種は芽吹かない 32
自室に籠るトリトスは囚人となった気分だった。
確かに母の言うとおりになれば、父もアルティリア姫のお相手を廃嫡など出来ないだろう。
それに宗主国の皇帝の愛娘を娶れば、皇国の後ろ盾を得て、トリトスの治世も確かなものになる。さらに皇女は少女と言える年齢で、あれほどの美貌を持つのだ。成人すれば、いや3年もすれば、アルティリア姫の美しさは大陸中に知れ渡り、彼女の夫となった自分には各国の羨望が集まる事は間違いない。ネレイス・トライデントとの婚姻よりも遥かに輝かしい未来がそこにはある。
しかし、それを為すために卑劣な所業に手を染めねばならない。何よりも、そのような事が可能なのか?父を除けば最高の位に存在する母に、この王宮で出来ない事はないだろう。だが、姫君は大陸一の戦力を誇る皇国の精鋭に守られている。しかし母は勝算なく動く人間ではない。どれ程考えても答えは出ない。
実行するという決断も。
拒否するという決断も。
トリトスは出来ない。
「ああ……」
だが、気が付いた。
これまでに自分で決断した事などなかったのだと。
「……ネレイス」
全て、かつての婚約者に助けられていたのだ。
「私は王にはなれない」
こんな男がメールブールの頂点に立ち、国を民を率いていけるはずがない。自分には王になる器はないのだ。そう自覚すれば決断は簡単だった。
「誇りまで失いたくない」
深夜、王妃の遣いが現れた時には心を決めていた。
「私は行かぬ」
廃嫡となった身ではあったが人として落ちてはいけない。しかし母の遣いの侍女や侍従達は表情を変えず答えた。
「なりません」
「は?」
「彼の方のご希望で御座います」
「わ、私はっ」
拒絶の意思を伝えようとしたその時、目の前で何かが弾ける。そして意識が薄まっていゆくのを感じた。そうだ、母は、静かに国王たる父の傍に立っているが、決して己の意思を曲げる人間ではないのだ。
倒れこむトリトスを侍従が支える。お遊び程度の戦闘訓練しか積んでいない王子の意識を刈り取るなど造作もない。彼らは相手が王子であろうが気にも留めない。もとは王妃の生家であるアイギス家の影だ。彼らの主はトリトスでもなく、国王でもない。
アイギスの姫であり、メールブール王妃。
王妃が望んだのならば、当事者が拒否しようが関係ない。彼らは王子を姫君の眠る部屋と運び込む。この時間、この部屋の側仕えは王妃の手の者達で固めている。王子と姫が同室で一晩過ごせば、実際は何もなくとも目的は果たせるだろう。真実とは創り出されるものだ。
激しい頭痛でトリトスは目を覚ます。ここは、どこだ?自室ではない。思い出した、自分は母の遣いに攫われたのだ。
「お目覚めですか?」
少女の声がした。
慌てて起き上がると、薄暗い部屋に置かれたカウチに小さな人影が見える。突如、トリトスの思考は回り出した。深夜、皇女の部屋に忍び込んで、ただで済む訳がない。自国の守護者に対し、なんたる不敬。皇国がトリトスをいや、メールブールを許すはずがない。
これは宗主国に対しての反逆にも等しい……!
トリトスはベッドから降りると跪いた。
「御無礼をお許し下さいなどと、口にするのも烏滸がましいことは承知しております」
もっと早くこうするべきだった。優先すべきは自分の立場でも将来でもない。愚かにも、たった今気が付いた。
「全ては私の不徳によるもの。全ての罪は私に」
守るべきはメールブールだ。
「どうか私の命で贖うことをお赦し下さい」
母に陥れられたなど口が裂けても言えない。メールブール王妃が宗主国の皇女を傷付けようと画策したなど知られてはならない。
トリトスはまだ正式に廃嫡されていない。自分はまだメールブール王太子だ。責を負える立場にある。
願わくば己の処刑で……
トリトスのそばに来ると少女はゆっくりとしゃがむ。
「顔を上げて下さい」
「貴女は」
見上げた先にいたのはアルティリア皇女ではなかった。
「テティス……」
「良かったですね、少なくともあなたの命は求められることはないでしょう」
妹の言葉の意味が分からなかった。そして、たった今まで気配を感じていなかったはずなのに、部屋にはテティスと自分以外にも多数の人影がある。
「ご安心下さい。今頃、皇女殿下はテティス殿下と姫君同士のお泊まり会を楽しんでいる事になっておりますので、トリトス王子との不都合な出来事は起きようがありません」
暗闇の中から現れたのはライル・ガーランドだ。
「何なんだ、これは?説明をしてくれ」
「全て知られていただけですわ」
戸惑い続けているトリトスにテティスは淡々と告げる。
「皇国は王妃の策略を把握していました。その上で、確実に反逆者を捕えるために動いただけです」
トリトス王子の廃嫡に王妃は異議を唱えなかった。それまでテティスの立太子を強固に反対していたにも関わらず。
「罠を仕掛けられていたのです」
国家間では問題が起きているが、アルティリア皇女はテティス王女と親しくなり、このまま会えずに帰国するのは悲しいと話している。そんな話がどこからか王妃へと伝わった。
では最後の夜会の後、少しでも二人の姫君との交流の時間をと王妃は非公式にルヴァランへと打診。これによって息子達の処遇の減刑などは求めない、あくまで娘を思う母としての提案だと。妹には甘いフェルディナンドもそれを快諾。表向きは、アルティリアの体調不良のため王宮に留まる事となった。
「それは、父上もご存知なのか?」
「ええ、全て、陛下の了承を得ております」
王妃は罠を仕掛けたつもりで、己が罠に嵌っていたのだ。
「しかし、何故、テティスがこの部屋に?」
トリトスは尋ねる。考えるのも悍ましいが、万が一、自分が計画を実行しようとしていたらどうするつもりだったのか。
「私が自ら立候補しました」
「だから、どうして、そんな危険な真似を!」
ライルがテティスに代わり説明を始めた。
「いくら錯乱しているとは言え、王族に手を掛けるには理由が必要だからです」
「ど、どういう事だ?」
「筋書きは二つ用意していたのですよ」
王妃の意のままに行動していれば、トリトスは心を壊し、次期女王に害を及ぼそうとしたとして、その場で処罰されていた。
「トリトス殿下が計画を拒絶し、強制的にこの部屋に連れてこられたのは把握してます。この場合は、先程、説明したように事件自体が起きなかった事となります」
トリトスは先程まで死刑となる覚悟をしていたにも関わらず、自分が殺される可能性があったことに震え上がる。妹も把握していた事実がなにより恐ろしい。
「さて、そろそろ失礼致しましょう」
テティスはライルを促した。
「何処へ行くのだ?」
「終わらせに参ります」
何をとは聞かなかった。テティスは王妃と決着をつけねばならないのだ。
自分は何処まで愚かなのか。テティスは兄や母へ制裁を与えねばならない立場へと立たされたのだ。本人は望んでいないにも関わらず。
それは紛れもなく、自分のせいだ。一瞬でも恐ろしいと思った事を恥じる。
「すまない」
謝罪の言葉に妹は答えず、悲しげな微笑みを浮かべるとライル・ガーランドと共に部屋を後にした。




