翠の魔女 10
朝からアルティリアは少し緊張していた。本日はレシュタ湖で行っている事業の現地訪問だ。始めた頃は参考資料も圧倒的に少なく手探り状態。成功率も低いと考えられていた。そのためレイフィット領の事業ではなく、アルティリア個人の事業として始めている。
「大丈夫です。期待していて下さい」
文官のコーリーは言った。彼女はミルクティー色の髪に若草色の瞳をした美しい女性だ。レシュタ湖の事業の責任者として、現場監督官のトレバーと共に力を尽くしてくれた。
「コーリーを信じられない訳ではないの、ただ、本当に実現するなんて夢みたいで」
「ええ、本当に夢のようですね」
アルティリアはレネと馬車に乗り、コーリーとマーカスは別の馬車に乗り込みレシュタ湖のそばにある作業場まで向かう。
「アルティリア様、良い天気ですよ」
レネが馬車の窓を開ける。柔らかな風と、朝の光が差し込んできた。そして、レイフルの街を映し込んでいるレシュタ湖が見える。
レシュタ湖はレイフィットの海とも呼ばれ、水資源としてだけでなく、水運、漁業などで人々の生活を支えている。
この事業のきっかけになったのは、領主邸の書庫に残されていた記録だ。製本された古い記録の一文に、かつてレシュタ湖で採れた貝の中から宝石が発見されたとあった。ところが、それ以外に記述はなく、何かの間違いなのではと思われていた。
しかし自分の教育者の一人の助言と、その者が所有する文献を読み、その宝石の淡水湖での養殖の可能性を見出す。そう、アルティリアがレシュタ湖で実験的に始めた事業は真珠の養殖だ。
文献の技術を頼りに事業を始めたいと思ったが、アルティリアが常にレイフィットで事業の指揮を取る事は難しい。パートナーが必要だったが、実現性に乏しく協力者は中々現れなかった。
皇都の国立大学に併設される研究所を訪ねた際、トレバーに出会う。彼は当時、海洋学を学ぶ学生だった。
「養殖?面白いこと考えますねー」
「わたくしの教育者の方の所有の文献で見付けたの」
「その本、見せてもらう事は出来ませんか?」
「貴重な書籍だから、持ち出すことはできないの」
「殿下の事業の手伝いをしたら」
「写しなら、見せられるわ」
「やります!」
随分と好奇心旺盛の彼はあっさりと引き受けてくれた。相談をしに行った教授に言わせると、優秀だが、独自の感覚を持った変わり者らしい。
「教授、就職先決まりましたっ」
「……良かったな。だが、殿下にご迷惑をかけるでないぞ」
一見つかみどころがない青年だったが、田舎町レイフルにしっかり腰を下ろし、監督官にも関わらず肉体労働にも取り組み、街の住民達ともすぐに打ち解けた。
「僕も田舎街出身なので」
それから実はトレバーは領地は持たないが子爵位を継いでいる。
「研究者としては、あってもなくても良いかと思ってたので返上しようかと思ってましたが、この仕事を続けるなら持っていた方が良いかなと思いまして」
いずれ商人とも関わっていかなければいけないでしょうと彼は言う。確かに普通の平民では侮る者もいるかもしれない。だが、それは真珠の養殖が成功して、販売可能になってからだ。アルティリアはトレバーが失敗するなどと考えていないことに気付いて嬉しくなった。
ただ当時、領地経営立て直しに加え、シェプールを中心にした林業にリバリウス工房への支援などが始まり、人手不足であった。可能であればレイフィットの住民で良い人材はいないものか。
そんな時に出会ったのがコーリーであった。彼女は神殿に身を寄せ、神官達の手伝いをしたり、神殿に併設している孤児院で子供達の世話をしていた。
アルティリアは神殿を訪問した際、コーリーと話す機会を得た。コーリーは3年ほど前にレイフルに移り住んだというが、レイフィットの環境や地理、わずかに営まれている産業についても詳しい。どうやら他国で文官や役人のような仕事に携わっていたそうだ。また、彼女は気立と面倒見が良く、住民からの信頼も厚かった。
アルティリアはコーリーに領地経営やレシュタ湖での事業を手伝ってくれないかと相談するが、コーリーからは「自分が関わったら迷惑をかけてしまう」と断られてしまう。
「無理を言ってしまったかしら」
アルティリアは強引に誘ってしまったと反省したのだが、数日後コーリーは領主邸を訪ねて来てくれた。
「私でお役に立てるのなら、やらせてください」
神官達や孤児院の子供達に背中を押されたという。こうしてコーリーは領主邸で文官として働きつつ真珠の養殖事業を手伝ってくれるようになった。
「アルティリア様、到着しましたよ」
レシュタ湖にある作業場へと到着したアルティリアは馬車を降りるとレオンハートの手を取った。
真珠は貝の中に砂や寄生虫など、何らかの異物が入る事で、貝の防御反応が働き、異物を覆い込むようにして真珠層が形成され、つくり出される。
鉱山から採掘される他の宝石と違い、真珠は、主に東方の国で、海人または海女と呼ばれる者が海中に潜り、採集しているが、貝に真珠ができることは偶然によるものなので、非常に希少性が高い。
文献を元に母貝となる貝を育てることから始めた。その母貝を育成させることも難しく、全滅しかけてしまったこともある。
そして母貝に真珠層を纏わせる「核」を挿入するのだが、これは非常に繊細さを必要とする作業だった。入れ方によっては貝が衰弱してしまうこともあった。
ただ、嬉しい誤算もあった。レシュタ湖は自然が持つ魔力が非常に濃いようで、稚貝の育成が非常に速い。
「真珠の成長も速い可能性がありますね」
母貝の成長記録を確認しながらトレバーは言う。
「試験剝ぎを早めても良いかもしれません」
そう話していたのは去年のこと。
「お久しぶりね、トレバー」
「アルティリア様もご機嫌麗しく」
作業場の建物に入ると、トレバーと職人達が待っていた。彼らはアルティリアの到着を待ち侘びていたようだ。
「養殖期間の違う母貝を複数準備しております。早速ですが、浜揚げしてみましょう」
「ええ、よろしくね」
テーブルに準備されているのは母貝であるラク貝と呼ばれる貝で、レイフィットでは古くから食用として親しまれていた。一見、半円の平たい石にも見える。
「養殖期間は1年、2年、3年の三種類です」
今年に入り、実験的に何度か試験剝ぎを行っており、いつくか成功例もあったとの報告を得ていた。だが、それは宝石と認められる程の品質ではなかった。
文献によると、美しい光沢を持つ真珠が採れる時期は気温が下がる時期だという。春から試験剥きを行ってきたが、秋に入ったこの時期はどうだろうか。
トレバー自ら貝を開く。
「まずは3年間養殖したものです」
殻をを少し開き、真珠を傷付けないために作成した先の丸いナイフを入れ、二つに開くと、肉厚の貝柱が現れる。岩のような外側と違い、内側は美しい真珠のような光沢がある。
トレバーは貝柱をピンセットで軽く押しながら探っていく。すると丸い膨らみが見てとれた。そこにピンセットの先を入れると、小さな白い球体が取り出される。それは柔らかな虹を纏わせたような美しい輝きがあった。
紛う事なく真珠であった。
「綺麗ね」
アルティリアが呟くと、周囲から歓声が上がる。
「今までの試験剥きの真珠で一番美しいですよ」
トレバーは大きさを測る。
「大きさも、10ミリを超えているかもしれません」
続けて他の貝も開くと、残念ながら育たなかった貝もあるが、柔らかな輝きを持った真珠を多数取り出すことができた。
トレバーは全ての真珠の計測結果を見て言った。
「だいたい平均して、養殖期間1年は5ミリ程度、2年は8ミリ、3年ならば1センチ超えとなりましたね」
養殖期間3年の真珠は、大きさもさることながら、テリも色も輝きも美しい。天然の真珠と遜色はない。
「トレバー、一部は引き続き養殖を続けて。今後は3年を過ぎた貝から浜揚げしましょう。取り出す時期によって品質が変わるようだから、最も良い時期を調べて」
「はい」
アルティリアはテーブルに置かれた白く輝く一粒を掬い上げる。
「本当に美しいわ。トレバー、コーリー。皆んな、ありがとう」
貧しく森と湖以外何もないと言われたレイフィット、この地で、世界で初めて、人の手で宝石が創られたのだ。
「皆んなのおかげよ」
この真珠は間違いなくレイフィットを変えてゆくだろう。
「 翠の魔女 04」で話していたレシュタ湖を利用した事業は真珠でした!当たってた人いるかな!?




