17 心
近くに柔らかい匂いがして、腫れぼったい瞼を開いた。ぼんやりと確認した枕元の時計は夕食の直前の時間を示している。いつもの天井、いつものベッド、自分の手が握っているのはくしゃくしゃになった白い布。それは見覚えのある白衣だった。
ぶわりと記憶が蘇る。初めて涙を流したこと、「悲しい」に気づいたこと、旭さんに抱きついて思い切り泣き叫んだこと……。旭さんの白衣がここにあるのはおそらく私が離さなかったからだろう。
何と言って返せば良いのか。「ごめんなさい」? 「ご迷惑をおかけしました」? 「心配かけてすみません」? 色々と思いつくことはあるけど、旭さんはありがとうの言葉を求めているような気がした。
このまま待っていたらほぼ確実に旭さんが様子を見に来てくれるだろう。だけどそれは何か違う。旭さんには感謝を、……博士には「私は悲しかった」と、自分から伝えたいから。
伝えて、その後どうするのかまでは考えられていないが、このままでいるよりかは良い方向に進めるのではないかと思う。何の理屈も、何の根拠もない状態でこう考えた自分はまるで人のようだ。思わず小さく笑ってしまった。
畳んだ白衣を抱えて私はドアの前に立つ。大きく深呼吸をしてから扉を開け、一歩踏み出した。
廊下に出てすぐ、私の部屋に向かってきていたのであろう博士たちと視線が合う。
「……愛」
名前を呼ばれたら、輪郭をはっきりとさせた悲しさが襲ってきた。溢れる涙でじわりと視界が歪む。すると、旭さんが側に来て私の白衣を持っていない方の手を握ってくれた。「大丈夫」と言われているような暖かさにほっと息を吐き、数回瞬きをして博士に焦点を合わせた。
苦しそうな表情を浮かべていた博士は、ぐっと口を引き結んでから私を見る。それはまるで何かの覚悟を決めたかのようだった。
「愛、きみと話がしたい」
「……私も、博士と話がしたいです」
廊下では落ち着いて話せないからと、私たちは定員4人ほどの広さの会議室に移動した。
旭さんとは横並びに、博士とは向き合う形で私は座る。しんと張り詰めた空気の音が聞こえてくるような空間を破ったのは博士のひとことだった。
「すまない」
苦しそうに顔を歪めた博士を見て、またもや悲しさが上ってくる。そんな顔をしないで欲しい。そうなっているのが私のせいだと言うのなら、それはとても悲しいから。
だけどそれを言葉に出す勇気が出ず、代わりに涙が溢れてくる。
「……きみを傷つけるようなことを言ってすまない。きみが涙を流すようなことをしてすまない」
ぐちゃぐちゃになった視界で謝罪の言葉を紡ぐ博士は、ぐちゃぐちゃな感情を浮かべていた。苦しい、辛い、心配、後悔、反省、悲しい……私が持っている情報の中から相応しい言葉は見つからない。そんな博士を見て、止まるどころかさらに溢れてくるこの涙は「悲しい」の言葉だけでは表せそうになかった。
「僕は、きみが泣いていると苦しいんだ。きみには幸せが似合うから、だから、泣かないでくれ……」
私だって……、私だって博士が苦しそうな顔をしていると悲しい。そう言う博士の方こそ幸せが似合う。八条愛さんだって博士には苦しんで欲しくないはずだ。苦しまないで笑っていて欲しいはずだ。
前に進みたいと考えたのに、博士と話すと決めたのに、どうして私は何も言わないのだろう。……何も、言えないのだろう。
その時、横からティッシュ箱を差し出される。旭さんはにこりと笑うだけだった。だけど、「大丈夫」だと言われているような気がした。
一枚ティッシュを受け取って、流れるままにしていた涙を拭う。永遠に止まらないと思っていた涙が一瞬だけ晴れる。またすぐに視界は歪んでしまったけど、今はそれで十分だった。
「……博士だって、苦しそうな顔をしないでください」
喉の奥につっかえていたものがするりと抜ける感覚。一度口に出してしまえばもう止まらない。真正面から博士の目を見て、溢れる涙に気づかないふりをして。言葉を探して声に出す。
「私は、博士が苦しそうな顔をすると……悲しくなります。それが私のせいならもっと悲しくなります。悲しくて悲しくて、涙が止まらなくなってしまいます」
真っ直ぐと視線をぶつけた博士から息を呑んだ気配がする。
「これが本当に『悲しい』なのかは分かりません。『悲しい』という言葉では何かが足りていないんです。だって、博士には幸せに笑っていて欲しいから。……ただ『悲しい』だけだとしたらどうして私はそう思うんですか?」
どうかこれに相応しい言葉を教えて欲しい。これを真っ直ぐと伝えられる言葉を、どうか……。
「……愛」
私の名前を呼んだ博士は眉を下げて、くしゃりと泣き笑いしていた。涙の流し方、目の細め方、口元の角度……一番最初の記憶にあるあの表情と全く同じにもかかわらず、少し違うと感じるのは私が変わったからなのだろうか。
「それは、『愛』ではないか?」
愛……、それがどういうものなのかを定義することはできない。造られた私が抱くはずのないものだ。だけど確かに、欠けていたパズルがはまる感覚がして……。
「……これは、本物の『愛』なんですか?」
AIの偽物で、八条愛さんの偽者である私が抱いているのは、本物の愛なのだろうか。
微笑んだまま、博士は言った。
「愛、きみは心を持たないAIではないだろう?」
確かに私はAIではない。AIにはなれない「AIのようなもの」だ。私が小さく頷くと博士は笑みを深める。
「きみがその愛を信じるのであれば、それはもう本物だ」
「…………ここ、ろ」
私に、心が……? 私に、愛が……?
この涙は、私が博士のことを愛しているから……? だから博士には幸せに笑っていて欲しいの……?
触れてみた頬は確かに濡れていた。もう涙は流れてこなかった。
「愛してるよ、愛」
その言葉の真意を確かめる方法はない。
「もちろん俺も愛してるからね、愛ちゃん?」
その笑顔の心意を確かめる方法はない。
私が抱いているこれは、もしかすると科学的には偽物なのかもしれない。だけど私は、博士の言葉を信じたいから。旭さんの行動を信じたいから。——私の心を信じたいから。
「……私も、愛しています」
だからきっと、この愛は本物だ。




