聖女は王の所有物
王都に久しぶりの平穏が戻り、騎士団の中庭にも笑い声が響いていた。
カインは鎧の上衣を脱ぎ、石畳の上に腰を下ろしていた。
周囲には副団長のロイ、紅一点のフィリア、無骨なガレスら、共に戦場を駆け抜けた仲間たちが集まっている。
「おいロイ、あのときの突撃、完全に突っ込みすぎだっただろ」
「そう言うお前が、敵陣のど真ん中で一騎討ちしてたじゃねぇか」
「はは、まあ俺が行かないと誰も動かなかったからな」
笑い合う声。
勝利の余韻と、命が無事だったことの安堵が騎士たちの頬を緩ませていた。
そのときだった。
神殿の使者らしき神官が、息を切らして中庭へ駆け込んできた。
「かっ……カイン殿! 緊急の報せにございます!」
全員の視線が集まる。
カインが立ち上がり、軽く眉を寄せた。
「どうした。何かあったのか?」
神官はひざをつき、震える声で言った。
「先ほど神殿にて……“神託”が下されました。
その御光を受けた者が――あなたの幼馴染であるセリス殿にございます」
静まり返る空気。
騎士たちが息を呑み、カインの表情から笑みが消えた。
それが、すべての始まりだった。
「セリスが……聖女に?」
報せを聞いた直後、カインは言葉もなく駆け出していた。
王城へと続く石畳の道を走る。
騎士団の仲間たちの呼び止める声も、神官の制止も耳に入らない。
石段を登り切ったその先──王城の大扉。
だが、そこに立ちふさがる影があった。
「ここから先は通せぬ、カイン殿」
槍を構えて道を塞ぐのは、王直属の親衛騎士たちだった。
「ふざけるな。俺は彼女の……」
「王命である。神託を受けた“聖女”には、いかなる者も勝手に近づくことは禁じられている」
淡々とした声に、カインの足が止まる。
その場で噛みしめるように、彼は拳を握りしめた。
「彼女はただの村娘だったんだ。何もわかっていないはずだ……俺が傍にいなきゃ……!」
だが返ってきたのは、冷酷な一言だけだった。
「それを判断するのも、王の意志だ」
やがて扉の向こうから、荘厳な鐘の音が響く。
聖女の顕現を告げる儀式が、始まったのだ。
カインはただ立ち尽くすしかなかった。
天上から降り注ぐ聖光の余韻が、まだ玉座の間に残っていた。
白金の絨毯を踏みしめ、神官たちに囲まれるようにして、一人の少女が歩かされてくる。
セリス。
つい昨日まで村で草花を摘み、土に手を汚して生きていた、ただの娘。
いま、その素朴な姿が、神の奇跡によって“国の宝”とされた。
重々しい空気の中、彼女は玉座の前でひざをつく。
「……セリスと申します。王の御前に、このような形で……光栄にございます」
かすれた声。震える手。
視線は上げられない。
だがその頭上から、冷たくも愉悦を含んだ声が降りてきた。
「顔を上げよ」
ゆっくりと顔を上げるセリス。
その目に映った王──エルヴァンは、微笑んでいた。
けれどそれは、民に向ける慈悲の微笑ではない。
獲物を見定める捕食者の目だった。
王はゆるやかに立ち上がり、玉座から階段を下りて静かにセリスの前へと歩み寄る。
そして、その手が──何のためらいもなく、彼女の頬に触れようと伸びる。
セリスは本能的に身を引こうとした。
だが、背後には神官たちが控え、逃げ道などなかった。
王の指先がそっと、彼女の頬に触れる。
その手は温かくも、どこか冷たかった。
獲物を確かめるように、所有を刻みつけるように、ゆっくりと滑る。
「これほどに純粋な娘を、神が私に贈るとは……実に面白い」
セリスは声を出せなかった。
王の目が、聖女としての敬意ではなく、ひとりの“女”として見ていることに気づいたからだ。
「お前は今日から、国にとって最も神聖な存在……そして同時に、私の私物だ」
王はそう囁きながら、セリスの顎に指をかけ、無理やりその顔を上に向けさせた。
震える瞳が王と正面からぶつかる。
そこに映るのは、慈悲ではなく、欲と支配欲に満ちた男の眼差しだった。
「その身も、心も、祈りも、吐息すらも。すべて王の許しがあって初めて存在する。
それが“聖女”としての役目だ。わかるな?」
セリスの指先が震える。
彼女が何も答えられないまま黙していると、王は口元を歪めて微笑んだ。
「よろしい。従順であることが、美徳だ。私の聖女よ、我が隣に立つに相応しい女に育ててやろう」
王は振り返り、神官に命じた。
「聖女は本日より王宮内にて管理せよ。神殿ではなく、我が監督の下でな」
神官がわずかに戸惑いを見せるが、逆らえる者はいない。
セリスはそのまま、静かに王の護衛に連れて行かれた。