翠の魔女 02
アルティリア一行は数日かけてレイフィットに向かっていた。そして本日、領都レイフルへと到着する。
レネが少し外の空気を入れましょうと馬車の窓を開けると、蒼く澄み渡ったレシュタ湖が見えた。
「美しい湖ですね」
湖を見つめていると、馬車の横を並走するレオンハートがアルティリアに声をかけた。
「そうでしょう」
自分の領地が誉めて貰えると嬉しいものだ。
「レイフィットには精霊の言い伝えがあると聞きました」
姫君の所領訪問のために、レイフィットについてレオンハートも調べている。地理的な事はもちろん、その歴史、気候、人口、産業、出入りの商人や周辺領地の貴族家まで。その中で、少し珍しい伝説を見つけた。地元の人間のみに伝わる言い伝えだ。
レシュタ湖のそばの森には美しい精霊が住むという。
その精霊は時折、レイフルの街に降りてくるそうだが、精霊が去ると関わった者達の記憶はなくなってしまう。確かに美しい存在と言葉を交わしたはずだ。しかし、それが男だったか、女だったかさえ、覚えていない。商店やバザールの者達の中には「鍋を買っていった」「ベーコンとソーセージを売った」「魚のいきの良さを誉められた」などと言う者もいる。
「レイフィットに行ったら、レンも精霊に会えるかもしれないわね」
自分の領地について、楽しそうに話す姫君は可愛い。とても可愛い。
「ここは、それなりに広さのある領地なのだけど、山と湖の占める割合が多くて、大規模な農園や畜産を行うには適していないの」
もちろん、そうした生業を行なっている者達もいるが、産業として発展させていくには難しい。
レイフィットは言うなれば、何の変哲もない貧しい田舎であった。アルティリアはまずは領民の生活を整えることを優先させた。レイフィットの環境に見合った農作物を調べ、土壌を整える。巨大な湖があるので水には困らないが、水害対策は十分だろうか。備蓄は充分か。町民や村人が困らぬよう、街道を整備し、橋の補修も行った。
同時にレイフィットに産業となるものはないか調査する。すると領都であるレイフルに、領都と言っても、とても小さな街なのだが、その外れに弦楽器の工房を営む親子が住んでいることを知る。あまり商人の行き来のないレイフィットで楽器造りとは珍しい。製作したとしても、売買が出来ているのだろうか。
「気になるなら行ってみるといい」
当時、アルティリアは五歳。
1年ほど前から、やたらとアルティリアを構うようになった兄のフェルディナンドからの助言を受け、工房を訪ねたい旨を連絡し、訪問することとなった。
約束の日に護衛騎士達とレイフィットの代官のマーカス、そして兄と共に工房へ向かう。工房は赤い屋根の可愛らしい家だった。通りに面している部屋は店舗になっているが一言で言うと寂れている。
「ごきげんよう。おじゃましますわね」
アルティリアを出迎えたのはヒョロリとした青年だった。
「ききき、きゃっ、恐縮でござっ、ございまふ。皇女殿下におきましてはリバリウス工房へお越し頂き、身にあまる光栄ござり、まする」
クレオ・リバリウスと名乗った男はカチコチに緊張していた。
店内は慌てて掃除をしたようで、ピカピカと言えはしないものの。綺麗に整頓されており、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ギター、コントラバスなど、様々な弦楽器が並んでいる。
「わあ。こんなに、たくさんあるなんて。お一人でいとなんでいらっしゃるの?」
「えっ。実はとうさ、いえ、父の親方と一緒に製作しております。すみません!」
クレオの父である親方は、作業場から出てくるのを拒否し、仕事をしているという。
「お忙しいのね。おじゃましているのは、こちらなのだから気になさらないで。それより、おしょうばいは、じゅんちょうかしら?」
息子は土下座するような勢いなので話題を変える。
「ええと、その……この辺では、あまり楽器を演奏する人はいなくて」
アルティリアの背後にいる代官や護衛騎士達は「そうだろうなぁ」という感想しか抱かない。田舎町レイフルの住民の殆どは平民だ。裕福な平民なら音楽を嗜むこともあるが、貧しい、この街で弦楽器を弾く者はいないだろう。
また、大した産業もないため、商人が訪れるとしたら生活必需品を販売しに来るくらいだ。
「家具の修理でなんとか食い繋いでます」
それでも彼らがレイフィットで工房を構えた事には理由があった。レイフィットの山にあるマツ科のシェプールという木材だ。とにかく素材に拘る親方が長年探し歩いて見つけた弦楽器に最適な素材だという。
ただし、ルヴァラン内ではシェプールは殆ど流通してしおらず、レイフルの木こりから直接買い付けるしかない。「シェプールじゃなきゃダメだ」という親方の拘りのため、リバリウス工房はこの街に居を構えることになったそうだ。
「もし、ごめいわくでなければ、ひいてみたいのだけど」
アルティリアは三歳の頃から音楽を習っており、教養科目の中でも、特にバイオリンが大好きだ。毎日欠かさず練習している。
「どっどどっ!どうぞ」
クレオは一度、店舗の奥の部屋に戻ると、一挺のバイオリンを持ってきた。そろりとアルティリアに差し出す。その手はプルプル震えている。
「ありがとう」
アルティリアは受け取ったバイオリンを構えると、最近、演奏している練習曲を弾いた。緩やかな音が部屋に広がっていく。
妹のやる事なす事は全て可愛い素晴らしいと思っているフェルディナンドであったが、それとは別に感心した。皇宮で使用されている楽器は全て一流の職人が手掛けた最高級品だ。しかし、どうしたことか。この田舎町レイフィットの小さな工房のバイオリンは、それらに引けを取らない。
可愛い妹姫は宝を探し当てた。
フェルディナンドは眼鏡をかけた背の高い男に視線を送ると、心得ましたとばかりに頷く。代官であるマーカスだ。彼も皇族が支援するに相応しい工房であると判断した。
一方、クレオは堪らず涙と鼻水が溢れた。ひっそりと造り続けた様々な弦楽器。まさか、自分の製作したバイオリンが皇族の手に取ってもらえる日が来るなんて。この日は、この時間は、彼にとって生涯の宝となった。
「あ、ありがっ、ありがどうございまず!」
アルティリアが演奏し終わるとクレオは叫ぶ。
「とんでもないわ。こちらこそ、ありがとう……」
店の奥から観察するような視線を感じたので、振り返ると、無精髭を生やした大柄の中年男がアルティリアを見ていた。
「父さん!?そんな格好で!?し、失礼だよっ!」
髭も剃らず、作業着のまま現れた父の姿にクレオは卒倒しそうになる。
クレオの父は貴族嫌いの商人嫌いだ。楽器を粗末に扱った貴族達、楽器を不当に買い叩こうとした商人達、どれほど権力があろうが、裕福であろうが、父は怒鳴り蹴散らし、折れることはなかった。その度、リバリウス親子は逃げるように、その地を離れ、生まれた国さえも出て、皇国の田舎町にやっと根を下ろせたというのに。
確かにクレオも傲慢な貴族達に煮湯を飲まされてきた。皇族の訪問の知らせを聞いた時は、どんな高飛車な姫がやって来るのかと戦々恐々としていた。店舗に展示してある楽器は二級品だ。大切な作品達を、昔のように因縁を付けて壊されたりしてはたまらない。
しかし深い緑色の外套を着た小さなお姫様を見た時は、森から精霊の子供が訪ねてきたのかと思った。そして平民であるクレオを見下すことなく、礼儀正しく穏やかだ。試し弾きを希望されたので、慌てて隠しておいた自分の自信作を持ってきた。
想像した通り、お姫様はクレオの製作したバイオリンを丁寧に大切に扱ってくれている。もし、父がこのお姫様を傷付けるようなことをしようものならば、親子の縁を切ってでも止めよう。
そう決意したクレオだったが、父の手に持つ一挺のバイオリンを見て、父が姫に無礼をするつもりではないと気付く。
それは父が納得した数少ない作品の一つ。
父はのそりと進み出ると、姫君にバイオリンを渡す。
「これが……この工房で一番良いバイオリンだ」
父さん、敬語つかって!
再びクレオは倒れそうになるが、アルティリアは気にも留めていない。
「まあ、ひいてもよろしいの?」
クレオの父は頷く。
「ありがとう。きれいなバイオリンね」
アルティリアは宝物を扱うようにそっと、バイオリンを構えると、先ほどとは違う曲を奏でる。それは母フローリィーゼが大好きだと教えてくれた楽曲で、自分がバイオリンを習いたいと思ったきっかけになった曲だ。
代官も護衛騎士達も皆、貴族だ。彼らもフェルディナンドも一流の音楽家、一流の楽器を知っている。
大陸中の音楽家達が競い合い、皇宮の宮廷音楽家を目指し、集まってくる。彼らの持つ弦楽器もそれに相応しい音を奏でる名品ばかりだ。
クレオが渡したバイオリンもそれに等しいと言えるが、これは、あまりにも格が違い過ぎだ。
この音は、まさに神の音色。
後の世で、弦楽器の巨匠、バイオリンの神と言われるアントン・リバリウスの最高傑作といわれるバイオリンであった。