05 誰か
「愛ちゃんおはよー、早いね?」
「目が覚めたので。おはようございます」
黒いスウェット姿の旭さんにいつもより少し早めの朝の挨拶をしたのは、共用スペースの洗面台の前でのことだった。
ここで生活し始めてから半年と少し、私は、一人でも研究所の中を歩くようになった。
きっかけは本当に偶然。旭さんが私から離れてどうしても行かなければいけない用事ができた時、一人でも歩き回って良いかと聞いたのが始まりである。自分の部屋にこもって過ごすのも悪くはないが、やることの選択肢が限られるのは惜しいと考えたのだ。私はたくさんのことを体験して、より多くのことを学びたいから。
食堂や団欒スペース、中庭など所員が共用で使っている場所になら行っても良い。それ以外の部屋に行きたい場合は誰かと一緒に行くこと。
これが一人で歩く条件だった。
「目が覚めるとはまた珍しいね。何か思い当たることとか、その辺りちょっと聞かせてくれる?」
旭さんは白衣を羽織るどころかまだパジャマ姿なのだけど、早速、研究モードに入ったらしい。
半年が経って気づいたことがある。研究員の中でも旭さんはオールラウンダー的存在だ。それは研究に関わるような内容から日々のコミュニケーションまで、知識も興味も幅広い。
そんな旭さんが持つ顔のひとつで、私が研究モードと呼んでいるこの姿は一種のスイッチが入った状態のようだ。
その状態と寝起きだと言わんばかりの服装が、どうにも食い違って見える。人の第一印象の約半分は視覚情報で決まるというのはこういうことなのかもしれない。
「……愛ちゃん?」
「すみません。パジャマ姿の旭さんが珍しくて、つい考え事をしていました」
「言われてみれば確かに珍しいかも。……ということはもしかして、愛ちゃんの中で俺は白衣のイメージがあったりするのかな?」
「それは旭さんだけではないですよ? 博士も、研究員のみなさんも白衣のイメージです」
「それもそうだね」と呟いた旭さんは、すでに研究モードからは離れていた。
顔を洗ったり着替えたりして、私の部屋で旭さんと再び顔を合わせる。
「改めて、おはよう愛ちゃん」
「はい、おはようございます」
白衣を着たその姿はすっかりいつもの旭さんだ。差し出された体温計のスイッチを入れて脇に挟むと、もはやルーティーンと化したヒアリングが始まる。
「今日の質問だけど、いつもより早く目が覚めて、起きる選択をしたのはどうして?」
先ほど答えそびれたものだ。
目が覚めた明確な理由は分からないけど、私なりに仮説を立てていることがある。
「おそらく、ここ数日早く寝ることが多かったからではないかと思います。それで、睡眠が足りていたから目覚めたのではないかと」
「確かに、最近は9時間以上寝ている日が多いみたいだね」
タブレットを確認して答えた旭さんは続ける。
「これ以上は休まなくていいよって愛ちゃんの体が言ってるのかもね」
「はい。……起きる選択をした理由ですが、完全に覚醒していたのにベッドで横になっているのは時間の無駄だと考えたからです」
そう言ったら、旭さんはどうしてか視線をうろうろと動かし始めた。今の言葉にそこまで動揺するとはどういうことなのだろう。
「……旭さん?」
「いや、その……俺、目が覚めてもしばらくはベッドでごろごろしてる時があるから……。『時間の無駄』っていうのに勝手ながら衝撃を受けてました」
少々早口かつ敬語で言った旭さんは、一度深呼吸をしたら落ち着いたらしい。すると、ちょうど体温計の電子音が鳴った。
「えーっと、35.6度ね。だるいとか、ぼんやりするとか、寒いとか何か不調を感じたりはしない?」
「特にないです」
「おーけー。それじゃあ、朝ごはん食べに行こっか」
旭さんとやってきた食堂は研究員で賑わっている。味噌汁とご飯と焼き鮭と納豆。それを乗せたトレーを持って、私たちは席を探していた。
「あ、博士だ」
その言葉が向けられた先に視線を動かすと、ご飯を口に運ぶ博士の姿があった。
「相席いいか聞いてみるね」
「お願いします」
あいにく、他の席は埋まっている。こういう時は旭さんが知り合いに相席を頼んでくれるが、今日はその「知り合い」というのを博士にしたらしい。
「博士、おはようございます。愛ちゃんと一緒に相席いいですか?」
「……ああ、おはよう」
博士は向かい合う席をそれぞれ差してくれた。これは良いということだろうと、旭さんと共にお礼を言って席に着く。
「いただきます」と味噌汁から順に食べ始めると向かいの席から視線を感じる。ちらりと様子を窺った博士は、私の方を見て苦しそうに小さく笑っていた。
時折、博士はそんな表情をする。私を見て何かを懐かしむような表情を。
私の一番の記憶に映る、くしゃりと顔を歪めた泣き笑いの博士。その時ほど感情をあらわにしているわけではないけど、同じ類のものだと思う。
きっと博士は私に記憶を……、誰かを重ねているのだ。
だけどそれと同時に、私から距離を置こうとしている。目を逸らされる回数が増えたあの時から、それは今までずっと変わらない。




