10 ハードル
最近、気になっていることがある。それは、10ヶ月前に一度だけ博士から聞いた「サボる」ということだ。
別に毎日のプログラムが嫌になったわけではない。むしろ率先して参加している。だけど、サボるということをしてみたくなった。
一人で研究所内を散歩している時、名前も知らない研究員が「楽しいけどサボりたい」と話していたのだ。どういうことなのかと突撃して聞いてみたら、曰く、時々無性に全てを投げ出したくなることがあるらしい。その手段のひとつとしてあるのがサボるということなのだ、と。
私にその感覚はよく分からなかった。たとえサボったとしても、それはあくまで一時的な結果に過ぎない。むしろその後、サボった分だけ怒られたりやることが溜まったりするだろうから、悪い点の方が大きいと思う。
それでもサボるという選択をするのはどうしてなのか。
「——ちゃん、愛ちゃーん」
はっと顔を上げると、不思議そうな表情をした旭さんと目が合った。
「どうしたの? 愛ちゃんがぼんやりするなんて珍しいね?」
白い机に白い椅子、前に置いてあるホワイトボードには「『心理的ハードル』について」と書かれている。今はプログラム中だ。旭さんの話を聞き逃すなんて、私はどれだけサボるということに興味を引かれているのか。自分に呆れて苦笑いが出てくる。
「少し、考え事に気を取られていました」
「考え事かー。……こっそりお兄さんに教えてくれない?」
いたずらっぽく笑った旭さんにもさすがにこれは言えない。もっと言えないのは博士だろう。サボるなんて言葉、仕事は研究、趣味は研究、毎日が研究な博士からは一番遠いように思える。時折、寝食を忘れて没頭して、私が声をかけてようやく時間を思い出すことだってあるのだから。
それに、サボることに興味があると言ったらサボれなくなるような予感がする。日々私と向き合ってくれる二人への後ろめたさに勝てなくなるだろう。だから——。
「秘密でお願いします」
「そっか。というか、愛ちゃんから初めて秘密って言葉を聞いたよ?」
「確かにそうかもしれないですね。初めての隠し事、ですかね」
唇の前に人差し指を置いて、内緒のポーズをして微笑んでみる。すると旭さんは軽く目を見開いて固まった。
「……あの?」
「ごめんごめん、何でもないよー。ところでその秘密、何かヒントとかない?」
「当てたいということですか?」
「というよりかは、愛ちゃんの秘密を暴きたい悪魔的俺と、せっかくの秘密は秘密にしておきたい天使的俺が戦った結果、かな……」
つまりは折衷案ということらしい。それならば、ささやかなヒントを考えてみよう。
「では、ひとつだけヒントを出しますね。……言うのにも、実行するのにも心理的ハードルがあることを考えていました」
サボることに興味があると言った後の二人の反応が読めなければ、実際にサボった後の二人の反応も読めない。これは心理的ハードルと言っても過言ではないはずだ。
「なるほどね……? しかし、愛ちゃんが感じる心理的ハードルかー」
旭さんはホワイトボードにマーカーペンで、「GOAL」という文字と女の子——おそらく私、そして、その間に高い壁を描いていく。「心理的ハードル」という言葉を表しているのだろう。
「愛ちゃんが感じているものがどんなのかは分からないけど、プログラムの話の続きに戻るね」
旭さんはまた別のところに、おそらく私な女の子と2つの四角を描いた。
「人とはまあ不思議なもので、中身が同じ箱でもそこに入っているものを知っているか否かで、手を突っ込むかどうかが変わる。りんごが入ってるって言われたら遠慮なく手を突っ込むし、何が入っているのか分からないって言われたら躊躇する」
四角の片方にはりんごの絵を描いて、もう片方にはクエスチョンマークを描いた旭さんは、「これはね」と付け加える。
「人が生き残るための本能的な行動なんだけどね。知らないこととか予測できないことよりも、知っていることとか予測できることの方が確実に安全だから。……心理的ハードルを感じる原因のひとつにもこれがあるんじゃないかな」
「原因のひとつということは、他にもあるということですよね?」
「そうだね。失敗が怖いとか、人からどう思われるのかが不安だとか……、考えられるのは色々あるよ。だから一概には言えないし、それこそ複数の原因が絡まり合っていることだってある」
てっきり原因はひとつだけだと思っていた。私のサボるということへの心理的ハードルも複数の原因が絡み合っているのだろうか。その中にはきっと、旭さんと博士からどう思われるのかが分からないという不安がある。
そう考えると、不安が興味よりも勝っている私が実際にサボる日は来ないような気がする。
だけど、そんな考えは旭さんの次のひとことであっけなく散った。
「個人的に思うのは、よっぽど危険とかではない限りやってみた方がいいというところだけど。……ほら、やってみないと分からないことってあるからさ」
旭さんがそう言うのであれば、実際にサボってみようか。おそらく、いや確実に、今の言葉を放った旭さんであれば苦笑いされるくらいで済むはずだ。
一番引っかかっていたことの半分が予測できてしまった。ここまで低くなったハードルであれば、サボることに対する興味で簡単に飛び越えられる。
旭さんには申し訳ないが、明日のプログラムはサボってしまおう。
……そう決意した後、集中が途切れ途切れになっていたことはバレなかっただろうか。




