翠の魔女 18
ここまで到達するのに、アルティリアの側にいるために、どれほどの時間と努力を重ねてきたか。レオンハートはもう覚えていない。
それを失ってしまうなど。
「俺は」
この腕に抱く姫君の側を離れるなど。
「貴女を」
絶対に有り得ない。
「守ります」
忘却魔法がなんだ、ふざけるなよ。
「これからも、ずっと」
忘れてたまるか、魔女め。
「父君も母君も兄上方も姉上方も」
俺も。
「皆、貴女を愛してます」
「でも、皇国のためを思うなら、魔女として生きる道を選ぶべきだったのよ」
そして誰にも知られずにルヴァランを護るのですか?
俺を置いて。
「もし、万が一ですよ」
「うん」
「アルティリア様が魔女になると決めたら、俺も付いて行きますからね」
アルティリアは肩をピクリと跳ねさせると、自分を見上げる。その頬には涙の跡が見える。
「でもレンはルヴァランの騎士でしょう」
「違います。アルティリア様の騎士です」
もしアルティリアが心から望んで魔女となるなら、魔女の騎士となる。
「貴女がいらないって言っても、付いて行きますよ。どこまでも、月までも、異空間へだって付き纏ってみせますよ」
得体のしれない花の塊にだって飛び込んで見せたのだ。異世界でも追いかけていく自信はある。
「貴女の行きたい所はどこですか?一緒に行きましょう」
レオンハートに問いかけられ、アルティリアの頬は緩んだ。
「おうちに帰りたいわ。お父様やお母様やお兄様方のいる皇宮に。戻ったら、お姉様方ともお茶もしたいし」
「良いですね。お供します」
アルティリアは家族を愛している、10歳の少女だ。
たった10歳の子供が背負うには、重過ぎる才能。
しかし、それをまだ制御し切れていないという不安。
家族に負担を強いているという負目。
「ありがとう、レン」
レオンハートはそれを少しでも分けて欲しい。
「いえ、ただ、申し訳ないのですが」
「なあに?」
「ハンカチを取り出す事が出来ないので、俺の騎士服でお顔を拭いて下さい」
「ぷっ」
アルティリアは堪らず吹き出して、クスクスと笑う。
「困ったわ、わたくしも手が塞がっているの」
「じゃあ、そのまま、お顔をこすり付けちゃって下さい」
「こうかしら」
「そうですそうです」
お姫様はレオンハートの胸に顔を埋める。その姿は子猫が甘えるように愛らしく、レオンハートは心の中で「時間よー止まれー!」と絶叫した。
「騎士服が汚れてしまったわね」
「問題ありません」
ご褒美でした。
いつでもどうぞ。
歩き続けていくと、睡蓮の花が取り囲み、水面が光っている場所が見えた。
「あの光の中に入れば、レイフルの森に戻れるわ」
そして、レオンハートの記憶が消えるか、維持しているかが分かるだろう。
「俺は絶対に忘れません。俺はアルティリア様を信じていますから、貴女も俺を信じて下さい」
「うん、ありがとう。レン」
アルティリアに関わる事なら一秒だって記憶を消したりしない。
「そばにいてね。どこにも行かないでね」
「はい、貴女のおそばを離れません」
レオンハートが光の中に足を踏み出すと。
そこには森が……
なかった。
森どころか、地面さえなかった。レオンハートとアルティリアが現れた場所はレイフルの森の上。
空であった。
「うわーー!」
「キャーー!」
突如、空の上に放り出された二人は当然ながら落ちていく。
アルティリアは翠の魔女に見出され、魔法の扱いを学び始めて6年。魔女で言えば、やっとつかまり立ちができるようになった赤子同然。ヨチヨチ歩きも出来ない赤ちゃん状態のアルティリアは、異空間を繋げる場所の結び方をまんまと失敗した。
だが、レオンハートは騎士として経験を積んでいた。きっとナイトレイとロゼッタは近くで待機しているはず。魔術による救難信号を放ち、自身は衝撃に備えて体を強化する。例え着地で足が砕けても、絶対にアルティリアには傷一つ付けない。
一方でナイトレイとロゼッタはレオンハートの救難信号を受け取った。
「隊長、発信源は上空です!」
「なんだってぇ!」
そして、真上から、確実にこちらに近付いてくる気配も合わせて感じ取った。ナイトレイは風を魔術で発生させ、上空に噴射させる。ロゼッタは携帯している魔道具の一つである魔獣捕獲用の網を幾十にも木々に張り巡らせた。
少しでも、少しでもいい。
落下の衝撃が緩和できるように。
数秒後。
鉄の塊、もしくは巨大な岩が大地に叩きつけられたような音が響く。木々に張り巡らせた網を突き破り、姫君を抱え込んだルヴァランの騎士は、レイフルの森に降り立った。着地の衝撃で地面に足がめり込み、砂埃が舞う。
呆然と見つめるナイトレイとロゼッタの視線の先で、レオンハートにしがみ付いたアルティリアは震える声で言う。
「し、失敗してしまったわ。ダメね、わたくし……」
「こ、これくらい、全然、余裕ですよ」
姫君を抱きかかえる護衛騎士はダラダラと冷や汗をかきながら答えた。そんなレオンハートにアルティリアは不安げに口を開く。
「レン、レンは……」
「白い髪、深緑の目、古めかしい衣装。季節感、地域性無視の植物だらけの庭。野菜とベーコンのスープにハムとチーズのサンドイッチ、胡桃の焼き菓子」
レオンハートは記憶を手繰り寄せる。あのフワフワとした雰囲気で人を煙に巻くような底知れない女。
翠の魔女。
「覚えています」
忘れてないぞ、魔女め。ざまあみろ。
レオンハートが微笑むと、アルティリアの目に再び涙が込み上げてくる。
「良かったあ」
「はは、本当に」
姫君はレオンハートの首に腕を回して、安心したように深く息を吐き出した。翠の魔女についての記憶はなくなっていない。これでアルティリアの側を離れずに済む。思わず姫を抱く腕に力がこもる。
「コラ、離れろ。不埒者め」
しかし、すぐそばにいたロゼッタにせっつかれ、渋々アルティリアを放した。
「アルティリア様、痛いところはありませんか?」
ロゼッタは地面に降り立った姫の体を丹念に確認する。かすり傷一つでもあったら許さんぞ。
「殿下、ご説明は頂けるのでしょうか?」
ナイトレイの問いにアルティリアは緊張しながら確認する。
「ナイトレイ隊長は何を知りたいのですか?」
「そうですね。特にあのワシャワシャ蠢く花について聞きたいですが」
魔女の記憶はその魔法についても消されてしまうはずだ。
「良かった、お怪我はないようですね。アルティリア様、あの花の使い手は姫の教育者の方の関係者ですか?」
アルティリアの体を確認し終わったロゼッタも問う。
二人とも翠の魔女の魔法を記憶している。移動は失敗したものの、親衛隊の忘却魔法解除は成功した。
「よ、良かったぁ!皆んな覚えてたー!」
思わず、ぴょんと跳ねてしまったアルティリアの足元にはタンポポが咲いている。そしてアルティリアの言葉に反応して、黄色の花びらが綿毛に変わると、小さな種は風に乗って空に消えていった。