翠の魔女 17
レオンハートは水の上を歩いてゆく。足を進めると、水面には静かに波紋が広がった。
「レンは私が気持ち悪くないの?」
「俺が貴女にそんな感情を抱くことはありえません。絶対に。空からカエルが降ってくるくらいありえません」
何を言い出すんだ、このお姫様は。そう言い切ったレオンハートにアルティリアは籠を片手で抑え、もう片方で空中を指差した。
「見てて」
しばらくすると、空から何かが降りてきて、ちゃぽんと音を立てて水に飛び込んだ。小さなカエルだ。カエルは水の中を泳ぎ、睡蓮の葉の上に飛び乗るとケロリと鳴いた。
「今のは、さすがに驚きました……すげぇ」
飛び出てしまいそうなほどに、目を大きく見開いたレオンハートの様子にアルティリアはくすくすと笑った。
「魔法はね、術式を組んだり、理論を組み立てるのではないの。“想像力”と“創造力”なのですって」
「だから、ここはこんなに美しいんですね」
「気に入った?」
「ええ、別宅を建設したいくらいです」
アルティリアは声を立てて笑う。先程まで体が固くなっていたようだが、緊張がほぐれていくのが伝わってくる。
「レンに嫌われたらどうしようかと思ってた」
「えーと、今度はダーシエ侯爵を降らしてくれますか」
「もう!」
姫君の笑い声はとても心地よい。どうか永遠に笑っていて欲しいと願う。そう考えていると、藍の空から星屑が降りてきた。1つ2つではなく、いくつも降り注ぎ、水面に当たると光の粒となって弾ける。弾けた光は蛍へと姿を変え、睡蓮の周りを漂う。
「ジジイより、こっちの方が断然良いですね」
「困ったお孫さんね」
「内緒にしておいてください。あのジーさん、自分のことを“ジジイ”呼ばわりしてるのに、孫に言われるとめちゃくちゃ怒るんですよ」
「ねぇ、レン。わたくしも内緒の話をしてもいいかしら」
「もちろん、ここは俺達しかいませんので、影口も悪口も愚痴も言いたい放題ですよ」
「そうね、わたくしとレンだけだわ」
先ほどまで凪いでいた水面がレオンハートを中心に揺れ始める。
「皇家では、わたくしのことは最高レベルの機密として扱われているの」
「親衛隊にも話せなかった理由は、それだけではありませんよね」
「ええ、レイフィットの住民だけでなく、側仕えでも、魔女様に関わると記憶を無くしてしまう人もいるの」
古の時代、翠の魔女は己と関わった者が、自分を忘れるよう忘却魔法をかけた。それは自身を守るための防衛魔法でもある。その魔法は根強く、アルティリアの関係者で魔女と関わりつつも、記憶を保てなかった者もいるという。
「わたくしの魔法が未熟だから、魔女様の忘却魔法を正しく解除出来ていないの」
師匠は弟子のために魔法を解除してくれるほど甘くないらしい。皇家の都合はこちら側で対処しなければならない。忘却魔法はアルティリア自身が対応しているが、上手くいかないことが多いという。
「記憶を保持出来ないのであれば、全て知らない方が安全ということですか?」
「ええ、記憶を保てない場合は、申し訳ないけれど、機密保持の制約魔術契約を結んでもらうことになるわ」
事前に説明したとしても、魔女に関わった際の記憶が消えた場合。説明を受けた事だけが記憶に残る。それが何らかの形で機密の漏洩に繋がる可能性がないとは言い切れない。
「わたくしが魔女様に教わったのは、魔法の基本的な事だけなの。それから魔女の知識と情報」
魔女はアルティリアに魔法の制御のみを伝えたという。それは魔女それぞれの特性によって扱う魔法も変わるからだ。魔女は皆、指導者から制御を学び、各々魔法を極めていく。
どこか神聖魔法に近しいものを感じる。神聖魔法も術者によって扱える神聖魔法が異なると聞く。神聖魔法の発祥は聖女が関わっているのではないか。
「魔女は人数が少ない分、知識と情報の共有が密にされているの。わたくしは魔女様に、それらを自由に学ぶ許可を頂けたわ」
翠の魔女の書庫には、世界に存在する魔女の知識と情報が集約されている。中には異世界の知識と言われる内容もあったという。
「もしかして真珠の養殖技術は」
「ええ、異世界の情報よ」
宝石を人の手で創り出す。
まさに魔女の叡智といってもいい。
何百年、何千年も生き、世界を見続けた魔女達。
彼女達はどれほどの知識と情報を手にしているのだろうか。
それらを駆使すれば、世界を手に入れることも不可能ではないだろう。
ふと、見上げると、星空の中に恐ろしく巨大な満月が、レオンハートとアルティリアを見下ろしていた。
世界ね。
俺はいらないけどな。
「あのね、レン」
「はい」
なんですか?
俺の可愛いお姫様。
レオンハートにとっては、世界よりアルティリア自身の方が重要であった。
「わたくし、結婚出来ないと思うの」
「はい?」
予想外の発言だった。既にアルティリアには国内の貴族だけでなく、各国の王族からも縁談の申し込みが多数きている。それを知らないはずはないのだが。しかし、すぐに、その言葉の意図に気付く。
聖女の資質、魔女の才、そして魔女の叡智。
それらを兼ね備えたアルティリアを他国に渡す事は出来ない。そうなると国内の貴族から選ぶべきだ。皇国貴族の皇族への忠誠心は高い。しかし国家を揺るがすほどの力を持つ可能性を秘めた力だ。
「わたくしは、皇族として最低限の義務も果たせないかもしれないわ」
何か一つでも間違えれば、皇国、いや大陸全土の勢力均衡が一気に崩れるだろう。
「マドリアーヌお姉様もカトレアナお姉様も相応しい方と婚姻しているのに」
マドリアーヌ皇女は古くから皇家支え続けた公爵家の一つアークライド家に嫁いだ。カトレアナ皇女はルヴァランの造船技術を飛躍的に発展させた設計士である侯爵令息と婚姻している。
「わたくしは、これから先、皇家の重荷になってゆくだけかもしれないわ」
アルティリアが嫁ぐ家は、婚姻する相手も、忠義心が強く優秀なだけでは相応しくない。皇国内と言えど選定が難し過ぎる。しかし姉皇女二人は10代後半には、それぞれ婚約しているし、二十歳には嫁いでいる。皇帝の掌中の珠と言えど、あまりに婚姻を引き延ばすとアルティリアに問題があると邪推する者も出てくるかもしれない。
「皇族でいることを、選ぶべきではなかったのかもしれない」
「待って下さい。貴女を皇女とするとお決めになったのは陛下でしょう」
アルティリアは俯いたまま小さく首を振る。
「お母様にわたくしが言ったの。お母様とお父様と、お兄様方やお姉様方と一緒にいたいって」
アレクサンドロスの判断を待つ間、フローリィーゼの意向でアルティリアは母と共に過ごしていた。夜、ベッドに潜り込んで母に抱かれていたアルティリアは、母に言ったのだ。皆と離れたくないと。娘の言葉を母は夫に伝えるだろう。
「それなのに何もかも中途半端で、お父様やお母様やお兄様方に負担をかけてばかりだわ」
「貴女は真珠の養殖を成功させたでしょう」
「でも、でもね……」
アルティリアが体を震わせた。俯いたままのため、その顔を見ること出来ないが、泣いていると分かる。
「わたくしが忘却魔法を解除出来なかった騎士は解任されるの」
アルティリアは最高機密であると同時に最重要人物でもあった。機密を共有出来ない護衛は不安材料となる。
「皆、わたくしのために心を尽くしてくれているのに、わたくしの力不足のせいで報いることが出来ない」
「それは……俺も可能性があるということですか?」
姫君は小さく頷いた。
「これまで、フェル兄様がレイフィットに同行をしていたのは、お兄様の親衛隊に二名だけ記憶を保てる騎士がいたからでもあるの」
アルティリアが忘却魔法の解除が失敗した場合は、親衛隊は解体となり、昨年のようにフェルディナンドが同行する事になるだろう。しかし、アルティリアが年齢を重ねれば、それは奇異に映る。
いつまでも兄皇子に依存する妹姫は、掌中の珠ではなく皇家の汚点になってしまうかもしれない。
「もし、ナイトレイ隊長やロゼも記憶を維持出来なかったら、皆、制約魔術を結んでもらって異動してもらうことになっているわ」
「そんな」
アルティリアは全て自分が未熟だからだと言う。
「ごめんなさい。ごめんなさい、レン」