翠の魔女 03
なんて、きれいな音。
なんて、優しい音色。
アルティリアが知っているバイオリン中で間違いなく一番素敵なバイオリンだ。
弾き終わると店内に静寂がおりる。背後ではフェルディナンドや大人達が固まっているのだが、アルティリアは気付かず、アントンに礼を言う。
「ありがとう、とてもすばらしい音だわ」
「バイオリンが好きなのか?よく練習しているな」
「ええ、一番好きな楽器なの。まいにち、れんしゅうしてるのよ」
アントンはうむと頷く。
「音を聴けば分かる」
褒められたアルティリアは嬉しくなって、恥ずかしそうに微笑む。
「それは持っていくといい」
「よろしいの?」
飛び跳ねそうになる気持ちを抑えて尋ねた。
「うれしい!おいくらかしら?」
世界一のバイオリンだ。それを譲ってくれると言う。しかも生まれて初めて、製作者から直接、購入する機会が訪れ、高揚感が鰻登り。
ところが、アントンは渋い顔で首を横に振った。
「いらん」
「だめよ、おだいをおしはらいするわ」
「いい」
「ちゃんと、おとうさまから、おこずかいをもらってきてるから、だいじょうぶよ」
「持って行け」
お買物をしたい少女と、頑固な中年親父の攻防が止まらない。
「とと、父さん、いや親方。せっかく、皇女様が仰ってくれているんだよ」
父親よりは空気の読める息子が、止めようと声をかけると、アントンはぐるりとクレオに向き直る。
「皇女様だろうが、お姫様だろうが、子供から金なんぞ取れるか!」
親父の怒鳴り声が轟いた。小さい女の子に向かって怒鳴るほど落ちぶれた爺ではないが、代わりに息子がガツンとやられてしまう。
アントン・リバリウスは弦楽器を愛している。より美しい音色を奏でる弦楽器達を創造するべく生涯を捧げた彼は、己の製作したバイオリンを愛してくれると判断した相手ならば、どれほど長い時間をかけ、知恵を絞り、手をかけ、魂を込めて誕生させた作品であっても受け取ってもらえれば、それで良しとする男であった。
一言でいうとバイオリンが好きなら遠慮すんじゃねぇ。
しかしアルティリアはと言うと困っていた。これは、祖父母がやたらとアルティリアに物を買い与えたがる現象と同じだと判断していた。
だがバイオリンや弦楽器が、どれほど時間と労力をかけて製作されているか知っていた彼女は、無料でもらって帰るなど出来ない。
大声で怒鳴られても、この男が優しい人間であると直感していたし、なんならジークフリードの方が声は大きい。
しかし周囲の大人達はそうは思わない。皇女の前で大声を張り上げるのは、流石に無礼だろうと代官が注意しようとするが、フェルディナンドに制止された。
そして兄皇子は妹のそばに進み出る。
「アルティリア、職人が君にバイオリンを献上したいと言っているんだよ。受け取るべきだ」
「けんじょう?」
父や母、兄に贈られる美術品や工芸品、宝飾品やワインや茶葉などの嗜好品。それらの生産者や製作者にとって、皇族へ献上することは大変な名誉である。
嬉しさと照れ臭さでアルティリアの頬は赤く染まった。とても嬉しい。子供の自分にはまだまだ関係のない事だと考えていた。
「あ、ありがとうっ。たいせつにするわ」
おとなの、こうぞくみたい!
当時は、まだまだ感情の抑制が出来ないお年頃であった。
アントンはアルティリアの言葉を聞いて、満足したのか、踵を返して戻ろうとする。
「まって、おじさま!」
それを小さな姫君が呼び止めた。
「このバイオリンも、クレオにかしてもらったバイオリンも、とてもすばらしいわ。この音色をいろんな人に知ってもらいたいの」
アントンはむすりとした顔でアルティリアを見返している。
「みんな、おじさまのバイオリンが大好きになるわ。わたくしに、その、おてつだいをさせてほしいの」
バイオリンを抱えたままアルティリアは歩み出て、頑固に口を結んだ顔の男を見上げた。
「おねがい、おじさま」
アントン・リバリウスは貴族も商人も信用していない。皇族とて同じだった。例え、子供だろうが、それは変わらない。
「だめかしら?」
しかしこの時、何が彼を変えたのか。
「……好きにしろ」
「ありがとう、おじさま!」
これが、弦楽器の巨匠、バイオリンの神などと呼ばれるアントン・リバリウスと、彼を見出した第三皇女アルティリアの出会いであった。
「ただし“おじさま”はやめてくれ。むず痒くてたまらん」
「じゃあ、おやかたさん?」
「“さん”はいらん」
「おやかた!」
「む」
記録にはアントンが献上したとあるが、その前に、幼児と親父の「おこづかいあるもん」「お代はいらん」の攻防があった事は記されていない。
そして、アントン・リバリウスは、アルティリアに渡したバイオリンだけでなく、その後の生涯で、ヴィオラ、チェロ、マンドリン、コントラバスなど、最高の仕上がりと判断した弦楽器は皇女に献上した。
「めちゃくちゃ喜んでくれるのが嬉しくて、知り合いの子供に手作りの玩具をあげる感覚なんじゃ……」
息子クレオは密かにそう思っている。
どんな理由にせよ、それら全て、値段が付けられぬ程の価値を持ち、数百年後、ルヴァランの国宝と指定されることとなる。
だが、それは遠い未来の話。
近い未来。
この後、レイフィットから皇都に戻ったアルティリアは、アントンから貰ったバイオリンを手に皇宮を混乱に陥れた。
アルティリアのバイオリンの師はルヴァラン交響楽団のバイオリニストであった。
皇国最高峰の楽団であるルヴァラン交響楽団は、大陸一と言っても過言ではない。宮廷音楽家でもある彼らは、皇宮の大広間にて練習をしている。
幼児アルティリアの行動は至って単純だった。
すてきなバイオリンをもらったから、せんせいにみてもらおう。
自分のバイオリンのレッスンの日まで我慢出来なかったアルティリアはオーケストラが練習している広間を訪ねた。アルティリアの教師、ロイルヤードはバイオリンパートのリーダーでもある。
「せんせい、見てください。せかいで、いちばんのバイオリンです」
「どれどれ」
などと言いながら、休憩時間に小さな生徒の持ち込んだバイオリンを見る。姫君が持ち込んできたバイオリンは二挺ある。その一挺を取り出すと。
「小さいですね」
「わたくしのために、わざわざつくってくれたのです」
姫訪問のあとすぐ、アントンはせっせともう一挺バイオリンを製作した。五歳のアルティリアが練習するならば体に合ったサイズの方が良いだろうと。
クレオは尋ねた。
「親方、何を作ってるんだい?」
「アレは姫さんにはちいと大きいからな。ほら、領主邸まで届けて来い」
「自分で渡せば?皇女様、お喜びになるよ」
「良いから持って行け!」
それまではなかった子供用のバイオリンである。
「なるほど、これは中々」
小さいながらも素晴らしい名品だ。大人と同じバイオリンでは練習しづらい、これならば確かに五歳のアルティリアにとっては世界一のバイオリンだろう。この小さいバイオリンの制作者はかなり優れた技術をもった職人だ。孫達にも製作を依頼出来ないものか。
「いや、本当に素晴らしい」
周囲にいたバイオリンパートの者達も興味があるようで、チラチラとこちらを見ている。
「それでね、せんせい、こちらが、おとなようのバイオリンですわ」
そう言って、渡されたバイオリンこそ、未来の国宝。
「これは……」
ロイルヤードは手に取った瞬間、鼓動が速くなる。これは、己が知りうるバイオリンとは圧倒的に違うと直感した。
ロイルヤードは改めてバイオリンと弓を構えると、超絶技巧曲と呼ばれる難易度の高い曲を弾き始める。
宮廷音楽家達は動きを止め、ただ、その音に聴き入る。
全員が殴られたような感覚を覚えた。
それは圧倒的で揺るぎない。
全身が泡立つような祝福。
曲が終わると、誰かが呟いた。
「神よ」
ああ、なんてことだ。
この音楽の神に選ばれし神器。
このバイオリンが存在する国に、時代に生まれたことを感謝致します。
ロイルヤードの目から涙が一雫流れた時。
遠くから足跡が近付いてくる。
「今のは何だーー!」
老体にも関わらず、皇宮を駆け抜けてやってきたのは、ルヴァラン交響楽団の指揮者である。この前、腰が痛くてたまらんとか言ってませんでした?
「誰か説明しろーー!」