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クーデターの決断

洛陽・司馬府の静寂

西暦249年、洛陽。司馬懿の邸宅は、死の匂いに包まれていた。

かつて蜀の諸葛亮を震え上がらせた名軍師は、今や粥をこぼし、耳も聞こえぬふりをして、政敵・曹爽の目を欺く「老いぼれ」を演じていた。

だが、その日の夕刻、異変が起きる。

覚醒:東方からの光

「……お、大都督? いかがなされましたか」

傍らにいた息子の司馬師が息を呑む。

それまで虚空を見つめ、力なく震えていた司馬懿の瞳に、突如として鋭い光が宿ったからだ。

司馬懿の視線は、東の空を射抜いていた。

そこには、常人には見えぬ「巨大な星」が、血のような赤色を放って弾け飛ぶ様が見えていた。

「消えたか……。倭国の女王め」

その声は、数年ぶりに聞く、地を這うような冷徹な響きを取り戻していた。

司馬懿の回想:卑弥呼への畏怖

司馬懿は震える手で、懐から古びた小さな「鏡の破片」を取り出した。

かつて魏に使者が訪れた際、彼が密かに手に入れたものだ。

「諸葛孔明は、天の理を読み、術を操る男であった。だが卑弥呼……あの女は違う。天そのものを身に宿し、因果を歪める『鏡の器』であった」

彼は恐れていた。孔明の智略よりも、卑弥呼の「予言」を。

かつて彼女から贈られた秘密の託宣には、司馬一族の未来と、その後に訪れる「静寂(死)」が残酷なまでに書き記されていたからだ。


司馬懿は、ゆっくりと立ち上がった。支えもいらぬ。その背筋は剣のように鋭く伸びている。

「父上……もしや、ボケたふりはもう……」

司馬師の問いに、司馬懿は口角を歪めて笑った。

「女王が死んだ。私を縛っていた因果の鎖が、今、東の海へと消えたのだ」

彼は鏡の破片を床に叩きつけた。

「卑弥呼が私に言ったのだ。『あなたが幻を現実にする』とな。……よかろう。彼女が見ていた『濁流の終わり』、私がこの手で始めてやろうではないか」

司馬懿は、棚に置かれた重厚な剣を手に取った。

「師よ、昭よ。兵を集めろ。目標は高平陵。曹爽の首だ」

その瞳には、老いさらばえた姿は微塵もない。

卑弥呼という唯一の「畏怖すべき存在」が消えた今、この男を止める者は地上にはもう誰もいなかった。


洛陽・司馬府の奥室

司馬師と司馬昭の兄弟は、目の前の父の変貌に戦慄していた。

つい先ほどまで、粥を口からこぼし、着物さえ満足に着られなかった老人が、今は暗闇の中で獣のような眼光を放っている。

司馬懿は、自身の震える指先を凝視しながら、低く、湿った声で語り始めた。

卑弥呼の「眼」から逃れるために

「……師よ、昭よ。お前たちは、私が曹爽ごときを恐れて、この二年、泥を啜り、痴れ者を演じていたと思うか?」

司馬懿は自嘲気味に笑った。その笑いは、どこか怯えを含んでいる。

「あのような凡夫、殺そうと思えばいつでも殺せた。私が真に恐れていたのは……東の果て、波濤の向こう側から私を覗き込む、『あの女の眼』だ」

司馬懿は、自分のこめかみを強く指で叩いた。




「卑弥呼……。あの女は、ただの女王ではない。彼女が持つ鏡は、時を映し、海を越え、この洛陽の宮殿の奥深くまで光を届かせる。私が野心を抱けば、その瞬間に彼女の鏡に私の『未来』が映り、因果が捻じ曲げられるのだ」


「孔明は、私に計略を仕掛けてきた。だが卑弥呼は、私に『運命』を押し付けてきたのだ。かつて魏に使者が来た折、私はその眼を通じて予言を聞いた……。わが司馬一族が築く代が、どれほどの血に塗れ、どれほど短く潰えるかをな」

司馬懿は立ち上がり、暗い部屋の中を彷徨うように歩く。

「奴の眼に映っている間は、私は動けなかった。私が知者であればあるほど、野心家であればあるほど、奴の呪術の餌食となる。だから……私は『無』になるしかなかったのだ」

「意識を濁らせ、魂を泥に沈め、『もはや司馬仲達という人間は壊れ、利用価値も野心もない』と、東の海の女王に錯覚させる必要があった。 私は曹爽を欺いていたのではない。天を、そして卑弥呼を欺き、奴の監視の網から逃れようとしていたのだ」




窓の外、東の空から飛来した目に見えぬ「何か」が、司馬府の屋根を通り過ぎていった。

「今、奴の気配が消えた。鏡が割れ、器が砕ける音が聞こえた。……ようやく、あの女の眼が閉じたのだ。私を縛り付けていた、あの忌々しい神託という名の鎖が、今、断ち切られた!」

司馬懿は、かつて見せたことのない剥き出しの狂気を顔に浮かべ、息子たちを振り返った。

「卑弥呼は死んだ。もはや、私の行く末を覗き見る者はこの世にいない。私が何をなし、誰を殺そうと、それを予言する神も仏も、あの妖女もいないのだ!」

「……さあ、準備をせよ。これより、私が『現実』という名の地獄を描き込んでやる」

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