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「……おはよう、愛」

「……おはようございます、博士」


 旭さんのおかげで2日ぶりに快眠だった朝、私は食堂にて博士の正面に座っていた。テーブルには朝食のご飯と味噌汁、卵焼き、納豆の乗ったトレーが3つ置かれている。私と博士と旭さんの分だ。


 朝のヒアリングと健康チェックをするためにやってきた旭さんへ、「博士と話がしたい」と言ったすぐ後が今の状況である。話したいと思っていたのは私だけではなかったらしい。こんなにも早く実現するだなんて予測していなかったから、何を話すべきなのかまだ考えられていない。


「2人とも、食べないんですか? 冷めますよ?」


 お互いの出方を窺うがあまり、睨み合いのような雰囲気になっている私たちとは裏腹に、旭さんはぐるぐると納豆をかき混ぜていた。


 せっかくの温かい食事だ。冷める前に食べた方が、体が温まって良いのは分かる。だけど、博士がまだ手を付けていないのだ。この状況で私が食べ始めるのは少し違う。


 ちらりと博士に視線を向けると、びくりと小さく肩を揺らしながらも私を見てくれた。……目を、逸らされなかった。

 旭さんから小突かれた博士は、深呼吸をして口を開く。


「……愛」

「……はい」

「……食べないか?」


 そう言って浮かべたのは不器用な笑み。私が知るところはもちろん、知らないところでも、博士は笑うことが少ないのだろう。それでもこうして笑みを浮かべたのはきっと、私を安心させようとしているから。


 それに気づいたら、ふっと体から余計な力が抜けた。私が「いただきます」と手を合わせると、博士は小さく息を吐いて「ああ」と自然体で笑う。


 博士も食べ始め、またしばらく無言の時間が続く。だけど、先ほどまでのような張り詰めた空気はなく、静けさと穏やかさという言葉がぴったりな雰囲気だった。




 先に食べ終わった二人は、どうしてか私に視線を向けていた。嫌悪や疑念といった悪いものではなく、小動物に向けるような微笑ましさが含まれたものだが、それを向けられる理由が分からない。


 私はちらちらと二人を気にしながら最後の一口を食べた。それでもまだ視線が向けられている。


「何かおかしなものでもありますか……?」


 二人は僅かに目を見開き、それぞれ「すまない」「ごめんね」と謝った。


「……あの?」

「ごめんごめん。一口一口よく噛んで食べる愛ちゃんが可愛くてつい。博士に釣られて見ちゃってました……。俺はそんな感じですけど、博士は?」

「僕は、愛の箸の持ち方や食べる所作がお手本のように綺麗だと思って。娘とは違うんだな、と」


 博士はそう言った後に、「いや」だったり「そういう意味ではなく」だったりと、慌てたように言葉を散らす。意味が正しく伝わるよう加工する前の心の声、それがそのまま溢れ出たようだった。


 昨日までの私だったら誤解していただろう。でも今の私は、博士が私を見ようとしていることを知っている。博士は目を逸らさないでいる。

 だから、安心して欲しい。


「誤解はしませんよ」


 私は笑った。

 すると、博士は頭を抱えた。


「もったいないことをした……」


 ……私は何か失敗をしてしまっただろうか。


「博士、それだけじゃ伝わりません。愛ちゃんがぽかんとしていますよ」

「そ、そうだな」


 深呼吸をして自身を落ち着かせた博士は、私の名前を呼ぶ。何か重要なことを言われる予感がしたから、私は背筋を伸ばして聞く姿勢を取る。


「まず、謝らせてくれ」


 博士はそう言って頭を下げた。


「きみに娘を重ねて、辛くなったからと目を逸らし続けて……。きみはきみで、娘は娘だということにやっと気づいて、やっと理解した身勝手な僕を……どうか許して欲しい。本当に、すまなかった」


 絞り出すように言った博士は、頭を下げた体勢のまま。


 あの写真の少女は、……昨日私が拾った写真に写っていたのは博士の娘さんだったのだろう。おそらく、いや、確実に私はその娘さんをモデルに造られている。


 確かに博士から目を逸らされて、ぐるぐると思考が止まらなくなった。眠れなくなった。博士に会いたくないと思った。だけど、私は気づいたから。

 博士は私を見ようとしている。今こうして私を見ている。それが事実であり、私の中の真実だ。


「博士、顔を上げてください」


 口を引き結んで、ただ言葉を待っているその灰色の瞳には、私が映っている。


「これからは、もう目を逸らしたりしませんか……?」


 想像よりも小さい自分の声は、どうしてか微かに震えていた。


「もちろんだ」


 真っ直ぐとこちらを見て、大きく頷く博士。その言葉が必ず守られる保証なんてどこにもない。コンピューターのプログラムみたいに未来が確定するわけでもない。だけど、私はその言葉を信じたい。


「……それなら、許します」

「……ありがとう」


 ほっとしたように眉を下げて笑った博士へ、私も笑顔を返した。


「仲直りできてよかったね、愛ちゃん」

「旭さんのおかげですよ。昨日は……いえ、昨日だけではなくて、いつもありがとうございます」


 旭さんがあの子守唄を歌ってくれなければ、きっとこうはなっていない。感謝を込めて見つめると、なぜか彼は目を見開いて固まっていた。


「……旭さん?」

「愛ちゃん、ちょっと俺のこと『お兄さん』って呼んでみない? 真面目に俺の妹にならない?」


 あまりにも真剣な顔をして言うから、今度は私が目を見開いて固まってしまった。


「ならない。愛はきみの妹ではない」

「って博士は言ってるけど、愛ちゃんはどう思う?」

「……旭さんは良いお兄さんになれると思いますよ?」


 実際、私に対して妹のように接しているのではないかと思うくらいだ。良いお兄さんになれるというよりかは、なっているという方が正しいかもしれない。

 一人で納得していると、博士がぽつりと「もったいないことをした」と呟いた。


「もったいないこと、ですか?」

「あ、ああ。その……僕は、愛に必要最低限しか関わっていなかったから。意図的にそうしていたのだから当然だが、とてももったいないことをしたな、と。愛の成長も、愛と斑目がそこまで親密なことも、僕は知らなかった」


 どんよりとしたものを背負った博士に、旭さんは「自業自得ですね」と苦笑する。

 その言葉によってさらに暗く沈んだ博士へ、私は言葉をかけた。


「これからたくさん知っていけばいいのでは?」

「そう、だな。……ありがとう、愛」

「どういたしまして」


 穏やかな表情を浮かべた博士も、「それはちょっと甘すぎない?」と笑った旭さんも、私を見てくれている。いつか、私自身があの少女を見なければいけない時がくるのだろう。


 だけど、今だけは……。今くらいは二人に甘えてもいいだろうか。

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