種は芽吹かない 30
ハルモニアとメノスが出て行くとカドモスはアレスに言い放つ。
「お前が学生時代に派閥から追い出した奴らは全員復帰している」
「なにを勝手に!」
「ご当主の采配だ。そもそも、お前にそんな権限はない」
学生時代、アレスの振る舞いを咎めた者、ミミ・フィットンに否定的な者達を伯爵家の派閥から追放していた。ハルモニアの護衛騎士となったメノスもその一人だ。
当時、学園内でのミミの護衛にとメノスに打診をした。メノスは子爵家の娘で、騎士を目指しており、実力は申し分なかった。だが断られた挙句に、ミミを侮辱する。
しかし実際は、主家の姫君への行為を知っていたメノスが、ミミ・フィットンは他の生徒に嫌がらせを働いていると訴えたのだ。被害者がハルモニアである事を伏せたのは、ハルモニア自身に口止めされていたためだったが、正義感が強いアレスであれば、きっと真実を突き止めると期待していた。だがアレスは令嬢の言葉を信じず、調査もすることもなく、彼女を追放してしまう。
派閥に所属する学生達は次期当主への不満と不信感を募らせていく。
アレスはミミ・フィットンを優遇するが、当のミミはハルモニアを侮辱し、恫喝し、時に怪我をさせるような行為に及ぶ。何故、アレスは守るべき家族を守らず、害虫のような女を優遇するのか。
「ハルモニアは追い詰められていた。お前達のせいで」
その頃には二人の父親にも学園での事が伝わり、事態を把握した当主がアレスを叱責するも、息子は聞く耳を持たず反抗し続けた。
「挙句に、お前、ハルモニアにミミ・フィットンと友人になれと命令したらしいな」
そして、ミミが令嬢達から距離を置かれ、寂しいと溢した言葉を真に受けたアレスは、自分の妹ならば、ミミの力になってくれると思い、二人を引き合わせようとした。
しかし妹は兄の要望を拒絶。嫌がるハルモニアを説得しようとしたが、頑なな態度にアレスは妹を激しく叱責する。その時、ハルモニアは意を決してアレスにミミ・フィットンの振る舞いを伝えようとするが、それを遮ると恐ろしく冷たい視線と言葉を浴びせ掛ける。
「誰がなんと言おうとミミは優しい娘だ。悪質な噂を信じ込むなんてな。お前にはがっかりした!」
「待って、お兄様、聞いて下さい!」
「黙れ、口を閉じろ!もう、妹とは思わない!」
自分に寄り添い、どんな時でも守ると誓った、頼もしい兄はもういない。ハルモニアに残っていた兄への思慕の念は消えた。
「俺は後悔してるよ、航海に出るんじゃなかった」
アレスとハルモニアが学生の時、カドモスは長期海上訓練中であった。自分がいなくともアレスがハルモニアのそばにいれば、大切な女性は憂いなく過ごせると信じていた。
「待てよ、カドモス……本当にミミが?信じられない」
「信じられないのは、俺の方だ。お前はハルモニアの何を見ているんだ?あの子が杖を突いていない事にも気が付かないのか?」
アレスは部屋にいた妹を思い出す。記憶の中のハルモニアは白い杖を常に持っていた。持ち手に、マーガレットが彫られた美しい杖は妹の気持ちが少しでも明るくなるようにと特別に造らせた。
「モニアに何が起きたんだ?」
「ルヴァランから医療支援の一貫で来訪した理学療法士との訓練で、長時間でなければ杖なしで歩けるようになったんだ」
「そうか、良かった」
「ああ、きっと女伯爵になっても立派に勤め上げるだろう」
「モニアが伯爵?無理に決まってる、親父だって許すはずがない」
学生時代、ハルモニアはネレイスに救われた。ネレイスは当時、アレスとの関係が悪化し、敵対してると言ってもおかしくない状況であったにも関わらず、アレスの妹である自分に手を差し伸べてくれた、その公平さと、誇り高い信念にハルモニアは強い憧憬を抱く。それが彼女を奮い立たせることになる。
「モニアは努力したよ、お前が放棄した後継者としての義務を果たすためにな。ご当主様もお認めになられた」
剣を振るうことは出来なくとも、騎士達を支え、領地を守るために、ハルモニアは変わった。
「だからな。もうお前は必要ないんだ」
カドモスは今度こそハルモニアを傷付けるものから守ると誓った。例え、その相手がハルモニア自身の血を分けた男だったとしても。
部屋に残ったアレスは混乱する頭の中で一つだけ理解した事がある。この家に自分の味方はいない。裏切られたと思っていたが、彼らにとっては自分が裏切り者だったのだ。
鮮やかな紺碧の海と晴れ渡った空に囲まれた甲板には、まるで宮殿の庭園に用意されたのかと錯覚させるような茶会の準備が整えられていた。
船上にも関わらず風を感じさせない。恐らく何らかの結界や魔術を用いているのだと、テティスは考える。
居心地の良さを追求した皇族専用船ブリエロア。それはまさに海上宮殿と言えた。
テティスはルヴァラン皇国第三皇女より、茶会へと招待され、ブリエロアへの乗船が許された。
これは私的な茶会であり非公開のもの。決してメールブールとルヴァランが和解したのではないとテティスも理解している。
「本日はお招き頂き感謝致します」
「楽しんで下さいね」
艶やかな絹糸の様な漆黒の髪、長いまつ毛に縁取られた紫水晶の瞳は、同性でありながら見惚れてしまう。幼くも海神の娘の如き美貌の主。
皇女の屈託のない微笑みに、自然と気持ちが柔らかくなってしまう。許されたと錯覚してはいけない。許されるのではと期待してもいけない。皇帝の愛娘はただの少女ではない、皇族の一人として自分を見定めようとしているのだ。
「こちらに来てからすぐに、メールブール王宮の庭園に案内していただきましたが、鮮やかな植物が多くて目を奪われました。特にテティス殿下の髪に飾られているお花は素敵ですね」
テティスの髪に飾られたブーゲンビリア。真紅に近いそれはメールブールの国花でもあった。アルティリアは動植物に興味があるという。大陸では見ることができない花々を楽しむ事ができたと無邪気に喜んでいる。
「ありがとう存じます。こちらの花は周囲の色付いたものが花弁と思われがちですが、中央の白いものが花なのです」
「まあ、華やかな葉ですわね」
他愛もない会話が続く。
「でも真ん中の花も可愛らしいわ」
不敬を犯した者の親族である自分がブリエロアに招かれた理由は何なのか。
「メールブールの皆様はどちらが本物なのかをご存じなのでしょうね」
「ええ、王宮や貴族家に植えてあるだけでなく、国中に自生しておりますので」
ブリエロアに乗船を許された異国人は多くはない。父や母を差し置いて、メールブールではテティスが初めての人間となる。建国祭の期間だ。公の茶会ではないとは言え、皇女がテティスを招いたことは、情報の早い異国の高官達はすぐに把握するだろう。否応なく、テティスは各国から注目を集める事になる。
「テティス殿下、一つお聞きしたいのですが」
アルティリアはこてりと首を傾げた。
「ルヴァランへはいつ頃いらっしゃいますの?」
ああ、そうか……
その問いで、テティスは理解した。
皇国の保護国の王の次代、その婚約者や側近達は皆、一定期間ルヴァランへ留学する事が慣わしだ。
皇女は、ルヴァランは、テティスに次代の王となる覚悟を示せと言っているのだ。
暖かな陽射しの下にも関わらず、体温が下がってゆく。しかし、拒否する選択肢も、迷うという選択肢もない。
己が使命を忘れてはならぬ。
その血を奮い立たせるのだ、メールブールのために。
「すぐにでも」
テティスはメールブール王国、初の女王となると決断した。