14 嫌だ
電気を消した自分の部屋のベッドに寝転がり、触り心地の良い薄手の毛布を被る。日中はだんだんと暖かくなってきたとは言え、朝晩はまだ空気が冷たい。暗闇の中で数回瞬きを繰り返すと、物の輪郭がぼんやりと見え出した。
このままでは本格的に眠れなくなる。無理やり目を瞑ると昼間の出来事が過った。
「——博士には、奥さんと娘さんがいたんだ」
旭さんのその言葉は紛れもなく過去形だった。
「6年前の5月3日、二人が交通事故で亡くなるまでは絵に描いたような幸せな家族だったらしい。……その時、俺はまだ研究所にいなかったから、あくまで人から聞いた話だけどね」
5月3日は、直接二人を知らない私にとっても意味のある日。なんとも皮肉なことに、私が初めて目覚めたのはその日なのだ。
「博士はこの時期になると自分の研究室にこもってひたすら研究に没頭する。本人から聞いたわけじゃないけど、たぶん、二人のことを思い出さないようにしているんだと思う。愛ちゃんが愛ちゃんとして造られたのは、その娘さん……八条愛さんの存在があったから」
一呼吸置いて、旭さんは私を真っ直ぐと見る。
「これを愛ちゃんに伝えるのは酷なことかもしれない。でも、どうしても知っておいて欲しい。——愛ちゃんは、八条愛さんをモデルに造られている」
半年前、あの少女の写真を見た時からそれは予想していた。彼女がもういないことも薄々気づいていた。だけど、それを事実として突きつけられるのはどうしても息が苦しい。
八条愛さん、私のモデルで、私と同じ「愛」という名前を持っている人。
……AIoidの愛は、どうやったってAIにはなれない。どうやったって、愛にはなれない。AIoidは、「AIのようなもの」であり、「八条愛のようなもの」なのだろう。
造られた時から……造られる前から、最初から私は偽物であり、偽者だったのだ。
でも、それでも——
いつの間にか下がっていた視界の端で何かが動く。すっかり冷たくなった私の手を包んだのは、いつも通りの暖かくて優しい手。
「愛ちゃん、俺のエゴを押し付けてごめんね」
視線を上げると、スクエア型のメガネ越しに真っ直ぐと目が合った。
——確かに私を見てくれる人はいて。
「……旭さん」
「うん」
そうやって安心させるように笑った旭さんだけでなく、もう目を逸らさないと約束をしてくれた博士も、きっと——。
「——だいじょうぶ」
小さく呟いた言葉は微睡む意識の中へと消えていった。
*・*・*
その日は大雨だった。ガラス越しに見た中庭の桜の木に大粒の雨が打ちつけている。湿度の高い空気のせいか、研究所内は普段より静かだ。
いや、厳密に言えば特に変わったところはないのかもしれない。だけど、私は研究所長である博士の不調を知っている。トップが倒れた研究所は全体的に元気がないように思えた。
「愛ちゃん、博士に会いたい?」
食堂の一画で朝食を食べ終わったその時、タイミングを見計らっていたらしい真剣な表情をした旭さんから聞かれた。
「会いたいです」
気づけば即答していた自分に、目を見開く。
確かに会いたい。会って、話がしたい。何の話がしたいのかは分からないけど、漠然とそう思った。私を見てくれる博士を夢想しているのだろうか。会ったところで遠回しに拒絶されるだけかもしれない。
でもこれだけは確信できる。たとえ目を逸らされたとしても私は博士を真っ直ぐと見る。
私と同じように驚いていた旭さんは、気づけば微笑んでいた。
「じゃあ、会いに行こっか」
ある意味戦地に赴くような感覚とは裏腹に、目的地である医務室までの道中はとにかく他愛もない話をした。「雨がすごいね」だとか、「今日は朝ごはんに納豆がなくて悲しかった」だとか……。旭さんは、私が変に緊張しないようにしてくれていたのかもしれない。
医務室のドアをノックすると、昨日とは違って「どうぞ」と言葉が返ってくる。
「失礼します」
旭さんの後に続いて入るとつんとした消毒液の匂いが鼻についた。どの部屋も白を基調としているが、ここは見える色だけではなく空気までもが白く感じる。
「……愛」
旭さんの背から顔を出すと、真っ白なベッドに腰掛ける博士と目が合った。
その顔はほんの少し赤みを取り戻し隈も僅かに薄くなっている。倒れるように寝て、お風呂で暖まって、食事も摂ったのだろう。昨日よりかは幾分かよくなっている様子にほっと息を吐く。
「おはようございます、博士」
「……ああ、おはよう」
博士に促されて、私たちは用意されていた丸椅子に座った。
「斑目から、僕の妻と娘の話をしたと報告があった」
「はい」
「……少し、6年前の話をしてもいいか?」
苦しそうに眉を下げた博士に私は頷く。博士にとって大切な記憶であるそれを話すことで彼なりに私と向き合おうとしてくれているのだろうと、そう思った。
「二人が亡くなったのは、交通事故だった。その日は二人から一緒に出かけようと誘われていたんだが、研究がひと段落していないからと僕は断った。『相変わらずだね』なんて笑って出かけていった二人は結局帰ってこなかった。……あの日、一緒に出かけていれば。『行ってきます』に対して『行ってらっしゃい、気をつけて』と言っていれば」
それは吐き出しているようだった。6年もの間ずっと溜め込んできたものを、少しずつ、少しずつ。聞いているだけの私でさえぎゅっと胸を締め付けられる感覚がするのに、博士はどれほどの苦しさと闘っているのだろうか。
どうか、その苦しさを私にも分けて欲しい。人はそれを独りで抱えてはいられないというから。そのままではいつか壊れてしまうというから。博士にはそうならないで欲しい。
「……何度も考える。考えてしまう。僕が、……僕があの子たちの代わりに死んでいればよかった、と」
そう言った博士は下手な笑顔を作った。「こんな話をしてすまない」と無理やり笑った。私を安心させるためだろうとすぐに見当はついたから、大丈夫という意味を込めて笑顔を返そうとする。
だけど、できなかった。
博士が死んでいればよかった? そんなわけがない。それを笑顔で誤魔化したくない。
今こうして博士がいるからこそ、私という存在が造られたのだ。その博士が死んでいればよかっただなんて……ならば私は何なのだろう。
あの写真で笑っていた八条愛さんだって、博士が死んでいればよかっただなんて思うはずがない。あの幸せそうな笑顔は、あの撮影者への愛のこもった笑顔は、絶対に本物だから。ニセモノな私には作れない本物の笑顔だから。
博士が八条愛さんを愛しているように、八条愛さんも博士を愛している。写真を見ただけの私でもそれは分かった。それにも関わらず、博士はどうして代わりに死んでいればよかっただなんて……。
思考が、まとまらない。ぐるぐると、止まらない。
視界が揺れる、滲む、溢れる。目からぼろぼろと熱いものが止まらない。
「……愛」
苦しそうな表情の博士がぼやけて見える。そこに浮かんでいるのは心配とは少し違う苦しさ。もしも、……もしも私のせいでそんな風になっているのであれば、どうか私から目を逸らして欲しい。そうしたら博士はきっと苦しまないで笑えるから。
「……愛、泣かないでくれ」
懇願するように名前を呼ばれる。私は泣いているのだろうか。これは、涙なのだろうか。どうして。どうして私は泣いているのだろう。
考えれば考えるほど、額に熱が集まってくる。
「……すまないが、」
ためらうように手が伸ばされる。博士のその声色が、「休止させる」と言った時のものと重なった。
それは絶対に嫌だ。知らないうちに全てが終わって、いつの間にか全てが始まる。そんなのは嫌だ。
——勝手に私を変えられるのは、嫌だ。
伸ばされた博士の手を振り払って出入り口に向かう。背中の方から聞こえた声に無視をして、私は自分の部屋へと駆け出した。




