種は芽吹かない 08
フェルディナンドは吐き気を催すほど怒っていた。
トリトスもミミも想像よりも遥かに愚かで下らない人間だった。アルティリアに媚を売るのかと思っていたが、ミミという売女は自分に尻尾を振ってくる。挙句、アルティリアを排除し、自分が主役に取って代わろうと振る舞っていた。アルティリアに後見人になって欲しいと願っていたのではないのか?
売女の低俗な嫌がらせを見兼ねたらしいネレイス嬢が、アルティリアを令嬢達の中に連れ出したので、しばらく様子を見る事にした。
馬鹿と売女との会話にうんざりしていたフェルディナンドも、まともな話が出来る人間を探す。すると客人の中に見知った顔がいるではないか。ライル・ガーランドの兄、ヴィンセントだ。彼はエルドラ王国のバーナード公爵家に婿入りしている。
「やあ、ヴィンセントじゃないか。結婚したそうだね。おめでとう、ライルから聞いているよ。お隣の美しい女性が奥方なのかな?」
「お久しぶりにございます、殿下。こちらが妻のエリザベス・バーナードで御座います」
エルドラも近年、女性の爵位継承が可能となった国で、ヴィンセントが結婚したバーナード家の令嬢は、エルドラ初の女公爵となる人物だ。
エリザベス夫人は美しいカーテシーを見せ、完璧な皇国語で言葉を紡ぐ。
「ルヴァランの輝かしき星、フェルディナンド第二皇子殿下にお目見え致します。エルドラ王国バーナード家が長子エリザベスで御座います」
「見事な皇国語ですね」
「光栄にございます。ルヴァランへは留学させて頂いた経験がございますの。素晴らしい経験でしたわ」
「そうでしたか。では、私にはエルドラ語を御教授頂けますか」
阿呆避けにエルドラ語で経済論を交わす事にした。トリトスはエルドラ語は出来るが内容が理解できず、ミミはエルドラ語自体が出来ない。言葉と知識の結界だ。
バーナード夫妻と文明人らしい会話をしつつ、トリトス達を確認すると、ミミは休憩室へ行くと言って別行動を始めたものの、顔の良い男、レオンハートに目を付け絡んだあげく、迷惑行為を咎められ、女官に連れ出されて行った。トリトス王子は側近と酒を飲み交わしており気が付いていない。フェルディナンドの中ではすでに彼への評価は最低だった。
不快感が再び急上昇していくが、ネレイス嬢達と甘味を楽しむアルティリアを見守っていると、心が安定してきた。しかし会場から追い出されたはずのミミがいつのまにか戻ってきており、突如令嬢達の中に割って入り、グラスの水をフェルディナンドの最愛にぶちまけたのだ。
「殿下!」
エリザベス夫人の声で我にかえる。
「何か?」
「お手が……」
手の中には砕けたガラスの破片。アレを見た瞬間、グラスを反射的に握りしめてしまったのだ。
「ライル、殿下の手当を」
「いや、大丈夫だ」
弟を呼ぼうとするヴィンセントを制止する。今、この場を離れる訳にはいかない。
「では、せめて、こちらをお使い下さい」
エリザベス夫人からハンカチを渡される。
「ありがとう」
その後は、ネレイス嬢と他の令嬢達がミミを糾弾し、恋人が不当に責められてるとでも思ったトリトスがネレイスからミミを守ろうと現れた。だが、実際はミミが宗主国の皇女に無礼をし、ネレイス嬢が諌めていたのだ。
水に濡れたアルティリアを見た時、トリトスは理解したはずだ。己の恋人が犯した事を、己の浅慮による失態を。奴らはどう挽回するのかと、見ていたが微動だにしない。
「ハッ。ゴミ共が」
木偶の坊と化した男を押し退け、現れたのは12歳の王女テティスだ。最も深い礼を取り「王家を」代表して詫びを入れたいと宣言した。未成年王族の謝罪一つで手打ちにはならないと分かっているだろうが、トリトスの言動がメールブール王家の意向でない事を知らしめた。
及第点はやっても良いか。
アルティリアも個人としてはテティス王女とネレイス嬢を受け入れると伝えた。
アルティリア達が会場から出て行った後、フェルディナンドもさっさと帰る事にした。最早ここには用はない。ライルの兄ヴィンセントとエリザベス夫人にのみ声を掛けて出口へと向かう。
テティス王女とネレイス嬢はアルティリアが去ったあと、すぐに会場から姿を消し、行動を開始したと言うのに、トリトス王子は未だに呆然と佇んでいる。
しかしフェルディナンドが通り過ぎた時、やっと我に返り声を上げた。
「殿下、お、お待ち下さい!」
今更なんだと言うのだ。フェルディナンドは侮蔑を孕んだ声で吐き捨てる。
「失礼する。お前達にとっては、小さな事かもしれんが、皇国にとっても、私にとっても、これは大事なのでね」
己を餌にすることに一切の迷いがない我が妹だ。むしろ、これでルヴァランに有利に事が運べると考えているだろう。しかしアルティリアを溺愛するフェルディナンドにとっては不愉快極まりない事には変わりない。トリトス達処理が終了したら、嫌というほど妹を甘やかしてやろう。
やっと王子達はルヴァラン皇族の拒絶を知る事になった。しかし、ただ一人、理解していない者がいた。
「どうして!」
ミミ・フィットンだ。
せっかく、あの忌々しいアストリヤを追い出したと言うのに、何故フェルディナンドまで出て行こうとするのか。
「フェルディナ……」
ミミが声を掛けようとした瞬間、第二皇子は振り返った。ミミは弾けたような微笑みを浮かべた。妹などではなく、やはり自分を選ぶのだと歓喜した。
「名を呼ぶ事を許した覚えはない。不愉快だ」
「へ?」
明確な拒否反応にも関わらず、納得出来ないミミは、強硬手段に出た。
「お願い、待って!」
フェルディナンドを引き止めようと、大袈裟に足をもつれさせ皇子の背中に向かって倒れ込む。
「あん!」
これまでも、素直になれずミミにつれない態度を取る男にはこうして、か弱い姿を披露してやった。大抵の男は庇護欲をそそるミミの姿に、己の振る舞いを反省するのだ。
さあ、フェルディナンド。
ミミの恋人になれる絶好の機会は目の前よ。
ミミは疑わなかった。必ずフェルディナンドが自分を受け止め「大丈夫かい?」と身を案じて尋ねる事を。しかし第二皇子は潔癖症だった。己が汚物と判断したものには指の先程でも触れたくないのだ。
ドンッと鈍い音がフロアに響く。王宮の床材は磨き上げられた大理石のタイルだ。硬い床に叩きつけられたミミは声にならないうめき声を上げ、必死に顔を上げるとフェルディナンドの去ってゆく背中だけが見えた。
「……な、なん、で」
おまけに、恋人トリトスと、その側近達も皇族相手に犯した不敬に気付き、他人に構ってる余裕はなく、ミミに手を貸す者はいない。痛みと羞恥と悔しさでミミはうずくまったままだ。
エリザベス・バーナードはタイルに転がった女を冷めた目で見ていた。こんな所にも愚か者が幅を利かせているのか。
「いたぁい。だ、誰か……」
何が「いたぁい」だ。10歳の子供に水をぶち撒け、あれほど水浸しにしておいて被害者ぶるとは厚かましい。あんな事をされて普通の令嬢なら泣くか怒るか、感情を露わにしてもおかしくない。10歳の時の自分なら、喚きはしないが、確実にその場で社会的に殺している。
だが、皇女は落ち着き払っていて、堂々たるものだった。敢えて、この場で処遇を求めないのは、何かしらの意図があるに違いない。皇族は、あそこまで感情のコントロールが出来るものなのか。第二皇子に至っては、グラスを握り潰して微笑んでいた。
「あなた、私達も帰りましょう」
「そうだな。どの道、夜会どころの話ではないからな」
うずくまるミミの横を通り過ぎながら、メールブールの公用語で夫に話し掛ける。
「皇女殿下がおいたわしいわ。何かお見舞いの品をお贈りしましょう」
「まったくだ。きっと胸を痛めているだろう。弟に連絡を取るよ」
それにルヴァランとメールブールの動向を把握しておかなければならない。エリザベス達だけではなく、各国の要人達は情報収集に動き始めた。
エリザベス・バーナードは別作品「真実の刑に処す」の主人公です。彼女もとあるヒロインの被害者です。ライル・ガーランドのお兄ちゃんと結婚しました。執務に追われる新国王に代わって特使としてメールブールの建国際に訪れました。夫の繋がりと留学の経験から皇族との友好関係構築に一歩リード。




