく続く戦乱と、一族が互いに殺し合う「晋」という名の地獄の入り口だった。

「黙れ……黙れ! 私は勝ったのだ! 私が……私が、現実なのだ!」

司馬懿の叫びは、冷たい月の光に吸い込まれ、誰に届くこともなく消えていった。



西暦251年。洛陽。

魏の権力を完全に掌中に収めた司馬懿仲達は、病の床に伏していた。

かつての鋭い眼光は失われ、頬はこけ、荒い呼吸だけが静かな寝所に響いている。

枕元には、長男・司馬師と次男・司馬昭が控えていた。

二人は、父が最期に何を語るのかを、固唾を呑んで見守っている。

「師……昭……」

枯れ木のような手が、二人の袖を掴んだ。司馬懿の目は開いているが、その焦点は息子たちではなく、誰もいない虚空を見据えていた。

「ゆめゆめ……忘れるな……。東の海の、あの鏡を……」

息子たちは顔を見合わせた。卑弥呼のことなら、すでに三年前に死んだと報告を受けている。邪馬台国は今、男王が立ち、激しい内乱で自滅の道を辿っているはずであった。

「父上、倭国はすでに風前の灯火。案ずるには及びませぬ」


司馬懿の脳裏には、割れた鏡の破片が、再び一つに繋がろうとする不気味な光景が浮かんでいた。

あの女は死ぬ間際、笑っていた。その笑みは、自分が死ぬことへの諦念ではなく、次の「器」を見つけた者の歓喜だったのではないか。

「あの女は……己の魂を、未来という名の濁流に放り出した。……いずれ、卑弥呼の名を継ぐ者が現れる。それは、この司馬氏が築き上げる『晋』の時代を、根底から揺るがす光となるだろう……」


司馬懿の口から、どろりとした黒い塊のような言葉が漏れ出す。

「その者が……後継者が現れたなら……躊躇ためらうな。あらゆる手段を使い、その芽を摘め。……さもなくば、我ら一族が築く秩序は、再びあの『幻』に飲み込まれることになる……」

「父上、それは予言なのですか。それとも、あなたの……」

司馬師の問いに、司馬懿は答えなかった。

ただ、彼の耳には、遠く東の海から届く波の音が聞こえていた。

『ようやく隣に来るのですね』


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