第11話:暗黒騎士カイン
沈黙の中、黒い繭が脈打つ。
言葉も詠唱もなかった。
ただアリアが手を差し伸べたその瞬間、空気が変わった。
カインの体が、ビクリと震える。
何かが体内に入り込む。重く、冷たく、そして――激しい痛み。
「っ……く、ああ……っ!」
喉が焼けるような呼吸。
内側から血と骨が圧縮されるような激痛に、思わず膝をついた。
腕が痺れ、皮膚の内側を何かが這い回る。
(これが……力……? 耐えて見せる……すべて俺の中に……)
苦しみとともに、視界が歪む。
だが、それは錯覚ではなかった。
彼の左目が――黒く、完全に塗り潰されていた。
虹彩も白目もすべてが漆黒に染まり、
その瞳だけが、闇そのものを映す鏡のように変化していく。
「っ、は……あ、ああああ……!」
アリアは黙って見ていた。
一切手を貸さず、助けもせず――
ただその苦しみを“乗り越えるべき通過点”として静かに受け止めていた。
「人としての限界が、あなたの中で壊れていく。
それが“契約”よ。ただ、“生き延びたい”という意思だけが、代価になる」
カインは地に手をつきながら、息を荒くする。
地面に落ちた汗が黒く染まり、
周囲の空気が彼の氣に反応して、歪む。
(体が……変わっていく……でも――これでいい)
やがて、痛みが薄れたとき。
そこにいたのは、もはや王国の騎士ではなかった。
荒れた呼吸。震える指先。
だがその左目は、確かに――“生きている者”のものではなかった。
「これが……俺の、“始まり”か」
アリアが小さく頷く。
「そう。あなたは生まれ変わった。
これでお前はもうあなたは聖騎士などではない。闇側の暗黒騎士となったのよ」
カインの呼吸は乱れていた。
痛みはすでに去ったはずなのに、体は震えていた。
全身が熱い。
だがそれは、命の炎ではなく――闇そのものが体内を流れているような感覚だった。
ゆっくりと立ち上がる。
左目から視る世界は、すでにかつてのものではなかった。
空間の温度、氣の流れ、石のひび割れ一つ――
すべてが異様に鮮明に、過剰に感じ取れる。
だがそれは「見える」ではなく、“感じる”に近い。
(これが……契約の力……)
「驚くことじゃないわ。
まだあなたはその力に慣れていない。
あなたの肉体も、魂も調整中なのよ」
カインは言葉を返さず、ただ息を整えようと必死だった。
アリアはそっと彼の肩に手を置く。
「怯えてもいい。
拒んでも、苦しんでも、それが“人の証”よ」
「でも忘れないで――あなたは自分の意志で力を求めたことを」
その声は、冷たくもあり、どこか優しかった。
カインの震えは、少しずつ静まっていき
拳を強く握り直した。
その手に宿るのは、
“かつて守るために握った剣”ではない――
何かを奪うための力だった。
鈍く乾いた風が、ひび割れた大地をなでる。
灰の空の下、カインは岩の上に腰を下ろし、左手で顔を覆っていた。
左目――黒く染まったその瞳は、未だに微かに疼いている。
(世界が……違って見える)
色のない景色の中で、氣の流れ、物質の歪み、
そして自分の“内側にある破壊の意志”のようなものが、ありありと感じ取れた。
背後から足音が近づく。
振り返ると、アリアが無言で二つのものを見せてきた。
ひとつは――深い漆黒の眼帯。
そしてもうひとつは、漆黒の色が織りなす、重厚な鎧だった。
カインは黙って手に取った。
「……これは?」
アリアはゆっくりと言う。
「その目は、相手の「本質」を視る。表面的な姿や偽りの言葉・魔法の幻影をすべて見抜く力がある」
「この眼帯を通しても、その魔眼の力を使うことはできる。目立ちすぎるから普段は隠しておきなさい」
カインは無言で頷くと、それを左眼に巻いた。
そして鎧――
それは、人間の騎士がまとう白銀ではなかった。
肩甲、胸部、籠手、すべてが漆黒に染まっている。
アリアは言った。
「これは、暗黒騎士の鎧。
今のあなたに王国の白銀の鎧は似合わない。これをあげるわ」
カインは静かに鎧を身にまとった。
手袋を嵌め、最後に黒いマントを翻したカインの姿を、
アリアはじっと見つめる。
「似合ってるわ。暗黒騎士、カイン」
カインは少しだけ口元を歪めた。
「まずはこの力に慣れないとな」
そして、黒き風が再び異界に吹き始めた。




