種は芽吹かない 19
泥の濁流がアルティリア達を包んだシャボン玉を呑み込もうと襲いかかる。
アルティリアが生み出した水は異空間を包み込んだが、広がっていた濁りが集まり、抵抗を受けていた。そう簡単に世界を開け渡してはくれないらしい。
「ミミさんの世界だものね」
アルティリアは水の膜と防御壁で自分達を覆い、伸びてきた汚水をすり抜ける。その中に浮かび上がる怒りに満ちた女の顔。
ミミ・フィットンはこの世界の女王であり理である。この世界はミミ・フィットンのものだ。アルティリアはこの世界に攫われた捕虜。
「奴隷制の残る国もあるらしいわね」
メールブールよりも遥か遠く、海を航海し、ルヴァランの位置する大陸とは別の大陸。そこには祖国と国交のない国々が複数存在し、その大陸の王者と呼ばれる帝国とその周辺国には奴隷制度があるという。
このまま、女王ミミの世界に囚われてしまってはアルティリアも奴隷となるしかないだろう。
「そんなつもりはないの」
アルティリアを包む水は激しく上昇してゆき、その姿は一匹の龍へと変貌する。世界への反乱を宣言するかの如く雄叫びを上げた。
奴隷か。
世界の破壊者か。
その叫びに応えるように泥の水面から、汚水で形成された巨大な女の姿が現れ、龍へ手を伸ばすが、龍は咆哮と共に白銀の光を巨人へと放つ。
本能のまま暴れるミミ・フィットン。人の欲望や怒りや憎しみの感情は時として巨大な力を生み出す。だが、その姿は崩れ始めた。
しかし、水の底から湧き上がる力を感じる。海底に沈んだ大地にいくつもの火山が生まれ噴火を始めたのだ。マグマと水が接触し巨大な爆発が起きる。
「大変」
アルティリア達を包んだ水の龍は空へと昇る。
「まるで世界の終焉ね」
濁った水が爆発し、水面からは煙が上がり波は巨大な津波となっていく。アルティリアに世界の権限を渡すくらいならば自ら壊れてしまおうという意志を感じる。緩やかに分解していければ、それは理想的であったが、それは難しいと判断せざるを得ない。
「リア」
「アルティリア様」
難しい顔をつくっている自分を気遣うように、フェルディナンドとレオンハートが声を掛けた。彼らはアルティリアが生成した。存在を保つにはアルティリアの魔力が必要となる。
「二人はそばにいて」
だが、アルティリアは彼らの存在を解除する事はしなかった。自分の帰る場所を見失ってしまう事が何より恐ろしいからだ。
アルティリアの意思を汲み取った二人から柔らかな視線を受け取る。彼らの姿は少年のままだが、アルティリアにとっては頼りになる兄達だ。
「早く帰りましょうね」
そう言ってアルティリアは空へと意識を向ける。分厚い雲で覆われた隙間から、夜空が見え始め、空に散らばる星々が降り始める。
流星群がミミ・フィットンの世界に降り注ぐ。
「今度こそ、お別れよ、ミミさん」
星達は光の粒となって世界を包むと同時に、女の絶叫が響き渡った。
同じ頃、メールブール宮殿内にある一室で一人の女が叫び声を上げた。
「があっ」
突然、体の臓器が全て砕け散ったかのような痛みがミミを襲った。体の中は燃えるように熱くなり、呼吸が激しくなり、立っていられなくなる。
窓がないので、外の様子は分からないが、照明が付けられているので室内は明るい。しかし、視界は暗くなり身体が傾き、床に打ち付けられた。
「だ、誰か……苦しい、だ、すけ……」
必死に絞り出した声は近衛騎士に届いているはずだ。だが、部屋の外に控えている騎士達の反応は冷ややかなものだった。
「まただ」
「ああ、今回は真に迫っているな」
ミミは夜会の後、王宮の貴族牢に収容された。城の者からの突然の暴挙に憤慨し、部屋から出すよう訴えるがミミの言葉は聞き入られる事はなかった。
「こんな事して、良いと思ってんの!ミミはトリトスの恋人なのよ!トリトスがアンタ達をクビにするわよ!」
どれほど叫んでも無視されるので、部屋にあったガラスの水差しや椅子で、扉を叩きつける。
「ここから出せ!ミミはオーヒになるのよ!オー族を閉じ込めるなんて、ただじゃ済まないんだからね!」
水差しはすぐに割れてしまったので、椅子で何度も壁や扉を叩く。諦めてたまるものか。
しかし、手に擦り傷が出来てしまう。夜会で付けていた、美しい絹の手袋に血が滲んでいるのを見てミミは息を飲む。
「ミミの手が……誰か、誰か来て!」
白くて小さくて、思わず握り締めたくなるような可愛らしい手だと、男達から言われているミミの手に傷が付いた。
ミミの悲鳴を聞いて、只事ではないと思った城の侍女が部屋に現れた。ミミの頭はカッと熱くなる。こいつの、こいつらのせいでミミの手が傷だらけになってしまった。
「この糞女!」
怒りに任せてミミは侍女を押し倒すと女は悲鳴を上げた。ミミは気にせず顔を殴り付け、髪をむしる。
「何をしている!」
しかし、すぐに騎士が現れミミは侍女から引き離された。騎士達は本当の被害者であるミミに軽蔑の視線を送り、侍女を抱えて部屋を出ていく。
「信じられない」
閉じ込められ、怪我までさせられたミミを放置するなど許される事ではない。それでも諦めずに、訴えるがミミの声は届かない。その辛さに挫けそうになり、気分が悪くなる。
体調不良を伝えると、何度か侍女が現れたので、まずは折檻してやらねばと気持ちを奮い立たせ、罰を与え続けた。しかし、ついには誰もミミの言葉を聞き入れる事はなくなる。
侍女が食事と水を運んで来る際、必ず騎士が同行し、ミミを監視するような目で睨み付けてきた。侍女も騎士も中年に差し掛かった者達ばかりで、ミミが何を言っても相手にしない。
「アンタ達、みんな死刑にしてやる!アンタ達の家族もみんな殺してやるから!」
オーヒに対して、こんな不敬が許されてたまるものか。それにしてもトリトスは何をしているのか。愛する女性が己の城でこんな非道な仕打ちを受けているというのに。
思い起こせば、ミミが夜会の会場で倒れてしまった時、トリトスは微動だにせず、ただ突っ立っていただけだった。奴はオージとして甘やかされていたためか、肝心な所で使えない。アレスもヴェントもロディもだ。
ミミは愛らしく可憐で健気で、誰よりも大切にするべき女性だと言っていたのに!
「そうよ」
ミミは気が付いた。こんな役立たずの低階層の男達を伴っていたのが悪いのだ。
「フェルディナンド」
トリトスはフェルディナンドを友人だと言っていた。夜会で冷たい態度を取られたのは、ミミが親しい友達の恋人だから、距離を置かざるを得なかったのだ。
「フェルディナンドを呼んで!」
ミミの状況を聞けばフェルディナンドは駆け付けてくるはず。そうしたら、ミミ自ら、フェルディナンドを選ぶと伝えよう。
ルヴァランはメールブールのソーシュ国だ。ミミはルヴァランのオーヒとなると決めた。
ヴェール港で見た、あの白く美しい船でフェルディナンドと共にルヴァランへと行こう。
そうだ、オーヒには専属の騎士が必要だ。夜会で見かけた美しい金髪を男をミミの騎士にしてやろう。
「早くしなさい!フェルディナンドを連れて来るのよ!」
だが命令は聞き入られる事なく、突如として激痛がミミを襲い、意識を手放す事になる。
ミミは分かっていた。
あの憎たらしいアストリヤのせいだと。
あの小娘を早く罰せねば。




