03 休止 Side:斑目旭
いつものようにぬっと現れた博士は、突然、愛ちゃんの視界を奪って休止の命令を実行した。
今さっきまで会話をしていた愛ちゃんが崩れ落ちるようにして動かなくなる。博士に抱えられて身じろぎもしない愛ちゃんは、恐ろしいほどに「人」ではなかった。
「……は、かせ」
口から溢れた自分の声は掠れていた。
「故障の可能性があった。考えさせるのは良いが、やり過ぎないよう気をつけてくれ」
そう言われて初めて、さっき触れた愛ちゃんの頭がいつもより熱を持っていたことに気づいた。博士が来ず、あのまま休止をしなければ、愛ちゃんは故障——記憶を無くしていたかもしれない。
十分あり得た未来に、改めて突きつけられた事実に、気づけなかった自分に……。恐怖と怒りがない混ぜになって、手と顔から血の気が引いていく。早鐘を鳴らす心臓だけが変にうるさく聞こえた。
「……この愛は、AIoidだ」
博士はぽつりと呟く。それはまるで、愛ちゃんへ近づき過ぎないようにすると自分自身に言い聞かせているようだった。
その顔色は俺よりも悪いんじゃないかと思うほどで、愛ちゃんを抱えている手は微かに震えている。
さっきの状態だと休止が最適解であることは確かで、それは博士にしかできなくて……。……娘と瓜二つの愛ちゃんを休止させるのは、俺の思う以上に辛いものがあったはず。
しっかりしろ、斑目旭。
「博士、代わります」
「……ああ」
そっと抱き取った愛ちゃんの体はまだ少し熱を持っていた。見た目も人のようで、言動も人のよう。それでも、「心」を持っていない愛ちゃんはやはり人ではない。
固く閉じられた瞼と一時的に止まっている呼吸が、それを忘れるなと告げてくる。
「ひとまず、博士の研究室に連れて行けば良いですか?」
「……ああ」
博士が識別カードをかざすと研究室のドアは開いた。他の部屋と同じように白で統一されたこの部屋は、ものが定位置に収まっていてきっちりと整理整頓がなされている。
だけどその中でも、愛ちゃんをちょうど寝かせられるくらいの実験台の周りだけはお世辞にも整っているとは言えない。広めのデスクには走り書きのメモが散らばっており、いくつものディスプレイが並んでいる。
「愛をここに」
示されたのは案の定その実験台の上だった。そっと寝かせると、博士がディスプレイを起動する。画面に現れたキーボードを操作して、愛ちゃんの維持管理を始めた。
この感じだと俺は手伝わない方が良さそうだ。無理に手伝おうとすれば却って邪魔になってしまうだろうから。
時間的、物理的に複数人が必要な場合は助手役をするけど、それ以外では、俺たちは手を出さないのが暗黙の了解となっている。そのくらい集中した博士は仕事が早くて正確なのだ。
博士が集中モードへと入り切る前に、デスクのメモを整理する許可だけもらっておこう。
「デスクの整理をしても良いですか?」
「……ああ」
確認するのが少し遅かったか。この返事だともう、聞こえているけど聞こえていない状態だ。
まあ、一応許可をもらったから……問題はないだろう。
モノクルの向こうで鋭く光る灰色の瞳を横目に、俺は散らばったメモの整理を始めた。
同じ系統のメモをまとめて、また散らばるメモに手を伸ばしてを繰り返していると、白い紙の中にぽつんと色付く1枚の写真を見つける。
まだ黒髪だった頃の博士と、5年前に亡くなった博士の奥さん、そして……背の真ん中あたりまでの黒髪と博士譲りの灰色の瞳をした15、6歳くらいの女の子が写っている。3人とも屈託のない笑顔を浮かべていて、まさに「幸せな家族」の写真だ。
この女の子は浮かべている表情こそ違うが、まるで愛ちゃんの生き写し。……いや、愛ちゃんの方こそが女の子——八条愛さんをモデルに造られたのだ。似ていて当然、似ていて必然だ。
「……斑目」
その声にはっと顔を上げると、博士に手招きをされる。何でもないようにその写真を置いて指示通りにディスプレイの前へと移動した。
現れたキーボードを操作していると、博士は画面に視線を向けたまま言う。
「……顛末書は今日中に提出するように」
「承知しました」
日々のレポートはやっと書き慣れてきたけど、正直まだ文書作成は苦手だ。だけど今回のことは気づけなかった俺に責任がある。きっちりと書き上げて謝罪と共に提出しよう。もちろん、毎日の愛ちゃん記録レポートも忘れずに。
愛ちゃんが目覚めた時に、笑顔でおはようと言えるよう準備をしなければ。
そんなことを考えながら、愛ちゃんの維持管理に意識を向けた。




