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06 重ねる

 今日予定していたプログラムが早く終わったからと、私は旭さんと研究所内の散歩をしていた。


「どこか行きたいところはある? といっても、研究所内限定だからだいぶ限られるけど……」


 そう聞かれて、ふと思考を巡らせる。


「……団欒(だんらん)スペースに行きたいです。旭さんさえよければ、またピアノを弾いて欲しいです」


 研究所の共用スペースのひとつ、団欒スペースには誰でも弾いていいアップライトピアノが置いてある。以前、一度だけ旭さんがそれを弾いてくれたことがあるのだ。


 優しくて穏やかで、だけど時々小さな遊び心が入った暖かさのある、まるで旭さんそのもののようなピアノの音色をまた聞きたいと思っていた。あれ以上に耳触りの良い音を私は知らない。


 そうやって人ではない私までもが惹きつけられてしまうその仕組みを理解したい。そのためにはやはり情報(データ)が必要だ。


 両手を組んで、目を見開いている旭さんをじっと見つめる。


「……愛ちゃんは、そんなに俺のピアノが聞きたいの?」

「聞きたいです。旭さんが想像している以上に聞きたいと思っています」

「そ……、そこまでなんだね。分かった、じゃあ行こうか」


 旭さんは私にくるりと背を向けて歩き出した。これは、弾いてくれるということで間違いないのだろうか。普段と比べて無理やり感情を抑え込んでいるようなその声と表情からは、どちらなのかを確信できない。


 ほんの少し力んでいる背中に声を投げる。


「あの、ピアノを弾いてくれるということで合っていますか……?」

「愛ちゃん……」


 旭さんはその場で足を止めて振り返った。


妹的存在(愛ちゃん)の頼みだよ? そこまで言われて、お兄さんが叶えないわけにはいかないよね。……曲のリクエストも受け付けるから」


 僅かに頬を染めて、はにかんで笑う旭さんはどこか嬉しそうだった。


「……ありがとうございます」


 その真似をして私も口角を少し上げてみる。

 「行こうか」と歩き出した旭さんを追いかけて、団欒スペースへと向かった。




 ソファーと椅子、机、そしてアップライトピアノが置かれている、定員15人ほどの団欒スペースには先客がいた。この時間帯に人がいるなんて珍しい。それも、博士がいるなんて何かあったのではないかと疑ってしまう。


 半年間(今まで)、博士が団欒スペースを利用しているところは一度も見たことがない。


「博士が誰かを呼びにくる以外でここにいるなんて、珍しいね」


 小声で話しかけてきた旭さんも、椅子に座って机の上に手を置いている博士へと不思議そうな視線を送っている。


「そうですね。博士、何かをじっと見ているようですが……」

「話しかけてみる?」

「いいんですかね?」

「いいと思うよ。だってここ、公共スペースだし」


 暗に、「話しかけられたくなかったらここにはいない」と言った旭さんは博士へと近づく。


 それに倣って私も近づいてみると、愛しそうな、それでいて泣きそうな表情をしている博士が目に入った。やはりその視線は手元に向けられている。私たちには気づいていないようだった。


「あのー、博士ー? ……聞こえてますか?」


 旭さんの言葉にも、何の反応も返さない。


「これは、……思考の海にどっぷり浸かっている状態だね」


 微動だにしない博士を横に、二人で顔を見合わせて苦笑する。


「まあそのうち戻ってくるよ。というわけで愛ちゃん、何か曲のリクエストはある?」

「この前の時、一番最後に弾いていた曲をお願いできますか?」


 すると、背を向けた方向からがたりと物音がした。振り返ると立ち上がった博士が呆然と私を見ている。


「……愛?」


 ひらりと博士の手から落ちたものが、私の足元に着地した。

 「落ちましたよ」と拾ったその写真には、楽しそうに笑う見覚えのある少女が写っている。長い黒髪と灰色の瞳の15、6歳くらいの少女は、毎朝、鏡で見る自分にそっくりだった。


「…………私?」


 否、私ではない。


 この写真を撮られた覚えもなければ、この赤いジャンパースカートだって着たことはない。背景に写っている街や色付く木々たちは研究所内のものではないのだから。

 造られてからおよそ半年、私はこの研究所から出たことはない。そして紅葉の季節はこれからだ。


 それに何より……AIoid(わたし)はこの子のように、心の底からの自然な笑みを浮かべることはできない。


「愛……」


 私の名前を呼んだ博士の灰色の瞳は、迷うように揺れていた。


「その写真だが……」


 そして同時に、私を見てはいなかった。




 ——……博士が見ているのは、この子であって私ではない。

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