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13 大丈夫

「愛ちゃん、少し頼み事をしてもいい……?」


 研究所で生活し始めてからもうすぐ1年。葛藤のようなものが見え隠れしている旭さんからそう聞かれたのは、朝のヒアリングと体調チェックが終わった直後だった。


「何ですか?」


 彼がここまで悩むことといえば、ここ数日全く顔を見ていない博士のことだろうか。何かあったのではないかと気になってはいたが、私が聞いて良いことなのかが分からず結局聞けていなかった。


 まだその話と確定したわけでもないのに、博士に何かあったのではないかと勘繰ってしまう。

 「実はね」と口を開いた旭さんの言葉を聞き逃さないよう、私は意識を集中させた。


「最近、博士が研究室から出てこなくて……。朝昼晩関係なく、ずっとこもりっきりなんだよね」

「……だから博士を見かけなかったんですね?」

「そういうこと。博士にはそろそろ出てきてもらわないとさすがにまずい。俺たちはダメだったけど、もしかすると愛ちゃんの言葉なら出てきてくれるかもしれないって考えた。だから、博士を引っ張り出すのに協力してくれない?」


 それはもちろん協力する。なんならぜひ協力したいまである。一日に一度は顔を合わせていた博士と全く会えないのは、どうにも落ち着かない。食堂では無意識のうちにその姿を探してしまうし、旭さんと話をしていてもふとした瞬間に博士の顔を思い出してしまう。だけど、旭さんに博士の話は聞けずじまいで……。


 どうするべきかと考えていたところに今の話だ。私はすぐに引き受ける旨の返事をした。




 旭さんに連れられてやってきたのは、およそ1年前に私が初めて目覚めた研究室のドアの前。予想していた通り、旭さんがノックをしても返事はない。


「愛ちゃん、お願いしていい?」


 その言葉に頷き、私はドアの前の旭さんと位置を交代する。いきなり声をかけるのも(はばか)られたからまずノックをしてみた。


「……博士、一緒に朝食を食べませんか?」


 すると、ガタガタと何かが落ちるような音と慌ただしい足音が近づいてくる。


 すぐに開いたドアから出てきた博士は、ロマンスグレーの癖毛を見事に爆発させていた。少しよれた白衣と相まって一番最初の記憶(ストレージ)と重なる。あの時ほどではないが、今の博士も十分に疲れて見えた。


 目の下には濃い隈があり、数日前に顔を合わせた時と比べて明らかにやつれている。顔色が悪く、どこか目の焦点がずれている博士は、今にも倒れてしまいそうだ。

 ここ数日、食事と睡眠をまともに摂っていないのではないか。その予想はきっと間違っていない。


「……あ、い」


 掠れた声で呟いた博士は私を()()ことなく、ふらりと、本当に倒れた。


「博士……!?」


 手を伸ばしたまではよかった。問題は博士を受け止めきれなかったこと。ドミノのように傾く体、来たる衝撃に備えて目を瞑る。

 だけど、いざやってきたものは、想像していたものとは違った暖かさだった。


「……あっぶない危ない」


 下から聞こえてきた旭さんの声は、まるでこの状況を受け止めようと自分自身に言い聞かせているようだ。その証拠に、旭さんの心臓はばくばくと早鐘を打っている。下敷きにしているこの体勢ではそれがよく分かった。


 意識のない博士と旭さんに挟まれて動けなくなっていると、ようやく状況を理解したらしい旭さんが博士を動かしてその場に寝かせてくれた。そして、ふぅ、と息を吐いて私に視線を向けてくる。


「……愛ちゃん、大丈夫?」


 大丈夫……で在れたなら、どんなに良いのだろうか。


 博士が食事を摂っていなかった。博士が眠っていなかった。博士が、……倒れた。事実を事実として認識し始めたら、顔から血の気の引く感覚がした。自分の心臓(ハート)の音が嫌に大きく聞こえる。ただでさえ冷たい手から暖かさが失われていく。


「ごめん、聞き方が悪かった」


 そんな声が聞こえたと思ったら、頭にぽんと手が乗った。


「旭さん……」

「急にこんなことになって大丈夫なわけがないよね」


 大丈夫で在れたなら、大丈夫と言えたなら、こうやって旭さんに心配をかけることもなかったのかもしれない。そう考えたら、否定の言葉も肯定の言葉も、何も言えなくなった。


 旭さんは、私の無言をそのまま受け取ってくれた。


「後で話したいことがあるんだけど、聞いてくれる?」


 きっとそれは、博士がこうなっていることに関わりのある話だ。聞きたくないと言えば旭さんはその通りにしてくれるのだろう。だけど、最初からその選択肢は存在しない。


 半年前、博士は私と向き合ってくれた。真っ直ぐと私を見て、もう目を逸らさないと約束してくれた。今度は私が博士と向き合わなければいけない。


 だから、その言葉に小さく頷いた。

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